2010年11月30日火曜日

「標準治療」の問題は、ステロイド使用だけ?

2010年11月30日(火)
<「標準治療」で「そこそこ」をめざしていたのに…>
さて、昨日、私は「そこそこ」をみつけられるといいと書きました。「完治めざして、ふりまわされるのはやめましょう」と。しかし…
ノブコフさんに、コメントをいただいて、あらためて思いました。「標準治療」の存在は、けっこう罪だと…。
ノブコフさんが20数年「標準治療をしてきたのに!」と書いていらっしゃるように、私もこれまで、「アトピーにこんなのいいよ」とさまざまな知人に言われても、「ちゃんと医者かよってるから、大丈夫」と、ふっくんに「標準治療」しかしていませんでした!!
それでも、よくならなかった…どころか、ひどくなった…(と主観的には思っています)。
あーちゃんも「たしかな治療を!」と大学病院をはしごして、「標準治療」に邁進して、「ひどくなった!」と脱ステを選択しています。こうめさんもまた、「標準治療」をうけつづけて最終的に脱ステを選択…。


<アトピービジネスにはしる原因は、アンチ「標準治療」なのか?>
むろん、ノブコフさんと、あーちゃんと、こうめさんと、ふっくんが、標準治療でたちゆかない、正規分布のはしっこのグループだった可能性もあります。しかし、あらためて…
「標準治療」どうなんですか?と、問いたいです…。
「標準治療」にまじめにかよう人たちは、おおくの人が、「ちょっとでもこのつらさをしのげれば…」と思っていらっしゃるでしょう。なのに、なのに、悪化です。
竹原和彦先生は、『アトピービジネス』のなかで、「脱ステ患者=アトピービジネスのえじき」のごとく書いていらっしゃいますが……ぜひぜひ、こうした「標準治療」をまじめにうけていたにもかかわらず悪化した人の追跡調査をしていただきたかったです。アトピービジネスにはまるのは、「標準治療」に背をむけた「ばかな/非科学的な」人ではなく、「標準治療」をまじめにうけつづけていたにもかかわらず、「そこそこ」でとどまれず、悪化したからこそ逃げ出した人たちだとおもいます。それを「もともとのアトピーが悪化した」と片づけるのは、医者としてどうなのか…。



<医者の権威>
もちろん、医者の倫理に訴えるのは、戦略としてどうかとは思いますが…。でも、でも、「医者」の権威は強いことを、お医者さんたちはほんとうに知っているのでしょうか。

まえにaccelerationさんが、「『医者の世間知』って具体的になんですか?」ときいてくださって…そのときに「近所のおばさんでも、いいそうなことを言える」と書きました。しかし、実際には、近所のおばさんに「だいじょうぶよ~」と笑ってもらうのと、医者に「だいじょうぶよ~」と笑ってもらうのとでは、受け手の印象はかなりことなります。

たとえば…ふっくんは、最近、いっしょうけんめい肉を食べています。彼は肉がきらいです。牛乳も好きではありません。が、「先生になんでもたべなさいっていわれたもんね」「たんぱく質とると、皮膚も丈夫になるし、背ものびるんだって」と、一生懸命食べています。毎日、牛乳のかわりにヨーグルトとチーズもたべはじめました。「牛乳はのこさずにのもう」「おやつたべるなら、チーズにしたら?」「お肉はのこさない。食べると大きくなれるよ」そんなことを、親がいつも言ってもききません。でも、おなじことをお医者さんが1回言えば、「そうか~」と6才のこどもでも納得するのです。
白衣をきて診察室にすわっている。ただそれだけで、これだけの威力を発することを、「標準治療」だけを宣伝するお医者さんたちは、考えてくださっているのでしょうか…。

<ステロイドの使用方法は、徹底可能か>
いつも、アトピーをかんがえていると、考えはここにまいもどってしまいます。
「標準治療」、やはり問題かかえすぎですと。
それは、皮膚科医がいうように、「塗りからをきちんと指導できない医師がいるからだ」で片づけられる問題なのでしょうか。
厚労省の統計では、2004年度、日本の医師数は約26万人、そのうち皮膚科医は7780人、小児科医14677人、つまり、アトピーのこどもにステロイドを処方する可能性のある医師は、2万人強、いるわけです。2万人の意志統一って、ほんとうにできるんでしょうか?
20人なら、ステロイドの使い方をきっりち指導できるかもしれません…。でも、2万人…アトピーの患者さんは、個人差も悪化要因も、まちまちなのにです。
さらに言えば、いつかご紹介したアレルギーの大家であらせられるという医師、スライドをつかってステロイド軟膏の使い方をきっちりレクチャーされていましたが、ご自分の患者にすら「この患者さん、ステロイドつかいこなせるんでしょうか? 知的障害ありそうですから」などとおっしゃっているわけです。つまり…。「きっちり指導された/する立場にある」医師ですら、患者の薬の使い方を制御するのは不可能だと自ら告白しているわけです。
なのに、「ステロイドはきっちり使えばこわくない」なんて、どうして宣言できるのか…。

<自分のことを、自分できめる>
もうひとつ…医師が、患者を「自分のいうことをきくべき存在」とみなす態度は、どうなんでしょうか?
いま、ふっくん楽しそうです。毎日私に「かゆい!」とおこり、その私に「じっとしててよ!」と叱られながら、ステロイドをぬられる「アトピー客体」だったふっくんが、ステロイドをやめてから「う~ん、今日はどうしようかな~。ここはきれて痛いから、保湿しようかな。ここは、じくじくだから、マキロンにして、あとは、ぬらない」など、自分で肌の状態をたしかめつつ、自分できめようとしています。その結果がわるければ、ときには私にやつあたりもしますが、「こんどは、あーちゃんおすすめのにがり入り塩ためそうかな~」など、試行錯誤をしています。まさに、「アトピー主体」として自分の皮膚にかかわっています。たしかに、すごく回り道のような気がします。でも、彼がアトピー体質である以上、重要なステップのような気がするのです。
かりに、ステロイドがふっくんに有効であったにしろ、薬に依存的であったこれまでより、ずっと望ましい態度だとおもいます。このさき、ふっくんの肌状態がどうなるにしろ、私はやはり「ステロイドやめてよかった」という気持ちはかわらないと思います。


<患者の「試行錯誤」につきあう>
お医者さんは、もしかしたら、救世主/万能願望をもっていらっしゃる方がおおいのかもしれません。「先生、かゆいです」「ほら、これでなおりますよ」と断言して、患者をてばやく苦境からすくいたい、自分の意見をきけば楽になれると示したい…。でも、そうしたら、患者はいつまでたっても、医師にたよりきり…。
そいいった意味で、しーな先生は、理想的なメッセージをくださったと思います。かたくなに「佐藤健二先生療法」にこだわる私に、
「でも、ちょっとくらいなら保湿もためしてみたらどうですか? 抵抗あるなら、実験のつもりで塗る場所と塗らない場所をつくったり、なにをぬるか、配合をどうするか考えてみたり。この程度のアトピーなら、まだ大丈夫。アトピーは、季節によっても、個々の患者さんによっても、かなり違います。じっくり、なにをすると調子がいいのか、この程度のときにえらんでいくのがいいとおもいますよ」とおっしゃり、ふっくんにも「実験してみたら? もし、すごくひどくなっちゃったら、先生、ちゃんとそのときはみるからね」と言ってくださいました。
患者の疾病に気長につきあいつつも、専門家としていざというときのためにひかえていてくれる…。
理想的な態度だとおもいます。さらに、これはアフターケアに自信がないとでてこない台詞だとも思います。勉強している医師だからこそ、フォロー方法にもストックがあり、患者の試行錯誤につきあえる。しかし、地位や予算の獲得に熱心な医師は勉強するひまがない。だからこそステロイドをつかった「標準治療」で統一することに熱心なのかもしれません。マニュアルの存在は勉強不足をかくせますし、なにかあったときに「マニュアルに従っただけだ!」と責任転嫁もできます。
ちょっと厳しすぎるでしょうか…でも、「標準治療」をおしすすめようとする医師たちの存在は、ジョージ・リッツア『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、1999年)を思わせます。

<「マクドナルド化」する医療現場?>
リッツアさんは、マクドナルドの特徴を4つあげています。「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「制御」です。
以下、彼の主張をまとめてみます。

【効率性】「マクドナルド化した社会では、人びとが自分の目的を達成するために、最適の手段を追求することはめったにない。むしろ、人びとは、さまざまな社会状況においてすでに発見され制度化された最適手段を利用する」(p.71f.)
*欠点は、非合理性をうむこと
【計算可能性】
「ものごとを数えられること、計算できること、定量化できることが重視される」「過程について重視されるのは(通常高速の)スピードであるが、結果については、生産され客に提供される(通常大量の)商品の数が重視される」(p.106)
*欠点は、量の重要視が、質の低下をうみやすいこと
【予測可能性】
「合理化された社会は規律、秩序、システム化、形式化、ルーティン化、一貫性、組織的な操作といったものを重視する。そうした社会では、人びとはほとんどの場面や時間において何が期待できるかを知りたがる」(p.134)
*欠点は、個々人の知識や知恵が反映されにくいこと。
【制御】
「人間を管理するため、長い年月をかけて技術体系が開発され普及されてきた」(p.165)
*欠点は、個々人の判断より、機械の判断が優先される。

リッツアさんはこのマクドナルド化の図式にそって、医療の現状も考察しています。彼によれば、合理化の結果、「医師はそれぞれのケースに対する自分の医療判断に依拠するかわりに、規則や規定、上司の決定または技術上の指示に従って決定を行う傾向をしだいに強めて」(p.222)おり、患者の側は、「自分が医療の作業ラインに乗せられている商品のように」(p.222)感じさせられるといいます。

知人のひとりが、「こどもを皮膚科につれていったら、3分どころか、15秒診療だったよ。一瞥して、「アトピーか」って一言。あとは、看護師さんに「ステロイドの塗り方説明しながら、ぬってあげて」と声をかけ、パソコンにむかった処方箋書いておわり。私たちをちゃんと人としてみているのかしら!もう、医者かわりたい。でも、どの先生なら、ちゃんとこどもとむきあったくれるのか、わからないよ」と怒っていました。

まさに、リッツアさんの指摘どおりのことがおこっています。そして、この皮膚科医のとっている態度は、まさに「標準治療」にのっとったものです。
「標準治療」は、診療時間が短縮できます。どのくらいの薬剤が処方できて、どのくらいの収益があるか計算も可能になります。ここの患者さんでおもいなやまなくてもルーティンとして診療できます。「標準治療」にそっているから「ただしい」
なおらないのは、指示をまもらないあなたのせい」と患者さんを制御することもできます…。

いや、もちろん「標準治療」を推進される先生方が、「15秒診療」のお医者さんをふやそうとしているわけではないとおもいます。しかし、「標準治療」をうちだすこと自体が、こうした診療を可能にしていることもまた事実です。

そういう意味において、たしかにaccelerationさんがおっしゃるように、皮膚科のステロイドと精神科の向精神薬はにているかもしれません。向精神薬の投与もまた、「診療の合理化」を推進します。
「べてるの家」に登場する浦河赤十字病院のお医者さんたちは、患者さんにぶんぶんふりまわされながら、つきあっています。
それを「応援している」と表現しています(浮ヶ谷幸代『ケアと共同性の人類学ー北海道浦河赤十字病院精神科から地域へ』生活書院、2009年参照)。患者さんを「応援する」。「応援する」ピアを看護師が、応援する。「応援する」看護師を医師が「応援する」。「応援する」医師を、患者さんが「応援する」…。ぐるぐるまわる、ややこやしい、でも個人的な関係がはりめぐらされ、そのなかですったもんだしながら、生きています。今の社会から逆行しています。
しーな先生も、診療時間、2回にわけて20分。電話で30分…。「合理的」とはとうていいえません。でも、もしかしなくても、3年以上かよった「つかちに先生」より、たくさんしゃべっているように思います。
すくなくとも、つかちに先生は、ふっくんの食べ物の好き嫌いをしりませんが、しーな先生はしっています。
「標準治療」の推進は、ステロイドをつかうつかわない以外にも、いろんな問題をふくんでいるようにおもいます。

<脱線〜キューバのカフェ>
そういえば…キューバで、あるカフェに3日つづけていきました。
1日にめに「イタリアンサンド」をたのんで、すごくおいしかったんです。トマトとモッツァレラチーズにスライスした黒いオリーブがたっくさんのっかっていました。つけあわせは、山盛りのフライドポテト…。どうしても食べたくて、2日めにいって同じものをたのむと、チーズがエレメンタールっぽいものにかわっていました。オリーブはサンドウィッチのなかにはなく、つけあわせのレタスとそのうえにのっかたポテトサラダのまわりに、まるごと、ごろんごろんと、ころがっていました。3日目…こんどは、パンの種類がかわっていて、なかみも…とにかく、3日間とも同じだったのは、スライスされたトマトがはさんであるという一点のみ。
衝撃的でした。お店の人にきくと、「だって、つくる人がちがったり、材料の在庫がちがったりするでしょ。そんな同じもの、でないよ」と…。なんだか、きけばあたりまえ…。たしかに私がつくる料理も「おかーさん、同じもの2回でてきたことあるの?」とこどもたちにきかれるくらい、その日の冷蔵庫事情と私の気分に左右されてます…。
でも、お店では「同じもの」を要求する…。すっかり、マクドナルド化されてました…(笑)。


<きのうのふっくん>
クラスに5本指ソックスをはいている子がいて、ふっくん、あこがれています(笑)。
きのう、その5本指ソックスと絹のパジャマがとどきました。パジャマは大満足していました。ひっくんが「いいな~。でも、あれ高いんでしょ」というので、「あ~、言ってなかったっけ。一部不良で1000円ってのがあって、それ買ってみたんだよ。でもね~、あの5本指シルクソックスも、こども用がなかなかなくて、1000円だけど」「うわ~。しんじられん。ぼく、パジャマだけ買って」ともうしておりました(倹約家です(笑))。
ふっくんは、そんなことには無頓着。5本指ソックスも、「これ、指が1本ずつ離れてるし、しもやけにならなそう!」と大満足でした。
だから…写真も、「1000円のパジャマきてとる!」と…(笑)。
ポーズをきめるのに、日に日に時間がかかっています!(笑)

今日も、元気でした。今日は「流血した3カ所にマキロン」「かさかさの指に亜鉛華軟膏すくなめの保湿剤」「その他はなし」と自分できめてぬっていました。肌の状態自体は、きのとあまりかわりません…。

