<耳切れ、ならぬ、鼻切れ・・・>
いよいよ、2月も最終日…時間がたつのが、はっ、はやい!(泣)
おかげさまで、ふっくんは元気です。
先週は、ひっくんが高熱を発し、ねこんでいました・・・。この2月、すでに1週目に3日ねこんだふっくんは、熱こそだしませんでしたが、ひっくんとふたり、よく鼻をかんでいました。(あっ、かぜじゃなくて、花粉症!?)
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左足もだいぶよくなってきました。 実は、膝の裏が、ちょっとひどいのですが ただいま「よくなっている」自慢モード突入のふっくんは うつしたくないよう・・・(笑)。 |
でも、全般的に身体は、きれいです。先週は、なんだかわやわやしているうちに、きづけば保湿もしていませんが、あまりかわりありません。
もっとも、夜のねいりばなは、ぼりぼりかいています。
<いまの状態でできることをかんがえる>
この週末、ダンくんは、弱視の方(たとえば、「すーさん」とします)に話しをうかがう機会があり、「医者な〜。これ以上よくならんとおもったら、やっぱり、関心なくなんねんな〜。アトピーと一緒やって」と、かえってきました。
現在の眼科の基準では、0.04以下は「字が読めない」ことになっているそうです。
しかし、すーさんは0.01ですが、新聞がよめる。拡大読書機や拡大鏡を駆使して、その人は、読書も楽しんでいます。が、おおくの医者は、そんなことには関心がないようで、視力の回復のみこみのない0.04以下の患者さんに、あっさり「もう、字はよめません」と点字の学習をすすめる。
そして、弱視ではないおおくの親も、そう思い込んでしまうのだそう。親にしてみれば、「弱視が改善しない」と宣告された時点でがっくりきてしまって、現状を認めて、そこでできることを模索する意欲が奪われてしまうのかもしれません。
実際、拡大鏡にも使い方があり、マスターするにはこつがあるようですし、拡大読書機もこじゃれた外国製のは、縦書きがよめなかったり、つかいにくかったりもするようです。でも、当事者ではない人は、そんなことには気づかず、「機能がよさそうにみえ」たり、「おしゃれな外観」の外国製品なんかを買い与えてしまって、当事者がうまく使いこなせず、実際は機械の不具合にもかかわらず「あ〜、みえないんだ」と結論づけてしまったり・・・と。そのすーさんは、これまで試した拡大読書機なんかも自宅に展示してその使い方のこつと、特徴などもくわしく解説していらっしゃるそう。
また、この拡大読書機も高額らしいですが、弱視の方には申請すれば補助金がでるそうです。でも、医療者も自治体も、宣伝はしない。聞かれたらその存在を教える程度だそう。
こうしたこまかい配慮、いまある条件でどんな工夫ができるのかといったことを、いまの医療制度は考えてくれない。そんな話だったのだと、私は理解しました。
この話で思い出したのが、知人の憤慨です。彼女の家族が事故にあったとき「これ以上、改善がみこめない」となると、大病院からどんどん小さい病院に転院させられ、最後は放棄されたとなげいていました。
「完治すること」「改善すること」が目標に設定されているとどうしてもそうなってしまうのでしょうね…。「医学の進歩」って、なんなのでしょう…。
<「完治」をめざすと・・・>
たしかに、アトピー治療の現場も同じような気がします。お医者さんは「完治」をめざすから、よくなったりわるくなったりする患者さんとつきあうのが、いやになる。もう、めんどうだから「ステロイドつかうのが、一番」なんて標準治療で、手をうとうとする。
もっとも、患者の側にも責任はあって「完治する方法、かんがえろ!」なんてつめよったりしてしまう。
「完治」しないと、だめなんでしょうか・・・。社会には、いろんな事情をかかえつつ生きている人がたくさんいます。
「完治」をめざすことは、そんな「障害」「不治の病」「持病」をかかえる人の否定にもつながるような気がします・・・。
そうした意味では、「ステロイド以外の方法」を模索して、患者さんと、いかに「いい状態」を維持するかに悩み、そのこころみの是非をみまもってくれるお医者さんの存在は、すくわれる思いがします。ありがたいです。