2010年11月29日月曜日

アトピー治療が「道徳的債務」になるとき…

2010年11月29日(月)
<アトピーに注目されるのが「重い」…>
昨日、ひさしぶりに実家にいきました。
おばあちゃん、ひとわたりみんなに声をかけると
「まぁ、きれいな顔になったね~。よかった」とふっくんのほうかがみこみました。
「うん…」と私はあいまいにこたえました。なんだか気が重い…。
「どれ、からだもみせて。どうなった?」とおばあちゃんはつづけます。
ふっくん、返事をしません。
おばあちゃんがさらに「みせてね。服めくっていい?」と声をかけても、返事をしません。
ひっくんが「だいじょうぶ、ふっくんの皮膚、すごいがんばってるから」と視線をあわせずにこたえます。
おばあちゃんは釈然としない様子でしたが、「ねーねー、おばーちゃん、お庭であそぼうよ~」と強引に手をひっぱるみっくんにつれられて、外にいってしまいました。
きのせいか、ほっとした空気が3人のあいだでながれました。


<「重さ」の理由>
おばちゃんが、ふっくんのことを真剣に心配してくれてるのはよくわかっています。
でも、なぜ、気がおもくなるのか…。保育園では、おむかえにきたおかあさん、おとうさんをつかまえて誰彼となく「ぼく、よくなったんだよ」とズボンのすそをめくってみせているふっくんが、なにゆえおばあちゃんには、みせたくないのか…。

 このあとたまたま、ふくむらしょうへいさんの原稿をよんでいて…「これか~!」としっくりくる引用がされていたので、孫引きしてみます。

「不便だから障害を補う工夫をする、というのは合理的なことだが、障害が克服可能であり、自分には能力があることを証明するために必要以上の犠牲を払って延々と克服努力を重ねるということになると、話は違ってくる。本来なら、障害を克服するために投入される努力は、不便が緩和される程度とのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはずだが、有能であることの証明作業という意味を帯びてしまうと、投入されるコストは歯止めを失う。そうなれば、事実上障害の克服を道徳的責務として受け入れたのと変わらない結果になる」(石川准「ディスアビリティの政治学─障害者運動から障害学へ」『社会学評論』50巻4号、2000年)

 「これのどこが??」とおもわれるでしょうか…。私には、この文章がこう読めたのです。
「不便(かゆみや痛み、見た目がたえがたい)だからアトピーの状態をよくする工夫をするというのは合理的なことだが、アトピーが克服可能であり、自分は完治するのだと証明するために必要以上の犠牲を払って延々と克服努力を重ねるということになると、話は違ってくる。本来なら、アトピーを克服するために投入される努力は、不便が緩和される程度とのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはずだが、有能であること(アトピーを完治させるための努力をおしまない態度)の証明作業という意味を帯びてしまうと、投入されるコストは歯止めを失う。そうなれば、事実上アトピーの克服を道徳的債務として受けいれたのと変わらない結果になる」

 おばあちゃんにふっくんのアトピーに関心をしめされるたびに私たちにながれる「重さ」の原因は、ここにあるような気がするのです。たしかにふっくんは、かゆみをつらがっています。しょっちゅう流血するのもうっとうしがっています。見た目だって気にしています。でも、あの人は「このくらいなら、ぜんぜん平気」と言う日もあります。彼なりにおりあえる「そこそこ」のラインをみつけ、アトピーをうけいれる体制をいっしょうけんめいつくっているのだとおもいます。


<「際限なく求める」ことのこわさ>
でも、おばあちゃんはそのふっくんのえらぼうとしている「そこそこ」をうけいれてくれないのではないか…。
「もっと、きれいな肌に」「本来、もっとかわいい子のはず」「まったくかゆみもなく、ひっかきキズもないすべすべお肌に」と、要求がどこまでもとんできそうです。そして、「もっとなんとかしようとしない、親であるあなたに責任があるのよ」、「アトピーをなおすために投入できるコストはおしむな」とつめよられそうな気配があるのです。
たぶん、わたしたちは、おそらく幼いみっくんも含めて、そんなおばあちゃんの視線をかんじとっています。だから、おばあちゃんがふっくんのアトピーを話題にしはじめると、なにげなくかわそうとする…。うちの母も、いつかご紹介した、孫のためにアトピービジネスにはまった友人の母と同じ心理なのかもしれません。

でも、これってこわいことだとおもうのです。ふくむらさんは、この引用といっしょにこんな文章も紹介しています。

「ここには『未来』がかかわっている。損得があらかじめはっきりしていれば、それはそれですっきりする。だがうまくいくかどうかわからない。しかし可能性はあるのだから、やってしまう。そして後になっても結局それが効いたのかどうか、何が効いたのか、はっきりしないこともある。…『うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。どうしますか』と言う。それで本人は考えて、『ではよろしくお願いします』と言ったりする。となるとこれは本人が決めたのであり、相手の責任は問われない。これからどうなるだろうという不安をみずから引き受けなくてはならない。
 このうっとおしさはかなりのものだと思う。しかしなかなかきれいさっぱりあきらめきれない。もしかするとうまくいくかもしれない。おかげでうまくいったと思われるような例がたいていいくらかはあり、その療法やそれを施す人の信奉者がいる。可能性はゼロではない。だからやってみる。コストはふくらんでいくが、それだけコストをかけたこと自体が、もう少し努力すればなんとかなるかもしれないという駆動力を与えることもある。(立岩真也「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』有斐閣、2001年、p.185)

 アトピービジネスにはまっていく心理と、まさにぴったり重なるのではないでしょうか…。

<「善意」の第三者>
そうした意味では…朝日新聞の「子どものアトピー」に登場する大矢医師がなやめるおかあさんにむけた「アトピーは努力がむくわれる病気です」
という言葉や、「継続したスキンケアや掃除などの環境整備は、お子さんの肌をつるつるに保つための出発点です」という言葉は、残酷だとおもいました。
 
 これは、おかあさんをおいこみます。
「じゃー、よくならないのは、私の努力がいたらないから?」とこの記事よんで涙したおかあさんは、ひとりじゃないとおもいます。この新聞に登場したおかあさんだって、「いままでした努力はまちがっていたから、いけなかったんだ」と自分をせめ、「だからこそ、ただしい努力をしなければ」とますますおいつめられるような気もします(やっと「ただしい」方向で努力できると喜んだともおもいますが…)。
 「母親としてのあなたの努力がたりないから」「努力の方向がまちがっている」とせめられた方もいらっしゃるかもしれません。まさに、医者から、実母から、ずっと私が言われつづけた言葉です…。

 この大矢医師にも、私の母にも、わるぎなんかないのはわかっています。「善意」の、でも、「第三者」なんです。アトピーとつきあわざるをえない「第一者」でも、その「第一者」と日常的にかかわる「第二者」でもないのです…。
だから…ハッキリ言って、この「善意の第三者」は、「無責任でいられる第三者」と同義です(ごめん、おばーちゃん!)。
 
<「あきらめる」からひろがる毎日>
 浜田寿美男(『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社、2005年、p.88 )さんは、こんなことを言っています。
「高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません」
 わたしには、「アトピーの完治」とは、「高すぎる不可視のハードル」におもえます。「そこそこの状態をたもてればいい」という「断念」「あきらめ」は、重要だとおもいます。
 わたしは、ふっくんが笑っていてくれるなら、かゆみにじゃまされず集中してなにかにとりくめているのなら(ふっくんは、3人のなかでいちばん工作など集中してする作業が大好きなのです)、かさかさだっていいし、ひっかきキズなんてあってもいいなと、おもえるようになりました。
「かさかさ」の皮膚が、人間関係を円滑にするネタになったり、親近感のみなもとになったりすることだってあるとおもうのです。
(たとえば、ダンくんは、私のかかとをみて「90のばーさんかよ」と笑うけど、でもそうやってネタを提供してさしあげているとおもえば、まーどうということもないです(笑)。でも…90才の方に失礼な表現ですよね。谷崎潤一郎のおくさん、松子婦人なんかたぶん、90才になっても、ふんわりかかとのような気がします…)。
 でも…「アトピーをすこしでもよく」とおもっているかぎり、私たちはアトピーにとらわれます。人生がアトピーに支配されかねません…。「皮膚かさかさだね」という誰かの一言が「ネタ」になるか、「欠点の指摘」とうけとるかでは、人間関係はかなり変化してしまうでしょうし…。
(私にしても…「人の足のかかとフェチ」でいるぶんには、なんの支障もありませんが、自分の足を「つるふわかかと」にしようとしだしたら…ブログなんて書いているひまがなくなるかも(笑)←かかとねたしつこい(爆)なお、私の身体的コンプレックスは、べつにかかとだけというわけではありません…)。
「そこそこで」とおもうことができれば、ほかにやりたいこと、できることがたくさん見つかる気もします。ノブコフさんも以前のコメントで、おなじようなこと、書いてくださいました。
「あきらめる」って、その線引きがむずかしいけれど、でも、重要だとおもいます。


そうそう、余談ですが…
<「なまえ」へのこだわり>
先日、ひっくんが「おかーさん、アスペってほかによびかたないの?」ときいてきました。
「えっ?いとちゃんは、高機能自閉症でも好きなほうでいいっていってたよ」
「かっこわる~。ほかには」
「広汎性発達障害?」
「なに、それ。ほかは」
「それの頭文字版、PDD」
「ださ~」
「じゃー、自閉症スペクトラム」
「もういい! アスペルガーがまだ、ましだな。それにしよう!」
すると、ふっくんも「じゃー、アトピーは?」とききます。
「皮膚炎? 湿疹? う~ん、なにかな~」とうなっていたら
「もう、おかあさん、しらないのかよ~。ぼくも、アトピーでいいや。じゃー、みっくんはなにかな~、かたかなの「ア」ではじまる病気なんかないの?」
「え~、アルツハイマー? でも、それこどもはなんないんだよね~、おもいつかないよ!」
「つまんないよ~」
「じゃー、アーデーでどう?」
「なにそれ?」
「別名ADHDのドイツ語よみの短縮形~」
「あ~。ADHDね、うん、みっくんそれっぽいじゃん。それでいこう!」とひっくん。
「なにかしってんの?」
「うちにある本にかいてあったよ。じっとしてられないとか、とつぜんなにかしはじめたりするとか、気になると後先考えずにやっちゃう…とかでしょ」
「まー」
「じゃー、それでいいじゃん!みっくんにぴったり!」とふっくん。
「これで、きまりだ~。アスペ、アトピー、アーデーきょうだい!」すごい、のりのりでした…意味不明…(爆)。おもしろかったですが…。
でも、かんがえてみれば、こうしてあの人たちは、自分の属性のひとつとして、アスペルガーやアトピーをうけいれる作業をしているのかもしれません。私は「障害は個性だ」説は、うさんくさくてちょっといやなかんじがしています。
でも、属性のひとつとして受け入れることは、大切だとおもっています。

*なお、「障害は個性だ」と当事者の方が主張される場合には、それなりの理由があるとおももうのです。でも、研究者や医療関係者などの「第三者」がそう主張するのは、「障害」をもつ人が快適にくらせるような環境整備に力をそそがない/そそげない現実へのいいわけのような気がして、ちょっと…。

<きのうのふっくん>
あんまり、よくなってはないかも…。でも、じくじくはなしです。
おふろあがりは、「マキロンぬる~。あれがいちばん、いいかんじ」と強く主張。というわけで、左足のすねのみ、マキロン。ほかはなにもなしでねました。

今日のポーズ!おふろあがりです。

2010年11月27日土曜日

つらいから理論化したい…

2010年11月27日(土)
<まずは、自分に説明したい>
「なんか、すごい量かいてるけど、だいじょうぶ?」と心配してメールをくれる知人がいます。
「たしかに…。逃避かも…」と思いつつも、「書かずには、いられない日がおおいんだよね。これからは、ちょっとまどおにするから…」なんて、おもっていたら、
「ブログみました。くるしいから理論化したいと書いたベル・フックスをおもいだしました」とのメールが知人からとどきました。
ベル・フックス!!! わたしには、かっこよすぎます!

「つらくてならなかったから、わたしは理論に向かった。(中略)分かりたかったのだ。自分のまわりで、そして自分の中で、いったい何がおこっているのかを知りたかったのだ」
(ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを』新水社、2006 年、p.72)
知人が思いをはせてくださったのはこの部分でしょうか…。

ベル・フックスがこの言葉を書いたのは、貧困家庭のアフリカンアメリカンの少女だった時代を回想してのことです。
わたしがいまいる位置は、むろん、彼女よりずっと楽な場所です。が…わたしにとってもこの言葉はやはり真実です。

ある日、ふとステロイドをうたがって、あふれる情報の翻弄され、どうしていいかわからなかった。
ふっくんにもうしわけなくて、自分自身がなにを選択すればいいのかわからなくて、だから、とにかく書き留めておこうと思いました。
もしかしたら、いつかステロイドに疑問をもった人が、私を追試できるように。
「この人、ここで選択まちがえたんじゃないか」とか、「こう悩んでこうしたのか…なら私もやってみようか」とか、そんなふうに検証できる足跡をのこしておこうと思いました(いえいえ、人のためなんかじゃない…私があとで検証できるようにです)。

でも、それ以上に、自分がとにかく納得のいく説明がほしかったとも思います。
このブログを書いていなければ、そこからあーちゃん、山下さん、こうめさん…とつながりがひろがっていかなければ、私は、なにをしたらいいかわからず、孤独で、余裕がなく、だからこそ孤独な戦いを強いられ、ふっくんをおいつめていたとおもいます。

「ベル・フックスをおもいだした」なんて書いてくださって、ありがとうございます。
すごく勇気づけられました。

ブログよんだけど…
<「科学」って、けっきょくなに?>
というメールももらってしまいました。
すみません、それ結局かきませんでした。でも、わからないんです…(おいおい)。

そいうえば、埴谷雄高が『死霊』のなかで、「「私とはなにか」と考えるからわからなくなる。「なにが、私か」を考えろ」といったことを書いていました。高校生の私は「おお!埴谷雄高、あたまいい!]
と感動したのを覚えています。
でも、最後まで「なにが私か」についても、結論はみなかったように思いますが…(埴谷雄高の『死霊』は好きでしたが、その後、彼が自分の妻に「人間の自由意志でできることは自殺と子どもを産まぬこと」と4回も中絶させた話を読んで、「妻に中絶させるまえに、だったら自分がパイプカットなりなんなり避妊を考えなさいよ!」といっきに熱がさめ…)。

でも実際、「私とはなにか」とかんがえることと、「なにが私か」を問うことは、でてくるこたえはかなりずれがあるのは確かです。でも、拡散する問いである「私とはなにか」よりも、収束する問いである「なにが私か」のほうが、その周辺事情は、やはり整理しやすいことはたしかです。
そうした意味で…あのブログは、私にとって、あらためて「科学」をとりまく周辺事情を整理するのに役立ちました。
たとえば、深谷先生が紹介している今回のお金のながれの話は、あまりにえくぐて、これだけよんだら、深谷先生が勘違いしているのではとおもいたくなりますが、まさに、「ジャーナル共同体」の④でしめした「予算と地位の獲得」の話と同じです…。
ため息ものです…。お金はながれだすと道ができますから…。
(あっ!だから「科学なんて」とおとしめようとしているわけではありません。ただ「科学だから」と無批判にうけいれるのはやめましょうとよびかけたくはありました)

<きょうのふっくん>
なんだか、熱もないのに、お昼すぎから夕飯もたべずに夜まで爆睡していました。つかれてるんだな〜と。
みっくん・ひっくんがねるときにおきてきて、「おなかすいた〜」とおにぎりをたべ、またねてしまいました。
今日は、アイスノンも準備しません…。ひたすらねむいのか、きょうはあまりかゆくないのか…。

おかげさまで、皮膚状態は、すこしもちなおしてきたんです。
膝下もじくじく化を心配しましたが、意外にもあっさり薄皮がはりました。(マキロンのおかげか!?)
(こうなると、やはり保湿しないほうが、調子がいい気も…。ただし、私は手がきれいになったとおもっていたのに、ダンくんに「あんた、手になんかぬったら? かさかさやん」と言われてしまいました!! 私のかさかさ閾値、相当さがっている模様です(爆))

そうそう、じつは、きのう保育園でともだちとけんかして、顔におおきなひっかき傷をこしらえてかえってきました。
「ほっておく」といったのですが、ちょっとふかめにえぐれているので、赤くなったらすぐはがそうとキズパワーパッド、はってみました。
おかげさまで、今回、かぶれてません…。(ほっ)

おやすみなさい。

2010年11月26日金曜日

標準「外」治療

2010年11月26日(金)
<標準「外」治療>
さてさて、おー先生は、この血液検査の結果をわたしてくれるときに
「べつに、正常だよ。この結果から、そのお医者さんなにをよみとるっていうのかな~。でも、まーいいや、とにかく、わたしとくね」と言っていました。そのあと…
「この血液検査やるって、どんな病気の子どもがわからんくて、苦労したんだよ。もう、すごいへんな病名だけど、そうしとかんと自費診療になっちゃうから、つけといたからね」とも。
確かに…。(ちなみに、昨日は再診料70点と管理料52点だけでした)。
栄養素でアトピーを制御しようとするしーな先生も「処方できる薬がね~。おとななら胃薬に亜鉛がたくさんはいってるのがあるから、それだすけど、こどもに「胃潰瘍」なんて病名、つけれないしね~。サプリかってもらうしかないわね~」と言っていました。
「標準外治療」は、医者をなやませますね。

そうそう、知人から「ステロイドつかわないとして、どうできるのかな~。うちの子は、「かゆいのはいやだから、ぜったい何かはぬりたい」っていってるんだけど」と聞かれました。
ふっくんも、ほんとはぬりたがっています。そりゃ、かゆいのいやだもんね~。
というわけで、「しろうと療法だよ」とことわって「マキロンと食塩水」の話をしました。
「そんなん、どこの家にもあるじゃん。こどもやるかな~。でも、言ってみよ~」と笑っていました。
やはり、人間「なにかできる」ことがあるとほっとしますよね。
ほんとは、ほんとは、皮膚科のおえらい先生たちも、「ほかにあるなら、ステロイドやめるよ!でも、いま、患者さんにほかになにができるっていうんだよ!」的なところで、「標準治療」推進しているだけかも…。
でも…きくのは人によっても、場所によってもちがいます。
こんど、ふっくんをみていて、ほんとにそう思いました。ワセリン+亜鉛華軟膏がぴたっとはまった場所とそうでないところがありましたから…。
お医者さんも「個々の患者と一緒に試行錯誤するのが、標準治療」「いっとき悪化したぐらいで、さわぐな! つぎ、ためすぞ」ぐらいにひらきなおってくださると、ありがたいですね。漫然とステロイドの強度をあげつづけるのだけは…(涙)。

<血液検査結果説明>
しーな先生…貴重な昼食の時間を30分もさいて、わたしに検査結果の説明とふっくんの症状についての質問をしてくださいました…。いまどき、ありえん…。しかも、「緊急のときは、病院に電話してくれれば、看護師さんが私に連絡してくれますから」とまで…。
「いえ、そんなひどくなりませんから、大丈夫です!」とつい断言。
だって…個人的にはうれしいですが、職業としてしんどいですよ…やはり。
貴重な休み時間は、しっかりとらないと。
患者さんに笑顔をふりむける余裕がなくなっても、こまりますから(と、私にえらそうにいわれたくないでしょうが…)。


さて、その結果ですが、おー先生のいうとおり、基本的には「基準範囲」におさまっています。
が…たとえば、ふっくんは…
【タンパク質不足】 
血清総蛋白が6.4と低めなのですが、それとともにγ-GTPが7と低めです。このγ-GTPは、タンパク質代謝と関係があるそうで、これが低いということは「タンパク質不足」がかんがえられるそうです。ただでさえ成長期にタンパク質は必要であるが、肌もタンパク質が主要成分であるため、とくにたくさん必要で、おとなの必要量の2倍はとったほうがいいとのこと。
ふっくんの場合だと、一日40g。これをとるのに、たとえば肉の赤みだとタンパク質はその2割だから〜と、たまご、チーズ、さかな…さまざまな食べ物とそのタンパク質のわりあいを説明してくれました。

【鉄の不足】
クレアチニンが0.28だが、これは筋肉をつくるときに必要なものだがたりていないということは、ほかにまわされている可能性が高い。実際にフェリチン精密が15.2、MCV81.4とともに低めだということは、貧血とまではいわないが鉄がたりていないであろう。この鉄剤は院内で処方できるが、かなりまずいと評判なので、サプリを買ってその必要量を相談してくれてもいいとのこと。

【亜鉛不足】
亜鉛は、69であきらかに低めなので、摂取したほうがいい。これも、胃薬をこどもにだせないので、サプリを買ってほしい。

【ビタミンB群】
GOT 35、GPT 18と、すこし差がめだつ。同じくらいの値のことがおおいから。原因として、検査の2〜3日前に急にはげしい運動などをするとGOTがあがることもあるが、もしこころあたりがないならば、ビタミンB群の欠乏により GPTのほうが下がっている可能性もある。

とのことでした。とにかくタンパク質がたりてくれば、皮膚の防御能力はたかまるはずだから、数ヶ月かかるが、がんばりましょうといってくれました。
結局、「これから、どうする?」という話になり…。私の地域で栄養療法をしている病院への紹介状を書きましょうかともいっていただきましたが…。
私としては、もうこれ以上、あちこちの医者にふっくんをひっぱりまわしたくはない。
とりあえず、サプリを自分で購入して、のんでどうなるのか、その様子をしーな先生と話した上できめたいと、しーな先生への再受診をきめました。
(もっとも…3人のなかで、いまのところふっくんがいちばん成長がおそいのはたしかです。かゆくて夜眠れないからか(でも、みにいくと爆睡しているようですが)とおもっていましたが、栄養素が皮膚バリヤー機能にもっていかれて、でも成長しないといけないから、結局、皮膚の防御機能も成長も中途半端になっているのではないかと言われれば、そんな気もしてきます。「サプリね~」という気もちらっとしないわけではないですが、一度ぐらいためしてみても…ぐらいで、ネットで注文してみました。

そうそう…ちゃんと「あれから、皮膚状態はどうか?」とも聞いてくれました。

<保湿剤の効果について>
横にはしる傷はなおったものの、全体的に赤い発疹が増え、とくに足のすねの部分は悪化している旨をつたえると「ワセリンと亜鉛華軟膏の配合がよくなかったかも」といわれました。
とにかく、いたがったらやめる、うちにワセリンと亜鉛華軟膏があるなら、それを適当にまぜてみて、よい比率をさぐりながらつかうことをすすめられました。
いまはワセリンはしめりすぎて発疹ができやすそうだし、反対にこの季節は亜鉛華軟膏単独ではひびわれる危険があるから、やめてほしいとのこと。
割合をかえながらためしぬりしつつ、かゆくなくなったらやめて、をくりかえしているうちに、皮膚も丈夫になってきます。とのことでした。

【アレルギーではない】
おそらく、前回みたかんじと、今回の話から、ふっくんは現在、アレルギーではないとおもうと。
これまでの経過で、皮膚がうすくなってやぶれやすくなったところを、引っ掻いて傷がおおきくなり、かさぶたになり、またひっかいての繰り返しだとおもうので、保湿剤はとりあえずつかったほうがいいとのことでした。

もう、ここまでの話で30分以上…。先生、すみません。
とてもじゃないですか、「依存」とか「リバウンド」について、つっこめる状態ではありませんでした…。
こんど受診したときにもちこそう…。

<きのうのふっくん>
さて、ふっくんついに、すねの「コンフレーク」を全部はがしてしまい、流血事件。食塩水どころではなく…。おふろあがりに、今日はマキロンためしてみました。湿潤療法を知って以来、皮膚に消毒液をつけるのははじめてです…。いたくもなんともないとのこと。
「包帯は暑いからいやだ!」というので、パジャマのうらがわにナプキン、はってみました。
本人、パジャマの上から足をおさえて「ふわふわしてきもちい~」とうれしそう。
でもこれ…保育園にははっていけないな~。きっとあそんでいるあいだに、ズボンからはがれておちる…。園庭におちているナプキンみたら…おとなはぎょっとしますよね(爆)。
(というわけで、朝、登園前には、ガーゼと包帯にかえました。)

ほかは…「今日は、なんもぬらな〜い」というので…あんなにしーな先生に「ぬれ」といわれたのに、保湿剤ぬってません。こまったな~。でも、まっ、いいや。ふっくんがきめれば。それに、いまの季節、かさかさして当然だし…。(そういえば!いつのまにか、私の手は「ふつう」にもどりました。なにもぬってなかったのに! かさかさ期間約2週間…。やっぱり、皮膚は第三の脳か!? かかとはぬっています。おかげで、ささくれはなくなり、「ふつー」のかちかちかかとです)

肘の内側のあかぎれ状のキズはなおりましたが、ぶつぶつができました…

あーちゃんに「ポーズをたのしみにしている!」とかいてもらったので、「よし!今日も写真とる! どんなふうにしようかな~。うん、ちょっと手のぶつぶつもひどくなってきたから、うつるようにしてみよう」など、いろいろためし…。
「はい!おかーさん、いまとって!」といわれてとったのが、これです(笑)。肘の内側のぶつぶつ、みえるでしょうか…(笑)。

そうそう!! ひとつわすれてました、今山先生の独自方法。
「おふろからでたら、身体はふくな!」だそうです。おふろのなかで息子たちにいったら、興味津々、「じゃー、どうするの?」「そのままワセリンぬるらしいよ。ひびわれたところにすっとながれて、ほかのところはすべりおちていくんだって」
「ひえ〜」と歓声。
「夏はいいけど、それ、冬はさむいよね。でも、夏にワセリンいるか?」と、しごくまっとうな意見を披露するひっくん…(爆)。(いや、冬でも、ちゃんとあたためた部屋でやれば問題ないのだとおもいますが、うち、さむいので…)




2010年11月25日木曜日

なにが「科学」とされているのか-「社会問題」として提起するために(つづき)-

2010年11月25日(木)
<「社会問題」として提起するための「戦略」>
ちょっと気持ちが萎えていましたが、「社会問題」として提起するための「戦略」について…。
まず、先に私の結論をのべると、「真実は一つだ争いをしない」「標準治療を認めた上で、『正規分布のはしっこの人に注目しよう』キャンペーンをはる」「患者側からみた医師の治療方針への評価をつたえていく」ことだと思います。
「そんだけかよ~」でしょうか。ごめんなさい。でもなんだか、おおくのブログで、お医者さんたちのあげる声で、「そっちがおかしい!」というような「イデオロギー闘争」になっているような…。それはちょっと悲しい…それに、その態度は「非科学的」のような気も…。なので、具体的に藤垣先生にまなびませんか?(って、一面識もありませんが(笑))。

<「科学」と認知される要因はなにか>
 さて、私はときどき「医学」は「科学」とはいえない側面があると書いてきました。
では、「科学」とはなんでしょうか。
「え~っ。ノーベル賞(化学・物理・生理・医学など)をとったのは、まちがいなく「科学」だよね」という声があがるでしょうか。そう、おそらくそれらは「科学」と世界的に認められる発見・研究です。では…ノーベル賞の選考基準はなにか…これは「50年後に公表!」とされていますが、これまではだいたい「業績」がある人が選ばれています。つまり…「業績」があると「科学」とみとめられるということです。では、その「業績」は、どのように決まるのでしょう。
 藤垣裕子(『専門知と公共性-科学技術社会論の構築へ向けて』東京大学出版会、2003年)さんは、「ジャーナル共同体」という概念をつかって、これを説明しています。
①「科学者の業績は主に、専門誌に印刷され、公刊(publish)されることによって評価される」(p.16)
②「科学者によって生産された知識は、信頼ある専門誌に掲載承諾(accept)されることによって、その正しさが保障される(妥当性保証)」(p.17)
③「科学者の後継者の育成は、まずこの種の専門誌に掲載承諾される論文を作成する教育をすることからはじまる(後進育成・教育)」(p.17)
④「科学者の次の予算獲得と地位獲得(研究予算、研究人員、研究環境等社会的側面の獲得)は、主にこのジャーナル共同体に掲載承諾された論文の記された業績リストをもとに行われる(次の社会的研究環境の基礎)」(p.17)

つまり…簡略化すれば「科学」と認められるためには、「その道の専門家」が集まる専門誌、学会誌に論文を投稿し、その「正しさ」を保証してもらう必要があるということです。

<専門誌に認められる論文とはなにか>
 問題は、ここです。専門誌に投稿したことがある方には自明なことかもしれませんが…専門誌、学会誌には、藤垣さんが書かれているように、それぞれスタイルがあり、それを踏襲していないと掲載されません。藤垣さんも(p.24)、査読者のプライベートな領域に侵入すると、敵意あるコメントにさらされたり、同じ内容の論文でも著名な大学に所属するものだと採択され、そうでない場合は不採用になるなどのケースを、実際の実験結果をまじえて報告しています。
 なぜ、深谷先生の紹介するステロイド依存系の論文は、海外ものがめだつのか、なぜ玉置先生が脱ステロイドについて書いた論文は「あいまい」な書き方がなされているのか…その理由は、もしかしたら、日本の皮膚科やアレルギー科が「専門誌」と認定している学会誌の査読者たちが、ステロイド批判系の論文を査読の段階でおとしている可能性もあります(あくまで、私の推測です。すみません、実際に各学会誌にあたってカラーを検討する余裕がありません…でも、ちょっといまの仕事が一段落したらやってみようかしら…)。
 
<それでも、専門誌はただしい!?>
「いや、そんなことはない。専門誌は科学を追究しているはずだ。妥当性がみとめられれば、学会の意向と異なっても掲載するはずだ」と思われるでしょうか…。でも、まったく新しい発見であればともかく、これまでの知見に横やりをいれるような論文はスルーされやすい、もしくは酷評をうけると思います。

【統計結果は科学的か?】
そもそも、統計結果の読み方はかなり恣意的に操作できます。結果分析はSPSSなどで、だれでも簡単にできるようになりましたが、その結果を読み解くのは、研究者個人(もしくはチーム)です。その読み方の妥当性を判断するのは査読者たちです。たとえば、深谷先生がしめされた古江先生のつくった「標準治療成績一覧表」は、誰がつくってもほぼ同じものができます。
(むろん、なにを「非常に悪い」とし、「軽い」とするかの「線引き」が共有されていることが前提です。おそらく、この「線引き」も流動的である可能性は高いと思いますが、これに関してはおそらく皮膚科医であれば経験的にも共有可能な「線引き」を採用しているのでは…と思います)
問題は、「コントロール不良群」とする「線引き」の「妥当性」です。深谷先生が「なにをもって良好とするか」の条件を変更すると「線引き」の位置がどんどんずれていくことを示されているように、この「線引き」は「絶対唯一」のものでも「不変」なものでもありません。おそらく、ステロイドによる標準治療を推奨している日本皮膚科学会のジャーナルに投稿するならば、古江先生の「線引き」は問題なくうけいれられても、深谷先生の「線引き」は「妥当性なし」として却下されると思います。
つまり、「表」はただの表ですが、その読み取りには「人為」がはいりこみます。表はまず提供者の解釈を読む前に、自分で意味を考えるほうが安全です。また…余談ですが、一般的に社会調査については、質問文をつくる段階で回答を誘導することが可能です。「アンケート調査」等の結果をよむときは、質問紙を参照するとだまされにくくなります。(谷岡一郎『データはうそをつく-科学的な社会調査の方法』(筑摩書房、2007年)が、わかりやすいです。そのほか…調査データの読みまちがいによる「言説」のおかしさを指摘する本はたくさんありますが…鮎川潤『少年犯罪―ほんとうに多発化・凶悪化しているのか』(平凡社、2001年)や、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか-「教育する家族」のゆくえ』(講談社、1999年)など、おすすめです)

【変化する「妥当性」】
なお…すでにおわかりだと思いますが、この「妥当性」もまた流動的なものです。
藤垣さんは、精神診断基準に関する論文の分布図を作成することで、「『妥当性境界』は不変ではなく、毎号毎号の編集における査読者の判断の積み重ねを経て、時々刻々書き換えられていく」(p.60)ことを実証しています。
つまり…査読者が変化すれば、「妥当性境界」は変化します。が…医学の世界はかなり徒弟的・閉鎖的です。「アンチ主流」「アウトロー」な研究者が査読者に選ばれる可能性は、医学界においえては極端に低いのではないでしょうか…。

いやいや、それでも…
<「良心的な科学的医師」はいるはずだ>
私もそう思います。が…あらたに、おそらくこのステロイドによる標準治療を解明しようとする若手研究者がいたとして、それを解明するためには、時間がかかります。(おそらく、良心的であればあるほど、現在批判にさらされている脱ステ医の臨床知見をうたがってかかることからはじめるでしょうし…)。
「科学者の責任感の多くは、ジャーナル共同体における精確さを維持することに費やされているのである。そして、市民あるいは公共(public)にとって『不信』とみえたものが、実はジャーナル共同体に対する『忠誠』であることが少なからずある」(p.26)
と、藤垣さんは書きます。「ステロイド依存性皮膚症」というものの存在の有無を確認するには、おそらく百人単位のアトピー患者さんに接し、その追跡調査をする必要があります。まてません…。
藤垣さんは、こうも書きます。
「多様な利害関係者で構成される『公共空間』において、それらの共治(ガバナンス)によって問題を解決し、意志決定をすることが求められている」(p.79)にもかかわらず…「科学的知識、工学的知識はこれまで、社会的意思決定の正統性の提供者という役割も果たしてきた。しかし、現代では、科学者にも答えを出せない問題、技術者にも答えを出せない問題だが、意思決定を行わねばならないことが増えてきている」(p.80)そうだと思います。

【水俣病認定がながびいた理由】
藤垣さんは、水俣病を例にあげています(以下、p.54要約)。水俣病は1956年に最初の患者が発見されますが、その後、数々の説が考えられ、有機水銀が原因物質と特定されてからもその生成メカニズムが明かにされるまでに45年が経過したそうです。これは、科学者としては妥当な立場であっても、公共性の観点からは非常にマイナスだったとおもいます。この45年のあいだに、水俣病患者は増え続けたからです。「あれは、原因物質の解明をまたずに、厚生省にはたらきかけて「食中毒だ」と先に定義してしまえばよかった。魚を食べて中毒が発生しているのはわかっていたからだ」と書かれた本がありました(出典が思い出せません。ごめんなさい!)。たしかに…最初の患者がでた時点で、魚をたべるのをストップしていたら(でも、漁師町ですから、その後の保証問題もありますが…)、工場の排水をやめていたら(でも、工場も経営難になるんですね…う~ん)、「公害」という規模にはならなかったのかもしれません。
 藤垣さんは、こうした現象があるからこそ、これまで「科学的合理性」にたよってきたが科学だけにたよらない「社会的合理性」が必要では…とのべます(これは、本書をつらぬくテーマであるのですが)。

<「科学」だけに頼るとこわい…>
の一つに藤垣さんは、こんなことを書いています。
政策立案者が科学知識に対して抱く過大な期待(p.67要約)
 ①確かさの幻想(判定されること以上に自信をもちやすいこと)
 ②疑似確信の幻想(ある側面における確かさを他のすべてに適用可能と過剰な自信をもつこと)
③「絶対的」真理への幻想(証拠の真実性に対して、過剰な確信に至らせること)
④応用可能性の幻想(一つの結論を一般化すること)

つまり…「科学的合理性」にたよってしまうことは、行政を誤らせることになると危惧しているのです。

【科学的真理とは、一つなのか】
先にのべたように、科学的とされるための「妥当性」に「絶対基準がない」からでもありますが…。もうひとつ重要なことは…。科学が「ジャーナル共同体」にささえられている以上、「ジャーナル共同体」ごとに「真理」とされているものがあるという現実です。この「ジャーナル共同体」は同じ領域内でも複数あるうえに、領域が重なる部分にものりいれています。ある「ジャーナル共同体」が「真理」としたことと、他の「ジャーナル共同体」が「真理」と定めたことは、かならずしも同じではありません。
(たとえば、ステロイド依存に関する論文を掲載するジャーナルと、それを拒否するジャーナルでは、「真理」がことなるようにです)。
藤垣さんは、ここを指摘したいがために「ジャーナル共同体」という概念を提示したそうです。「ジャーナル共同体」に基づけば、「科学の一枚岩観を批判することができる」(p.43)と。藤垣さんの言葉をかりれば、「『科学的』と呼ばれるものに実は多様性があ」り、「現象として分野ごとに妥当性の境界は異なっている」のです。
私たちは、「一方に理念系(科学は一つであり、科学的とそうでないものとを区別する境界は一つである)があり、もう一方に現実系(科学は分野の妥当性境界によって異なる)がある」(p.45 )社会にいきています。
そして、私たちは「このコンフリクトを解消するために、まず妥当性境界が分野によって異なる現象を憂い、『科学は一つ』という立場にたって、『科学的』概念の多様性をできるだけ排除し、一つに定まるようにしようとする立場」をとるか、「それに対し、『理念』のほうを現実(妥当性境界は分野によって異なる)にあわせて書き換えよう、とする立場」(p.45)に立つか、せまられます。
そして、藤垣さんは後者の立場をとります。私もまた、藤垣さんの判断はただしいと思います。

「だから、『ステロイドによる標準治療』の話はどうなるの?」と思われているでしょうか…。

<「順応管理」でどうでしょう>
藤垣さんは、こう結論づけます。「科学的知見は今まさに作られつつあり、書き換えられる知識である。したがって科学的合理性も社会的合理性も変化しうる。我々は、この変化しうる性質を組み込んだシステム作りを考える必要がある。ここで必要なのは、科学者集団の生産する知識だけで(つまり科学的合理性だけで)科学的判断(judge)ができる、という立場から離れ」、「『一度定めた基準』を科学的判断(judge)による確実で厳密な『硬い』基準とせずに、いつでも見直しができるようにして、利害関係の異なるひと(地域住民もふくむ)たちによる話し合いによる合意形成を続けていこう、という」(p.215)柔軟性が重要だと。
この結論の一つの具体例に「順応管理」をあげています。「現在科学者集団の保証できる知見には限界があることを認め、それでは決定できないことを『暫定的』に決めておいて、のちに微調整を繰り返す」(p.213)という方法で、江戸時代の河川管理の「見試し」という制度の応用だそうです。
う~ん、「皮膚科学会」がいまさら「アトピー性皮膚炎に対し、ステロイド治療で保証できる知見には限界がある」とは認めないでしょうというつっこみがはいるかもしれませんが…。でも、「いや、あなたたちはまちがっていませんよ。でも、ほら、この正規分布のはしっこにいる患者さんをみてください。この人たちには効かないという例外性に対して、もうすこし大きな声で語らせてください」という申し入れならば、ききいれてくれるかもしれません。

【正攻法でなくても…】
「社会的合意」を形成するために、「患者さん当事者の声」というのももっと大きく喧伝される必要があります。「脱ステした患者さんのライフヒストリー研究」なんか、いいかもしれません。アトピー患者であり、脱ステを選択した人であり…「複合差別」の当事者としても、豊かなライフヒストリーになることはまちがいないとおもいます。
ブログはたくさんあるし、協力してくれる方は、意外におおいのではないでしょうか…。
(*「複合差別」とは、上野千鶴子が、有吉佐和子の『複合汚染』をもじってつくった言葉。個人は一つの差別対象となるだけではありえない。複数の要素をもっているからだ。そして、個人はあるときは差別者であり、あるときは被差別者となるというようなことを書いています。この論文は2つの本に収録されています。井上俊ほか編『差別と共生の社会学』(岩波書店、1996年)と上野千鶴子『差異の政治学』(岩波書店、2002 年)です)

昨今医療業界でも「質的調査」ばやりです。「皮膚科学会」のジャーナルに掲載されなくても、「ライフヒストリー研究」をのせてくれる「医学系のジャーナル」は存在します。正攻法でたたかわなくても、堀を埋める戦い方は存在するとおもうのです。
きのうも、おークリニックには、むかしふっくんがそうであったような、かさかさで赤いほっぺの赤ちゃんがたくさんいました。診察室をでてくるときは、くすりでてかてか…。「はやいとこ炎症おさまるといいね」「ふっくんみたいに、5年間もくすりぬりつづけることがありませんように」とねがってしまいました。
お医者さんに「たいへんだったね」といわれて「わかってもらえた~」とうれしいこともありますが、ときには「こんなの大丈夫よ」と保証されるだけで、安心できることもあります。
深谷先生がかかれているような、そんなふうに気長につきあってくれるお医者さんがふえてくれることをねがいます。たしかに子どもがかゆがっていると、かわいそうかもしれないけれど、痛みやかゆみといった不愉快なことを全部こどもから遠ざけることは不可能ですし、またそれを親がするのは越権行為のような気もします…。ノブコフさんも書いていらっしゃったように「経験」とは、大切ですから。人の痛みをしることにもつながります。
私はひとづきあいが苦手なので、「運動」をたちあげるのはムリっぽいですが(笑)、私なりの「運動」の仕方、かんがえてみます。

<余談>
さて、しかし…いよいよ首がしまってきました。自分の仕事、ちゃんとします(泣)。これからは、ブログを書きかけた初期目的にもどり、ふっくんの体調変化の報告だけにとどめます(笑)。でも、これからもよろしくおねがいします!

2010年11月24日水曜日

「患者の専門知」と「医師の世間知」

2010年11月24日(水)
<ふっくんの悲哀…>
昨日、知人にあいました。
ふっくんをみて「この人も、ちょっとかさかさだね、アトピー?」ときかれたので、
「そうです」と答えました。
ただいま、自分のがんばりを認めてもらいたい一心のふっくん、ふだんならアトピーを話題にされるのはいやがりますが、今はちがいます。いきごんで、ズボンのすそをめくりました。
「どうしたの?これ?ひどいけがだね~。いたい?」
「ちがうよ! これ、アトピーだよ。すごくよくなってきたんだよ」
彼女が私の顔をみます。
「アトピーで、こんなになる?」
「はい。これ、アトピーなんです。いま、おくすりなしでがんばってるんだよね」
と、私がこたえました。
彼女は「あっ、そう」とあいまいにうなずき、他の人に顔をむけました。
一般的には「ただしい」態度なのだと思いますが、いまのふっくんには、ものたらない態度だったようです(笑)。ちなみに、彼女も医療関係者です。

<それでも、すこしずつ…>
養護教諭をしている知人から、メールがきました。
「まえに、ふっくん、アトピーっていってたよね。どんな治療してる? さいきん、新聞でも「アトピーには、ステロイドを正しく使うのが一番!」って記事でてたし、研修でもそう教えられるけど…。でも、生徒たちみてると、わかんなくなってきちゃって。「お医者さんいったら?」って言っても行かない子もいれば、ちゃんとお医者さんの指示通り薬ぬってるって言う、すごくまじめな子だからほんとしっかり守っていそうなんだけど、ぜんぜんよくならない子もいる。保護者の方針か本人の意志かわからないけどお医者さんに行ってても保湿剤はつかうけど、ステロイドは全部すててるなんて子もいて…。いろんな子に話をきくたびに、ほんとわかんなくなってきちゃった。で、ぴーふけはどうしてるのか、ちょっと気になった」と。
こんなふうに疑問をもってくれる養護教諭って、すばらしいとおもました。
「じつは、わたしもふっくんにずっとステロイドつかってきたけど、なんか悪くなってる気がして…。やめてみたんだ。で、ブログもつくってみちゃいました」とお返事しました。
よんでくれてるかしら(笑)。

<朝日新聞の記事-こどものあとぴー>
朝日新聞で再び、こんどは「こどものアトピー」特集がはじまりました。
さっそく、深谷先生がコメントされています。
先生の視線があたたかくて、なんだかおちつきました。
実は、今日、ふっくんの血液検査の結果がでました。
(あいかわらず、インフルエンザの予防接種の人でいっぱい…。看護師さんもお医者さんも、今日は愛想良かったです。いちおーふっくんの頭部もぐるりとみて、「ふんふん」てな、かんじでした(笑)。)
それがでたら、しーな先生はFAXでいいよとおっしゃってくれましたが、ききたいこともあるし、行ってみようかと主っていました。たとえば、こんなことです。
・ステロイドのリバウンド、依存といった言葉をどう使い分けていらっしゃいますか?
・そのうえで…ふっくんの今の状態は、ステロイドのリバウンドではないのですか?
などなど。
でも、深谷先生のブログをよんで、「どっちでもいいや」という気になってきました。
ふっくんのいまの状態が、ステロイドに起因していようといなかろうと、どっちでもいい。あの人、元気だし、いまの自分の「チャレンジ」をたのしんでもいるようですし、なにより誇りに思っているようです。
ここのところ、ちょっとでも、ふっくんの皮膚に関心をもってくれる人がいれば、彼はズボンのすそをめくり、いちばんひどい部分をみせて「これでもよくなったんだよ。がんばってるの」と言っています。これって、かっこいい(すみません、親バカです…。みせられるほうは、いい迷惑ですよね(笑)でも、保育園の先生たちはみなさん、「ふっくん、えらい!」「がんばってるね!」と協力してくださっています。ほんとうにありがたいです)。
なんか、深谷先生に、「ぴーふけさん、このままいって大丈夫」と背中をおしてもらった気持ちです。うれしいです!

が…ただし…親としては満足でも、わたしの「好奇心」はしーな先生に「つっこむ」ことを求めています(笑)。わたしこそ、病気…(爆)。

<しろうと(!?)アトピー対策>
さて、こうめさんがふっくんの状態を心配してメールをくださいました。
あくまで、なかまうちで、こそっと話題にしているだけですが…と前置きをつけてくださり…。
☆じくじくには、マキロンがかゆくなくていいみたい(これ数々ある消毒薬のなかでマキロンだけがなぜか、かゆみをおさえて、じくじくとさようならできるようです…。いまのとこ、じくじくはなくなったので、こんどやってみます)
☆夜中にしらずにかきこわしているかも…手をひらいた状態でハンカチでおおい手首のところで結んでみては?(たしかに、手袋より、ぬげませんよね…。)
☆じくじくのときに、ナプキンを服の裏からはりつけておくと、くっつかなくていいかも(あ〜!!これすばらしい!)
などなど。
その他…
今山修平先生という方の存在をおしえてくださり…さっそくぐぐってみると、今山先生のところにかかった患者さんたちのブログがたくさん! その方たちの報告する今山先生の姿がユニーク!
アトピーの身体には、綿より絹とか(そういえば、しーな先生もそう言っていたような? しかし…こどもようの絹のパジャマなんて、ネットでも1つしかみつけられなかった…)、いちばんユニークだったのが、「布団はねてるのをかけるな!」でした。私もついついかけちゃうんですよね〜。でも、「からだがつめたくなってはじめて熟睡できる。あたためたらかゆくなってかわいそうじゃないか!」という論理。なるほど〜。じゃー、これから布団はかけずに、でも足がつめたかったらマッサージだけしておきます。(しもやけになられると、これまためんどうなんで…(笑))。
ほかにも、アレルギーで髪がはえなくなっちゃった男の子への説明方法とか、おもわず納得(ちょっと、そのブログはその子の顔写真つきなので…リンクするのを躊躇しました)。
こうめさん、いろいろありがとうございます!

しかし…この患者さんたちの「専門知」ってすてたものではありません!!ローラー針もヒットでしたし。
あしたこそ、アップしようとおもっているのですが、「科学の専門知」についての話で、「真理」をみつけるには時間がかかるし、その「真理」も変化する。しかし、「公共的判断」はつねにくだす必要がある。「専門家(理論上)の専門知」だけに依存せずに、「市民の(あるいは、現実的な)専門知」もとりいれつつ、留保条件付き判断をつみかさねるのが、妥当ではないか…的なフレーズがあるのですが…。
アトピーの治療現場もそうした柔軟性があるといいですよね。でも、これも「こそっ」と、「地下組織」っぽいからいいのかしら…。大々的になるとつねにビジネスにつかわれる可能性がありますし…。


<「病院」とのつきあい方>
そうそう、それに関連して…
最近、「ブログよんだよ」という知人から、アトピー以外のネタでもらう意見として…。
・「私って、医者のいうこと無批判に信用しすぎなのかな?」
・「清潔とか予防とか、ほんとのとこ、どーなの?」
・「私も医者の一言にすごいむかついたことを思い出した。医者の養成、どうなってんの?」
などなどがあります。
むずかしいですよね〜。どこで判断するのか。
ただ…医師には専門知をもっていてはほしいけれど、それふりかざされるのも…どうなんでしょうか。深谷先生みたいに、「だいじょうぶだよ」と声がけができる「世間知」みたいなものは、ぜひふりかけて(笑)いただきたいものですが…。
それに…「専門知」のあり方自体もどうなんでしょう…。
あーちゃんも「私も確実な治療をと大学病院ばかり行ったあげくが、これだよ」と嘆いていたこともあります。
社会が学校化されるにしたがい、人々が「知的権威」に従順になっているのは、たしかです。その「知的権威」のかなり上位に医学とか法学などが、位置しています。
でも、その「知」がなんのためにあるのか…自分たちの「権威」とか「利潤」をうむための「知」になってはいないかとか…。
「知的権威」がどのように産出されているかについては、けっこう私たちは無批判な気がします。
ブルデューの『再生産』は有名だし、ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』とか、いろんな形で、「中産階級の知の継承」問題は指摘されていますが、なかなか、教育現場には反映されないようです…。

<きょうのふっくん>
おー先生のところにも、以外にふつーに行ってきました。からだはちょっと悪化しています。
このところ、天気がよかったから、毎日布団もほしているし(って、入れる頃は真っ暗でつめたくなったりしていますが(爆))、掃除機もかけてるけど…う〜ん…。
でも、本人は、「そんなにかゆくないよ」と、いたってのんきにしていますから、私があれこれ言わない方がいいですよね…。
おやすみなさい。

2010年11月22日月曜日

「名指す」ための言葉-社会問題として提起するために-

2010年11月22日(月)
<「くすり」のもたらす安心感と依存心>
みっくんも、足がかさかさしてきました。かゆがっています。ダンくんは、「なんもぬらんほーがいいんやろ」と放置。
「いや、それステロイドぬってきた人だけだから。時期的にも、みっくんなんかちょっと保湿ぐらいしてもいいとおもうよ」と…。秘伝!メンソレータム塗布。
「みっくんも、おくすりぬるも~ん!」
いつもふっくんがビタミンのんだり「今日は、どうしようかな~」と保湿剤をえらんでぬっているのをみっくんは羨望のまなざしでみていたので、大得意。
「からだにちょっとした『異常』があったときに、なにかできる」ということは、私たちをほっとさせます。
きっとその気持ちが、「くすり好き」につながっているとおもいます。が…。これまた、難しい問題です。
「ちょっとした薬やバンドエイドで、ほっとできるなら、つかえばいい」と思う一方、「これくらいなら、そのうちなおるや」と放置することも必要ではないかと思います。
なお…ふっくんのほうは、またまた「波」がやってきたのかもしれません。寝る前の「かきむしり」かたが、かなりはげしくなりました。赤いぽつぽつした湿疹がとびとびですが、全身にひろがってきています…。これって…。もしかして…保湿しないほうが、よかったのでしょうか…。

<「関心をもつ」ということ>
さて、ノブコフさんのコメントにかんしてダンくんに話していたら…「まー、でも、腰痛でもなんでも一緒やん。しょせん職場は『健常人』以外にはつめたいで」と言われてしまいました。
職場でなかよしさんに話してみると「でも、腰痛のほうが『たいへんだね』とは言われるとおもうよ。なんかアトピーのほうが扱いは軽い気がする。「いたい」より「かゆい」のほうが無視しやすいし。それに…、腰痛はだれでもなる可能性があるから問題にされやすいかもね。アトピーは体質だから、関係ないと思ってきりはなせる。そのうえ、「治療が適切かどうか」なんて問題がからむと、かかわりたくない人はふえるよ」と。
たしかに…ダンくんですら、どうもアトピー治療現場におこっている問題については関心がないようなのです。むしろ、没頭する私を危惧しています(たしかに…私、このブログに時間かけすぎです…。反省…)。
でも、せっかく考えてみたので、とりあえず記録してみます。

<「社会問題化」するために>
土曜日のブログで、「ステロイド使用は、自己決定ゆえではない」と書きましたが、なにゆえ自己決定といえないかは、「周囲の環境」に起因していました。つまり…「ステロイドによる標準治療」の現状が、社会問題化されないかぎり、現状は続くとおもいます。
これまで、「ステロイド裁判」やむかし懐かしい「ニュースステーション」での報道や、ステロイド治療を疑問視する医師や患者さんたちのおかげで、すこしは認知度があります。が、認知度があがれば、まるで「バックラッシュ」のように「標準治療キャンペーン」が展開されます。
私としては、しかし、「ステロイドによって悪化するアトピー患者がいる」という現状を、「とくに乳幼児にはステロイドは必要ないケースがおおい」ということを「社会問題」としてとりあげてほしい。というわけで…。「社会問題にするために、必要なこと」「社会問題を阻害しようとする言説の解明」「社会問題とするための戦略」の3つについて考えてみたいと思います。

<「社会問題」となるための必要条件>
さて、現在私は「ステロイドによる標準治療はおかしい」と考えています。それを公にするために語りたい。
ここで、問題がひとつあるように思います。この「おかしさ」を訴える「共通の言葉」がないのです。
たとえば、私はこの問題を人に語るときのことを、これまでブログでは「脱ステ宣言」とよんできました。
「脱ステロイド」…ふっくんはステロイドをやめたので、まさに状態を示すには最適な表現です。佐藤健二先生や藤沢重樹先生、中村敬先生など「脱ステロイド」という言葉を前面にだしています。
しかし…この言葉は、「ステロイド治療をする」ことが前提にあります。つまり…標準治療先にありきです。これだとなんだか「へ~、やめたんだ」ぐらいてながされてしまいそうです。
「ステロイド禍」という言葉もあります。が…「ステロイド薬害」という言葉とともに、ちょっとインパクトが強すぎる…というか、これだと「ぜんそく」や「リウマチ」など、ステロイドが貴重な患者さんにとって、申し訳ない言葉です(しかし、ネフローゼ治療の現場では、ステロイド依存性とかステロイド抵抗性という現象は認知されているようですが…)。
「ステロイド皮膚症」という言葉もあります。ウィキペディアにも掲載されているくらいですから、これがいいかもしれません。もしくは深谷元継先生がつかっている「ステロイド依存」か…。(そういえば、アトピー協会ではステロイド依存症という言葉を批判していますが…批判のための批判になっているような…)
佐藤先生は「ステロイド依存性皮膚症」という言葉もつかっていますね。とりあえず、「皮膚」に対して使用するのを問題にしたいので、これがいいかもしれません(と、私がきめることではありませんが。でも、でも…私たちは短縮語が大好き。話題にするとき「それ、ステ依存の話!?」「それ、ステヒフの話!?」どっちがいいかしら…(笑))
いや、でも、真剣な話です。「社会問題」として提起するためには、「共通語」は不可欠です。たとえば…「DV」という言葉がなかったころ、夫婦間の暴力は「痴話げんか」でした。「セクハラ」という言葉がなかった時代、それは「職場の花に対するからかい」にすぎませんでした。「セクシュアル・ハラスメント」がいわれだした当初は、ずいぶんマスコミで「からかい」のネタにもなりましが、1989年には流行語大賞になります。以後、「セクハラ」という言葉は、ギャグネタにされる一方で、問題提起する言葉として社会的に認知されていきます。
ある事象を名指し、問題だとするときには、その事象を示す「名前」とその「定義」が必要です。
ぜひぜひ、脱ステを支持される先生たちに、この問題を名指す「名前」をつけていただき、統一見解として発表していただきたいとおもいます。

<「社会問題化」をはばむもの>
さて…「息子が、ステヒフになっちゃって…」(いま、ふと息子の話をするとして考えたとき、「ステ依存」だと「嗜癖」をおもわせるので、ちょっと躊躇しました。「ステヒフ」のほうが、ギャグネタにもつかえるかも(笑)でもでも、こういうことは2chの人たちのほうがセンスいいかも!あーちゃん、なにかいい言葉、ありませんか?)と話し出したとします。
しかし、なかなか関心をよせてもらえない。「あなたの息子の個人的な問題」としてとりあってくれない。「ステロイドはこわくない」という声にともするとかきけされそうになる…。そんな気がします。
ここでは、草柳千早『「曖昧な生きづらさ」と社会-クレイム申し立ての社会学』(世界思想社、2004年)にそって考えてみます。
この本の一節に「人は『問題』を感じ、それを何とかしたいと感じ、他者に自分の感じる『問題』について語ろうとする。だが、『問題』を感じてこなかった、感じていない人々の堅固なリアリティの前に、彼/彼女の『問題』の経験は当人自身の『問題』の一部に還元されてしまう」(p.18)が、あります。
つまり…自分にとって切実な問題であっても、共感をえられる/その確信がなければ、「問題」を感じてこなかった人の解釈を再度うけいれ「これは、自分だけの問題」と閉じてしまったり、「問題だ」と思いつつも「問題がないのに騒ぎ立てる人」とレッテルをはられるのをさけるために沈黙してしまったりする状況をさしています。脱ステを友人に語れなかった人のなかには、そんな経験をした人もたくさんいらっしゃると思います。
なぜ、人々は容易に共感してくれないのでしょうか。
「クレイムを申し立てることは、『問題』を認識していない人々に対して、現実認識の変更を迫ることである。『問題』を認識してこなかった受け手にすれば、それは、自分では疑うことをしてこなかった現実を、他者から問われ否定されるという経験である。(中略)しばしば人は、現実認識の変更という他者からの働きかけに抵抗し、自らの現実を維持しようとする。それによって、この危機を回避し、自分の現実を守り通す」(p.127f.)と草柳さんは書きます。まさに…ノブコフさんの上司が、おー先生が、とった態度です…。
草柳さんは、こうした彼らのとる「『現実』の『問題』化を無効にする方法」について4つに類型化しています。(以下、p.127-158にあります)
①破壊的結果の警告
②人格への還元
③弱者配慮への要求
④グランドルールの宣示 
*グランドルール=「『自然』『合理』『道徳』『社会』『世間』-個々のあなたや私を超えて存在する上位の拘束力」(p.144)
というわけで…「嫌ステロイド」「ステロイドフォビア」「ステロイド嫌い」「ステロイド忌避」といった言葉で検索してみました。
ステロイド忌避からアトピー地獄へなんて、みつけてしまいました…。でも、これはおもにアトピービジネスにたいして怒っていらっしゃるわけですが…。
竹原和彦「アトピービジネス」(文芸春秋、2000年)も、けっこうこわかったです。
②は、ちょっと引用するのもパスです。塗り方が悪いだの、怠けものだの…。対等に話しをする価値もないとか…。くらっ。
③「ママが陥る嫌ステロイドの呪縛」として、そのことで、子どもがいかにかわいそうか(睡眠障害による成長阻害、情緒不安などなどの羅列)が書かれていました。愚かなママのステロイド嫌い…ステロイドは「心につける薬」なんだそうです…(泣)。
④皮膚科セカンドオピニオンというサイトでは、患者がネットであつめる情報はゴミと一緒扱いされています…(とほほ、私もふくまれますね…)。日本アレルギー協会九州支部のK.Kニュースは、もうすこしマイルド…深谷先生がデータとして使用していた古江教授が書くソフトバッシングです。双方とも、一般的な「医師ー患者関係」にそわないこと、メディアにふりまわされることなどを憂慮、つまりグランドルールにそってないことをなげいています。

さて、こうした「バッシング」にどう対応しましょうか…。アトピービジネスを批判することと、脱ステロイドを批判するのは別にしてほしい…。そのほかの対話を拒否するようなバッシングに対しても、「おすきにどうぞ」といいきれないのは、すでに私たちは経験済みです。
でも…こうした「バッシング」をする人たちも、「アトピー治療」で、くるしんだ、なやんだ患者さん、医師、保護者です。
一緒に話せないでしょうか…。
問題意識を共有するのは無理でも、この人たちをさなかでしない主張の仕方は、ないのでしょうか…。

と書きつつも、ちらっと「私って、ことを荒立ててるだけ!?」と不安になってきました…。「クレイム申し立て」をするという行為はたとえブログでも、気合いがいりますね…。

つぎは、藤垣裕子『専門知と公共性ー科学技術社会論への構築へ向けて』(東京大学出版会、2003年)とともに、その「戦略」をかんがえみたいとおもいます。

でも、でも…「ステヒフ」なんて言葉がはやったら、「ステロイドを嫌う人を嫌う人」とも一緒に笑える気はします…。
「わたし、ステヒフはいっちゃったよ〜」「うわ、さいあく〜。わたし、まぬがれてるよ」「私、そもそも、つかってないよ。でも、つらくなったら、つかってみようかな」なんて明るく話せる…。そしたら、またステ使用中の人もやめた人も、つかったことない人も、一緒に「アトピーつらいよね〜」なんて話ができるとおもうのです…。そうなったら、いいな〜。

<きょうのふっくん>
「また、かゆくなってきちゃった〜」と、ちょっとつらそうです。
「保湿剤、やめようか」「やだ、なんかぬりたいもん」「でも…ふっくん、もともと左側のほうがひどかったけど…どうみても左側ひどくなってるよ。でも、右足もかゆいもん」
「右足は、なおってきたからぬってみるって、きのう保湿剤、ぬってみたよね…。関係ないかな〜」「…今日は、ぬらなくていい」
むずかしいです。私にもわかりません。でも…あかぎれ的ひび割れは確実によくなりました。が…赤い湿疹はふえました…。
今日のポーズ(笑)ほんとは手の甲にかいてあるうさぎがみてほしかったそう。

2010年11月20日土曜日

「受容」と「自己決定」の困難

2010年11月20日(土)
<皮膚状態が、悪化しました>
あさ、ふっくんが「パジャマがくっついちゃって、ぬげないよ〜」と台所にやってきました。
手にかかえているアイスノンにまいたタオルは、ひさしぶりに血だらけ…。
「ちょっとそのパジャマ、上からぬらすから、そっとはがそう」
パジャマをぬぐと、左足のすねの皮膚は半径2センチぐらいの円状に5ミリくらいもりあがり、そのうえにコーンフレークのようなかさぶたがくっついています。
出血してくっついていたのは、その上にある、広範囲な湿疹でした。また、じくじくになってる…。
左足は、保湿剤をぬっている側です。保湿剤で、肘や腕、手の指はよくなったのに…。
肘の内側と足は、確実に悪化しています…。

椅子にたおれこみそうでした。
でも、ふっくんが私をみています。私はなんと言えばいいの?

やっと、「いろんなときがあるよ」と言いました。
ふっくんは、「そうだね」といきおいこんで、反対の足を私に見せます。
「こっちは、こんなにきれいになったもんね」

<「受容」という困難さ>
私は、むかしよんだ最首悟『星子がいるー言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』(世織書房、1998年)の一説を思い出しました。
重複障害の星子さんが、いよいよ失明することになったとき、夫婦の間でなかなかものが言えなかったときの心情を説明する部分です。
「星子が目がみえなくなったことについて、お互いに落ちこんでしまったら、悲しんでいたら、それは目が見えるほうがいいのだということを認めることになってしまい、そうすれば、耳が聞こえるほうがいい、口がきこえるほうがいい…(中略)と際限なく思ってしまうだろうという気がするのである。といって、目が見えなくなったことについて、平静にうけいれるとしたら、なんだかひっかかりがなくなって、脱人間になってしまいそうな気がする」(p.56)
そして、悲しければ悲しがったほうがいいが、その思いと、「星子に対する態度、接し方はおのずから異なる次元のことでなければならない」といいます。
重複障害とアトピーとでは、次元がちがうとおもわれるかもしれませんが、「アトピーをうけいれて、つきあおう」とふっくんに明言している私にとって、この最首さんの言葉は、そっくり私の気持ちでした。

「アトピーが悪化したことで私がおちこんでしまったら、それはやはりアトピーはよくなったほうがいい、ないほうがいい、健康なほうがいい、みためがきれいなほうがいいと際限なく思ってしまうのではないか」「でも、やはり悲しくて、私が悲しいと思えるのは「ふつう」だとおもう。だけれど、それをそのままふっくんに伝えるべきことでもない。ふっくんはふっくんで、アトピーが悪化しようとしまいと、同じふっくんなのだから」

最首さんは、べつのところで、「不治の病だと聞くと、私たちは生きる気力をなくしてしまう。またそういう人にどう付き合っていいかわからないのである。だからもっぱら隠して、そういう不安をもつ人にには、だいじょうぶ必ず治りますよと励まし続ける。ここが恐ろしい」(p.108)とかいています。つまり…自閉症やダウン症のような「治らない人」をわたしたちの仲間から排除することになるからです。
「治るほうがいい」「重度でないほうがいい」こうした気持ちは、誰しももってしまうとおもいます。しかし、これを「当然視」してしまうと、人に優劣をつけることになります(障害者間での差別は、これまでかなり激しいものがあり、とくに「就労可能か否か」で、就労可能な障害者は不可能な人を徹底的にばかにする傾向が報告されています)。

<「完治」を目標にすることで「排除」しているもの>
そういえば、ひっくんがアスペルガーだとわかった当初、自閉症・発達障害にかかわるおおくの講演をききにいきました。
そこで、医療者たちが「私たちの目標は、患者さんを納税者にすることです」と言うのを何度も耳にしました。
いや、私とて、ひっくんが納税者になってくれればほっとします。
でも、納税者でいるためにその自閉傾向をおしつぶし、薬づけになり、チックを多発しながらいくのだとしたら…、いやひっくんが「ぼくは、納税できるけど」と、重度の自閉症の子と差異化をはかったとしたら…。
それは、たえられないと思ってきいていたのを思い出します。
さらに、こうした目標を医療者がたてるということは、納税者に育てられなかった直接「療育」にかかわる保護者、納税者に育ち得なかった本人の自己責任にされかねません。いかにも「新自由主義的」社会観です。
この状況はきびしすぎます。

アトピーで職を失う、または職につけないなどの状況を肯定しろといいたいわけでは、もちろんありません。
アトピーで長期療養休暇がみとめられる、アトピーで生活保障が受給できる、そんな制度づくりが、どうしたら可能か、ほかの障害や疾病をもつ人たちと、どうしたらともに「運動」できるのか、そんなことも考えられたらいいとおもっています。

<「持論」への拘泥>
さて、「よくおー先生のとこいったね」「つかちに先生のところにも、いつかいってね」と応援メールをくださった方たちがいます。うれしかったのですが、すこし「行ってどうなのか…」とも思いはじめています。
人は、自分でまちがいを発見したときは素直になれますが、人からまちがいをつきつけられた場合は認めないのが一般的です。まちがいをみとめるどころか、うらまれる可能性もあります(皮膚科学会の権威たちの態度をみても自明ではありますが…(笑))。
よく考えれば、私はこれまでも息子たちの受診に際して「いいもらしがないよう」とメモを持参することがかなりあります。が「もってかえってください」といわれたのは、おークリニックがはじめてでした。私の人選ミスだったかも…と、かなり確信的になっています。いや、そもそも、もっと若い柔軟さをのこした人を選ばなかった時点で失敗だったのかもしれません。
そういえば、あーちゃんは脱ステ病院退院後、地元の皮膚科にいってみるとかなり若い医師が担当にあたったそうです。まったく脱ステに関心がなかった人であったにもかかわらず、あーちゃんの話を熱心にきき、彼なりに文献その他で調べ、その後ステロイドはなるべく使わない方針に転換したとか…。まー職場でも、年配の人、人のはなしなんてきかないし…。
だいたい上野千鶴子なんて、講演ではしょっちゅう「わからんちんおやじたちとの議論は労力と時間の無駄。死ぬのをまちましょう」とギャグネタにしているくらい…。

もし、「脱ステ医をふやすんだ!」とめざめたら、まずは近所の「若者医師」リサーチからはじめたほうがいいかもしれません。
(しまった〜! そういう意味では「お大尽」耳鼻科の先生のほうが、よかったかも!!でも、若く見えるだけだったら…(爆))
そんなときは、深谷先生が作成されたインフォームドコンセントの資料を持参すると効き目があるかもしれません。
これ、見た目にわかりやすくて、これなら医師もなんらかのコメントをせざるをえないような気がします。
こんど、ふっくんの鼻づまりがひどくなったら、「お大尽」先生のところに、これをもって行ってみます(笑)。

そうそう、「いくら論理的な証拠をつきつけられても、人はなかなか持論をかえない」といったことを、さまざまな実験結果をもとに論じている本に、高野陽太郎『「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来』(新曜社、2008年)があります。


<「いつかやめたい薬」としてのステロイド>
さて、さきほどふっくんのアトピーが悪化した話をかきました。ふっくんにとっては、理由はどうあれ、状態の悪化ですが、私にとっては、これはやはりステロイドのせいであろうという気持ちはぬぐいされません。

どきどき、いろんな言葉で、アトピー関係のブログの検索をしてみます。
すると…標準治療をほめたたえ、ステロイド使用をすすめるブログでさえ、最終的には「いまは、くすりつかっていません!」「リバウンドのこないステロイドのやめかた」など紹介していたりします。
(そういえば、読売新聞も11月4日に「標準治療」の特集をくんでいたのですね。しらなかった!アレルギーにかんするブログで、絶賛していました…。これ、皮膚科学会のキャンペーンでしょうか…)
「でも、結局、みんなステロイドつかいたくないんだ…」としみじみおもいます(とはいうものの、むろんこの中には、「たんに薬をぬりつづける状態がいや、なのであって、ステロイドがとくにというわけではない」人もたくさんいるとおもいますが)。

さて…しつこいようですが、なぜ私は「いいのか?」とときどき思いながら、ステロイドをつかってきたのか、なぜみんな「こわい」とか「いつかやめたい」と思いつつ、ステロイドをつかってきたのでしょう…。

<ステロイド使用を決めたのは誰?>

岡部勉(『合理的とはどういうことかー愚かさと弱さの哲学』講談社、2007年)は、アリストテレスをつかって意志の弱さにもとづく行為(のんではいけないとおもいつつ、飲んでしまうとか、どなってはいけないと思いつつ、どなってしまうとか)について説明しています。
「①強制されたものではなく、自発的にしたものであって、しかも②行為者(行為する当人)は何をするのか知っていて、意図的にそうしようとしたものである、そして③他の誰でもなく自分自身による(自己決定した)ものではあるのだが、④選択された行為ではない」つまり、「①自己責任、②意図的、③自己決定、この3つが揃っていても、④選択された行為とはみなさない」(p.22)といいます。
「その理由は、選択された行為は他にあって、それは実は、選択されようとしたのだが、実際には選択されなかった、実際になされたのは別の行為、意志の弱さによる行為であったのだから」(p.61)だそうです。

具体的にアトピーにおきかえて、書いてみます。
ステロイドをやめたいとおもっているのに、ぬってしまうのは、それがたとえ「①自発的に自己責任で病院にいき、②アトピーをなおしてもらう意図をもち、③ステロイドをぬることを決定したとしても、④それは、あなたが選択した行為ではない」ということになります。
「薬物依存だから当然」というつっこみは、とりあえずおいておいて(笑)、岡部さんのあげる理由をかきます。
「①自分が選択しようとしているのとは別の何かをするようにし向けるものが現に目の前にある、②その別のことをしないよりは、することの方が、むしろ自然である、③その別のことをする習慣がその人にはある、④周囲の誰もがそうしている、⑤何らかの権威のある人(親とか医師)がそうするように勧める、というような場合には、ある意味ごく普通のことであるように思われます」としています。

この場合、「別の何か」「別のこと」がステロイドを使用することに該当します。おきかえてみると…
まさに、標準治療の世界です…。

なお、岡部さんは、では「意志の弱さに基づかない行為」つまり「意図的な行為」を選択できる能力とは、「長期間の訓練と学習を経て、かろうじて、備わる人には備わるというようなもの」(p.62)だといっています。つまり…「ふつう」はむり。

<あなたは、わるくない>
この論理は、裁判になったときなど、使えそうに思います。「自分で病院をえらんだ」「その治療方法に納得して、自分でぬっていたのだろう」などといわれたときに、「それは意志の弱さにもとづく行為でした」と理路整然と説明できます!(でも、アリストテレスでは、古すぎでしょうか(笑))。
もちろん、裁判しなくても、「なんで、ステロイドつかっちゃったんだろう!」って自分をせめている人がいたら、ぜひ「アリストテレスは、あなたのせいじゃないっていっているよ!」とはげましてください!!

ちなみに…岡部さんは、この定義のなかに「情報不足とか情報の欠落」(p.64)という要因がはいっていない理由も書いています。情報不足で行うということは、そもそも「自分が何をしているのか知らない」という状態にあるため、自分が決定した行為であるとは言えない、意志の弱さうんぬん以前の問題だとしています。
現在、アトピー治療現場における「ステロイド不使用治療法」など圧倒的に情報不足です。自分をせめる必要はありません!(って、自己弁護みたいになってしまいましたが…(笑))

<だったら、どうすれば?>
いいのでしょうか…。「わるくないのは、わかったけど、でも、どーするの?」ときかれそうです…。
時間かかるけど、アトピーはなくならなくてもよくはなるよと示していくこと(なんか星子さんの話と矛盾しそうですが)、ステロイドのせいで難治化した人がたくさんいるよとアピールすること、でしょうか…。
近所の医者も…正攻法だとむりだけど、なんか「伴走」してもらう方法はあるかもしれません。
また、ふっくんと相談して、ぼちぼち考えながら、行ってみます。

<きょうのふっくん>
今日も、ブレークしてました。「芳泉」の風呂…。
「写真とろ〜」っていったら、いろいろポーズを工夫。「いつも同じはつまらない!」そうです(笑)。でも、これは昨日のもの…。くんで上になっているほうの足を夜中にかきむしったのだとおもわれます…。
今日は、写真をとるともいわず、薬をぬるともいわず、さっさとパジャマをはいて、アイスノンの用意をしてひっくんと2階にいってしまいました…。
おふろあがりなので、ちょっときれい

2010年11月18日木曜日

「肯定される」ということ

2010年11月18日(木)
<「病院にいく」という行為>
なんだか、つかれています…。
「ふっくん、アトピーとつきあっていけばいいよ」というとき、ふっくんは「アトピーをもつこども」です。
が、「アトピーをみてもらいに医者にいく」となると…、ふっくんは「アトピーの患者」となります。
なんか、病院にいくことで、患者役割をひきうけざるをえなくなる…。これって、どうなんでしょう。
「こども」も、おうおうにして立場がよわいですが、「患者」もまた立場が弱いですよね…。
弱さの重複…親の指示にも、医療者の指示にさからえない…。みすてられたくない…。ちょっとやさしくされるとうれしい…。

とくに、患者の場合、「いまの状態をなんとかして」とおもえばおもうほど、相対的に医者の力が強くなり、患者の立場はよわくなるかもしれません。

そいうえば、3人目の息子を生んだ病院では、まったくの自然分娩でどこも切らずにうまれたのに、毎食後抗生剤がだされました。たまたま仕事でパソコンをもちこんでいたため、「抗生剤 予防投与」でしらべたら…。「手術後の抗生剤投与は耐性菌を生むだけで、メリットなし」とする論文がたくさんでてきました。その画面みせて、医者に「不必要だとおもいます」といったとき、すごいいやな顔してました。
それでも、私、不利益をこうむらないように、退院する朝まで薬をためて、最後の回診のときにそれを伝えたことを覚えています。

あらためて…そんなある意味「アナーキー」が私が、なぜにふっくんのアトピーに関しては、これまで治療方法に疑いをもたなかったのか…。
たぶん、アトピーは「みため」の問題が大きいからかもしれません…。おばーちゃんたちに「みっともない!こんなんで、ほっといて。私はあなたをもっと注意深く育ててたわよ」といわれたくない。私が「肌をかきむしる息子」をみたくない…。私の「都合」ばっかりですね。自己嫌悪…。ごめん。

<「善意」という「重荷」>
あ、でも…この「母」という人は、ちょっとやっかいな存在でもあります。娘には遠慮も容赦もないとゆうか…。
そういえば、もう10年以上前になりますが、わたしの友人も、アトピーのこどもの脱ステにチャレンジしていました…。
そのとき「ほっといていいの!?」とそのおかあさんが、連日なにかもってきたそうです。マルチ商法的な1本1万円もするようなジュースに、あやしげなぬり薬…。「ぴーふけの言うことなら、きくかもしれない。あれ、やめさせて。お金もむだすぎ」と白羽の矢をあてられ交渉にでむくも…「ぴーふけちゃんには、私がどれだけ心配してるかわからないのよ!」と号泣され…。
まいりました。
「善意」とは、ときにおそろしいです…。
このとき私は、ついつい「おかーさん黙らせるために、もう一回ステロイドつかったら?」と言ったような…。ごめんね…。今の私が、友人にそれ言われたら、すごくなえます…。あのときは、きづかなかった…。ステロイドについて知ろうともしていなかった…。
でも、その友人のこどもも大きくなって、いまはそれほどアトピーになやんでいるようすはありません(たぶん、その友人が、がんばったんだと思います。こんどどうだったのかきいてみようかしら)。
たしかに、私の母も、このまえの朝日の記事、しっかりきりぬいて「ステロイドつかわないと!」とやってきました…。ありがたいけど、こまる…。
そうそう、母娘関係でいうにいわれぬ葛藤があるときは、ぜひ
信田さよ子『母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き』(春秋社、2008年)
をお読みください! わたしは、これで救われて、かえって母娘関係がよくなりました…(笑)。

そいえば、私の「脱ステ宣言」に無関心そうだった知人のひとりも、ブログをみてくれて…。
「よんでて、いろいろ昔のこと、おもいだした。私もそういえば、こどもに「薬以外の方法を!」「自宅で温泉治療はどう?」と湯ノ花買ったりしてたよ」「でも、おばーちゃんにいろいろ言われたくなくて、その頃は実家から遠ざかってた!(笑)」
なんか、一緒だ。すごくすくわれました。ありがとう。


<「ふつう」からはずれる存在>
さて、深谷先生の標準治療を広めるとはという投稿をみて…つくづく「おー先生、あなたの態度、やっぱり問題ですよ」と思えてきました(でも、朝日新聞の記事のおかげで、深谷先生の情報発信がふえたことは、ありがたいことです。でも、でも、あとで、どーんとこないことを願っています)。
「標準治療を拒否する」患者を鼻で笑い、関心をなくすとは…。「ふつう」からもれた人たちを無視/排除するということですよね。
「ふつう」以外の人に注目するかしないか…。これは…やはり「科学」とは関係ありません。その人の「思想」の問題だと思います。
しかも、標準値からはずれる事象、「ふつう」ではない状態に着目してこそ、「科学」と言えるともおもいますが…。


<保湿解禁!?>
そういうえば、あーちゃんから「保湿はじめました」メールがきました。
そんな時期です…。わたしも、かかとのがさがさがピークに達し、1カ所ひびわれて痛い…。ふっくんも部分保湿をはじめたし、私もメンソレータム解禁にしよう!
(とおもったら、ふっくんに「ぼくも半分こ実験つづけてるんだから、おかーさんもかかとは塗ってもいいけど、手はだめ〜」と言われてしまいました…(爆))

そいういえば…私のかかとのがさがさは遺伝的なのか、母と一緒。高校生の頃はもう、友だちに笑われるほどがさがさ。
谷崎潤一郎の「刺青」を読んだとき、つい自分のかかとをみつめながら、「私…谷崎には好かれないな~。でも、私が好きになった人が、谷崎みたいに『かかとフェチ』だったらどうしようかしら…」なんてナイーブにも思ったりしていました(笑)。
以前、テレビで、オリーブオイルをぬってラップでおおって靴下はいてねる方法を紹介していて、やってみたこともあります(今思えば、湿潤療法!ですね)。これ、すごくききました。が…ねるとき靴下はくのってなんか好きになれなくて、すぐ挫折。
でも、じっさいに不都合なのは、ストッキングをはくときぐらい。はいた瞬間にかかとにひっかかってやぶれます(笑)。でも、ストッキングなんてもう何年もはきません。つまり、ほとんど困ってないです。

でも、そのせいか…あかちゃんのかかとが大好きです。ふわふわでやわらか。「歩き出したら、がちがちになっちゃう!」と息子たちが赤ちゃんの時、さんざさわりましたし、いまも保育園であかちゃんがよってくると、かかとにさわってみたり(笑)。わたしがいつのまにか「かかとフェチ!?」(笑)。

またちがった…。「かかとフェチ」のはなしではなく…。ふっくんの皮膚のかさかさも、この程度なら問題ないって話をするつもりで…。

<保育園の先生と、アトピーについて語る>
ふっくんの担任の先生にひさしぶりに会いました。(早朝保育の時間におくり、延長保育時間にむかえにいくことがおおいので、めったに会えません…。ほとんど、コミュニケーションはおたより帳に依存しています)。
で、先生が
「このまえ、なんか今日はやけに顔がきれいだとおもって、どうしたのってきいてみたら、ふっくんが『電車2回のりかえて、バスものって病院いってきたんだよ』ってすごくうれしそうにおしえてくれたの。で、「なに? そこは特別なことしてくれるの?」ってきいたんだけど、「なんにも」って。ほんとに、なんにも?」
「うん。そこステロイドやめることに肯定的なお医者さんで…」とおー先生での診察室でのいきさつをはなし、
「混乱してたみたいだから、おもいきってつれてってみたの。はげましてもらいにいったようなものだから、べつになにもしてないんだよ」
「じゃー、アトピーって気持ちにかなり左右されるってこと? あれから、ほんとなんかふっくん、顔がきれいだよ」
「うん、そうかも…。それに、あれから、ひっくん、みっくんがやけに協力的で…。なにかと「きれいになってきたね」「このまま、つづけよう」って言ってくれて、本人もその気になってるみたい」
「よかったね〜」
「うん、いろいろあったけどね〜」と、予期せぬアスペカミングアウト話などして、爆笑していたのですが…。
「でも、ふっくんには、よかったとおもうよ。保育園でも、『くすりぬらなくても、かゆいときはアイスノンで冷やしたり、ローラー針でかけば、大丈夫だから』って、『ほら、足もきれいになってきてるでしょ』なんてみせてくれて。あの人、すぐぷーっとふくれるし、負けると怒るしで、気分に波はあるけど、でも毎日元気にとばしてて、ほんとによく笑ってるよ」と言ってくれました。よかった〜。
「でもね〜、おかーさん、みんななにかしらあるもんね。私はさ、それをなくそうとせずに、つきあっていけばいいとおもうんだよ。へんに、かくそうとか、なくそうとするから、話がややこしくなるし、こじれる。ふっくんもアトピーあっても大丈夫。あの子は、くすりなくても十分やっていけそうだとおもうよ。でも、おかーさん、大変なときもあるとおもうから、また、このまえの石けんのときみたいに、手紙でもなんでも、言ってね。できることは協力するから」
しみじみ、ありがたい言葉でした。先生に、私のかんがえを「それでいいよ」っていってもらえるって、こんなにおちつくものなんだと…。
先生と、話せて良かった〜。この保育園でよかった〜。
(でも、この保育園、今年で廃園…。わたしのすんでいる自治体は、いまここのような公立保育園を次々閉鎖し、民間にゆずりわたしています。わたしたち、かなり「運動」したのですが…かなしいです。こんなベテラン保育士さんと一緒にはたらいて、保育士さんたちの智恵をゆずっていってほしいのに…。民間はいくら良心的でも経営の都合で、どうしても「若い先生」と「パートさん」になりがち…。なかなか「先生」はそだちにくい環境にあるとおもいます…)

<きょうのふっくん>
今日のおふろは、「漢方、生薬入浴剤『芳泉』」をいれてみました。いつも無農薬野菜や放牧牛乳をかっているところでもらったパンフレットをみて、なぜかふっくんが「これ買う!」と強く主張。肌にはどうかわからないけど、「冷え性」にいいなら、買ってみるかと。
で、いれてみましたが…おふろ真っ赤。においは…とうがらしとシナモンとどくだみをまぜたような(どれも入ってません(笑))強烈なにおい…。入浴剤大好きひっくんが顔をしかめています…。が、ふっくん、おおよろこび。
「これ、いいよ!」(えっ、そうなの!?)。
うん…たしかに、あたたかい…。しかも、においからは「ぴりぴりきたらどうしよう」とおもったのですが、なんだかやわからなはだざわり。いいかも…。ふっくんは、「ぜんぶ、しぼりだす!」とずっと生薬がはいっている袋をにぎって、でてきません。
まー、きみが気に入ったなら、よかったよ。
*すみません、とうがらしは入っていました。「蕃椒」がとうがらしのことだそうです…。どおりで袋をにぎると熱い感じがしたわけです…。あとは、みかんの皮や生姜などなど。

おふろあがりは、また左半身のかゆいところにのみ、保湿剤をぬりました。

ふっくんは、今日は保育園の先生にもほめてもらったし、はじめてふっくんと同時進行で「脱ステ中」のおにいさんにもコメントをもらったしで、ご機嫌で眠りました。

<「石けん」不使用運動!?>
そうそう、「もう手も足も痛いことはなくなった」という話から…。
「石けんつかってないからだよね」とふっくんがいいました。
「それもあるよね。保育園のみんなはどう? ふっくんが石けんつかわないこと、なにも言わない?」
「いわないよ。だってぼく、説明したもん。石けんのつかいすぎは、手がかさかさになってかゆくなるし、もっとひどくなると痛くなるよって。いま、ぼく、きみくんとも一緒の班だから、おしえてあげたかったんだよね。で、ほんとはきみくんにいったのに、いまぼくの班、だーれも石けんつかってないんだよ。先生はしらないけどさ(うきゃきゃきゃきゃ〜っ)」
「へー、よかったね」と一緒に笑いながら、内心(どこかのおかーさんが「不衛生なことおしえないで!」って、怒ってきませんよーに)とおいのりしてしまいました(笑)。

でも…保育士さんとはなせたのが、きのうの今日でよかった〜。
私…おもっていたより、おー先生の対応、ダメージがおおきかったようです。

でも、今日もみなさん、ありがとうございます。元気づけられました。
おやすみなさい。

克服から共生へ

2010年11月17日(水)
<おー先生のところに、いってきました>
さて、今朝ふっくんが、「病院、いってもいいよ」というので…気がかわらないうちにと、行ってきました。
夕方いきましたが…また、超混み。インフルエンザの予防接種の人、かなりおおかったです。
いつもなら、こどもをかきわけて、ブロックで遊ぶか、絵本をよむかするふっくんが、今日はなぜか、ぴたりと私に背中をくっつけて無言で座っています…。「無言で」なんて、日頃のふっくんにはありえません。ふっくんも、今日の診察はかなり覚悟してきたのではないでしょうか。
そりゃ、そうだとおもいます。私もかなりイヤでした。たとえるなら…ぜったいにふられるとわかっているのに、告白する気分!? う〜ん、ちがうな…。「相手にいやがらせだとおもわれてしまったらどうしよう」という気分? いずれにせよ、きもちは暗かった…だから、診察室の前によばれたときは、いつも以上に明るくふっくんに話しかけていました。

が…わたしたちの前の人、なかなかでてこない…。「とりあえず、顔のステロイドはやめましょう」との先生の声がきこえてきます。耳がぴくり。
でも、つづいたのは…「つけはじめは、ぴりぴり痛むかも」「1週間は、がまんして。でも、たまにあわない人もいるから…」「日に当たる予定がある日はやめて」う〜ん、どうやら、プロトピックの説明をしているらしい…。がっかり。
でてきたのは、20代の女性。ここは、アレルギーの看板もだしているためか、ときどきおとなの患者さんもまじっています。

<ステロイドのリバウンドなんて、ない!?>
先生は、「どうなった?」と、ふっくんの顔と頭をみて「う〜ん、かわらんね」と一言。
「でも、先生、ちょっとはよくなったんですよ」と手をみせましたが
「これが?」と、ろくにみてくれませんでした。「で? 今日はなに?」
「血液検査してほしいんです。実は、脱ステをこころみてる先生のところにいってきました」
「で? これ、何?これがわかって、どうだっていうの?」
「いや、その先生がおっしゃるには、栄養の吸収がうまくいなかいために、皮膚があれてるのではないかとおっしゃって」
「で、どうして、わたし?」
「そこの病院では、こどもの採血ができないそうです。それに、遠いから通院するのも大変でしょうと。できたら、近所のお医者さんに協力してもらって一緒に治療できないかととおもわれたようです」
「ふ〜ん。どれどれ」彼女は紹介状をみます。
「ステロイドのリバウンドはみとめられないって、そもそも、そんなのないわよ」
と、彼女は鼻で笑いました。
うわ〜っ。
しーな先生、もしかしてこれをみこしての「リバウンド」だったのでしょうか。
もし、ここで「依存はみとめらない」と記載されていたら、おー先生の反応はどうだったのでしょう…。
「だけど、なんで、この病院で採血できないの? わけわかんない。けど、ま、とにかく、今日は、血液検査だけすればいいんだよね。いいよ、やるから」
そういうと、彼女はもうふっくんには関心をまったく示さず、看護師さんたちに指示をだしはじめました。

採血には、ふたりの看護師さんがつきあってくれました。めがねきらりん看護師さんが、採血担当です。
なんだか、前2回、私たちに距離をおこうとする雰囲気だった看護師さんたちですが、気のせいか、今日は親切。
ふっくんにもにこにこはなしかけ、「おかーさんいなくても、大丈夫だよね」と私は外にだされます。
採血後は、「すごいね〜」「よくがっばったね|とほめちぎる看護師さんに手をひかれ、うれしそうにふっくんが出てきました。

結果は、1週間後です。どうなることやら。

本日の治療点数は、再診料70点、外来管理加算52点、血液検査料426点 でした。

それにしても、「なんで、採血してくれなかったの」と看護師さんたちも首をひねりまくり。
どうしてでしょう…もしかしたら、しーな先生の「運動」?なるべく地域の医者に脱ステに参加してもらうという? う〜ん。

ふっくんは、受診後もおちついていて、ひっくんにも「今日さー、くすりなかったから、薬局でおもちゃもらえなかったよ」と報告しているだけでした。
「でもさ〜、今日、先生、ふっくんの頭みてたけど、今度から、足みてもらおうよ」と言ってみました。
「いいけど、なんで?」
「だって、頭はかさかさだけど、たいしてかゆくないんだし、それでいいじゃん。いちばんひどいの足なんだし」
「うん、まーいいけどさ〜」
とはなしていたら、ひっくんが「ところで、それってなおるの?」と。

<病気との「おつきあい」=共生する>
「う〜ん、足はもっときれいになるともうけど、でも、かさかさだったり、すぐかゆくなるのは、なおらないとおもうよ。だって、ふっくん、アトピーなんだもん」
「なおんないのかよ〜。ぼくのアスペもなおらないんだよね」
「うん。なおらない」
「さいあく〜」とふたりが、大声をあげました。
「そうかな〜。いいよ、よわいとこがあるって。誰だってなにかしら抱えていきてるわけだし」
「え〜。病気とかは、しないほうがいいんだよ」
「でも、してはじめて、人の気持ちがわかるとか、あるじゃない。おかーさんは、しんどいとか、できないって人の気持ちをわかる人になってほしいな〜」
「でも、めんどうじゃん」「そうだ、そうだ!」と、また二人が同調。
「だからさー、きみたちもたとえば「アスペ全開、いきるのしんど」的なときと、「あれっ? アスペだっけ」的なとき、あるでしょ。だから、「ここ」ってときに「アスペだっけ」状態になるにはどう調整したらいいのか、「全開」になっちゃったら、どうしのぐかとか…そんなつきあい方をかんがえていってほしいと思うし、自分でそれが判断できるようにおかあさんは、手伝いたいとおもってるよ。これは、アトピーも一緒ね」
「う〜ん…なんかな〜」
「とにかく、きみたちは、なおりません。だから、なおすことは考えない。つきあい方をかんがえてください」
と、おわりました。

<「病気」と「共生」するVS「病気」を「同化」する>
この「病気とつきあう」という考え方は、私のオリジナルではありません。
これまでは、「病気」とは「克服」するものでありました。ところが、「ナラティブ・アプローチ」では、ちがいます。
「病気を克服する」とは、私たちの文化でドミナント(主流)な物語だとすれば、そのオルタナティブ(かわりとなる)物語をかんがえようとします。
たとえば、ドミナントストーリーでは、「摂食障害」は「悪」であり、「完治させるもの」「克服するもの」だとすれば
オルタナティブ・ストーリーでは「摂食障害」のおかげで、ここまでつらい現実をしのいでこれたのだと、「評価」します。
ただ、つらい現実をしのげるようになったら、ちょっと「摂食障害」にもやすんでもらってもいいよねと。
つまり、ひとつの考え方として、「摂食障害」を肯定的に評価し、「つきあうもの」「共生すべきもの」とかんがえる方法です。
これは、むろん、「リストカット」「アルコール依存症」などなど、さまざまなものに応用可能です。

*参考として…私は、こんな本で勉強しました。
S.マクナミーほか『ナラティブ・セラピーー社会構成主義の実践』(金剛出版、1998年)
野口裕二『物語としてのケアーナラティブ・アプローチの世界へ』(医学書院、2002年)

障害の考え方も似ています。
昔は障害といえば「悪」であり、「完治させるもの」「克服するもの」であり、「健常者」にすこしでも近づくべき、努力するものでした。
しかし、当事者運動が世界各地でおこり(イギリスとかアメリカがはやかったです)、「障害」を障害たらしめているのは、「社会である」と告発します。身体的な機能に「障害」があったとしても、それをたすけるものがあれば、それは生活上の「障害」にはならないのだと。たとえば、足が不自由な人がいたとして、「階段しかない」「自力で歩くことをもとめられる」社会にいきていれば、その足の不自由さは、「障害」です。しかし、「車いすの使用が可能」「スロープやエレベーターがいたるところに設置されている」社会であれば、足の不自由さはすでに「障害」ではなくなります。
「障害学」という学問では、従来の「健常者にちかづけよう」とする「ドミナント・ストーリー」を「医学モデル」とよび、それに対抗して「機能障害があるままでも、生きやすい社会をつくろう」とする「オルタナティブ・ストーリー」を「社会モデル」とよび、普及させようととりくんでいます。

さて、こうした考え方は、社会構成主義とか構築主義とかよばれる考え方とともに出現してきました。
私は、専門家ではありませんが…ふと、これって「ぜんぶ一緒じゃないか!」とあらためて…(社会学徒のみなさん、笑止でしょうが、ごめんなさい!(笑))
国際関係も…昔は、「帝国主義」「植民地主義」が当然。だから他民族を「同化」することは、「統治手段」でもあり「恩恵」でもあったわけです。それは「言葉」「教育」「宗教」「生活習慣」あらゆるところに及びました。…ところが、「同化される側」にしてみればそれは「強制」であり「自文化の抹殺」です。で、反乱がおきます。
ポストコロニアリズムとは、この「植民地主義」「同化支配」を反省するものでありました。そして、「多文化共生」がさけばれるようになります。

あらためて…医学も、ドミナントストーリーにのっかっています。
医学にとって、たとえば「アトピー」は、「完治させるもの」「克服するもの」です。だから「征服」したい。
薬その他、さまざまな「療法」で、アトピーを「同化」させようとしたり「排除」しようとやっきになる。しかし、アトピーのほうは、わけあって出現しているわけですから、なんとかそこをまぬがれようとします。
医学の志向は、近代化する過程で支配的だったイデオロギーである「植民地主義」をいまだ脱していないということでは…。

<脱線〜本の紹介>
*「これじゃー、納得いかない!」という方は…川本隆史『哲学塾・共生から』(岩波書店、2008年)にあたってみてください。
ポストコロニアリズムについては…私は本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)がわかりやすいとおもいます。が…「ポスコロなんて、言葉しらん」という方は、石田雄『記憶と忘却の政治学ー同化政策・戦争責任・集合的記憶』(明石書店、2005年)などを先によまれると、「植民地主義」の輪郭がはっきりして理解しやすくなると思います。
脱線ついでに、すみません! どこかで一度書きたかったので…本橋哲也さんは、同じ2005年に同じ岩波書店から『一冊でわかる ポストコロニアリズム』というロバート・ヤングの訳書もだしています。で…アマゾンの書評、この2冊に同じ内容の書評がのっています。これ、アマゾンのミスでしょうか…。本の内容は、まったくちがいます。新書の方はコロンブスの話からはじまるまさに入門編ですが、訳書の方は前知識がないと苦しいです。

で、すみません、「アトピーと共生する」話をしたいわけですが、さきに、もうひとつだけ

<医学は科学、イデオロギーとは無縁だ!>
と、おもわれる方に…。
残念ながら、医学もその時代と地域の文化背景に、おおきく左右されます。
たとえば、夏井睦『傷はぜったい消毒するなー生態系としての皮膚の科学』(光文社、2009年)には、パスツールが菌を発見した際に、それを「撲滅すべきもの」と考えたことによって、のちのちの医学をおおきく転換させたと書いています。
「菌」を発見する、これはただの事実です。しかし、私たちは、それを解釈するときに身近なストリーにのせて、その発見を理解しようといます。つまり「科学的な発見」は、発表される段階でおうおうにしてその発表者のイデオロギーで脚色されてしまいます。
支配的な文化から、つねに距離をおくのはむずかしい。支配的文化の文脈にそった説明は、時代にうけいれられやすい…。私は、そんな気がしますが…。

なお、こうした指摘をするのは、私がはじめてではありません(笑)。
たとえば、ロンダ・シ−ビンガー『ジェンダーは科学を変える!?ー医学・霊長類学から物理学・数学まで』(工作舎、2002年)など、おもしろかったです。

<アトピーとの共生>
すみませんでした。というわけで、ぜんぜんこんな長い説明は不要だった気がしますが…、ポストモダン的にというか、前近代的にというか、「アトピーと一緒にくらせばいいよ」が結論です。
だから、「頭皮のかさかさくらい、ほっといてよ」と…。
すねが、じくじくになって、感染症になったときだけこわいので、そのときは近代的医療でもって対処してほしいと思うわけです。だから、おー先生、「これからは、毎回、足に着目してください」と、今度行ったら、お願いしてきます。

ちなみに、きょうはふっくん「もう、保湿剤もどっちでもいいや」と、あかぎれになりそうな手にだけ、保湿剤をぬってねました。

右はきれいになってきたものの…
手はすこしずつきれいになっています。

2010年11月16日火曜日

「中立」という立場

2010年11月16日(火)
<朝日新聞の記事の論調、最後までかわらず…>
さて…、朝日新聞の記事については、何人かが「私も意見をだそうかな」とメールをくださり、とても心強かったです。
深谷先生のブログは、アレルギー友の会に会計報告にまで言及されており、圧倒されました。
佐藤先生も意見として、はげしい口調で抗議していらっしゃいます。
が…6回目の記事は、これまで以上に私を落胆させるものでした。
鈴木彩子記者…「これは、あなた個人の意志ではありませんよね」と声をかけたいぐらいでした。

また、「でも…私は脱ステしたけれど、ステ使用者の気持ちもわかるし、意見は書きたいけどどう書くか悩みます」と書いてくださった方もいます。アトピー治療の現場、それだけ、混迷しているってことですよね。
だからこそ、いろんなところで話題にしたい。すこしでもこの混迷をクリアにしたい。

というわけで…ほかのメディアでせめようじゃないか。それも、まずはてっとりばやく雑誌の「読者の声」的欄に投稿しようと。2000字弱の投稿文をかきました。

<雑誌編集者の反応は!?>
すぐにかえしてくれました。
要約すれば…
①投稿があった以上、無視はしません。掲載する方向で検討する
②しかし、ある療法の善し悪しを判断するのは、今回のように主張がわかれている場合、むずかしい。
③弊社としては、どちらかに誘導することはさけたい
④科学的根拠をしめしたうえで、読者に判断してもらいたい
とのことでした。

ようするに「弊社は中立を保ちますので、好きに主張してください」という意味ですよね。

この立場は、一見「公平」そうです。が、ほんとうに公平でしょうか。
たとえば…今回のアトピー治療について、この編集者の主張にそってかんがえてみます。
①アトピー治療の主流の説とはちがうようだか、のせてもいい
②しかし、アトピー治療において「脱ステロイド」を選択する、「ステロイドの依存性」を指摘するという立場は、主流の意見とは異なり、判断がむずかしい。
③よって、どちらにも肩入れはしない。
④だから、読者に判断してもらう

です。むろん、編集者が主張するように④科学的根拠を編集サイドを示すよう尽力してくださるのであれば、この主張はまっとうかもしれません。
しかし、通常、「読者の声」の投稿に対して、読者が科学的根拠を問いなおせるような場はもたれません。
ちなみに「だったら、雑誌社のほうで、アトピー治療に対するステロイド使用擁護派の医師と、ステロイド使用危惧派の医師、双方の意見をきく特集をくんでくださいますか?」とたずねてみました。むろん、おもだった脱ステ医の情報もそえました。
すると、「それは、難しい」と。
ちなみに、この雑誌では、これまでさんざん朝日新聞的記事(つまり、皮膚科学会の重鎮などが記事を書いてきています)は掲載されてきているわけです。
おそらくそれに反する意見は、私の投稿がはじめてです。読者はそれだけで、判断する必要があります。
とりあえず、投稿にあるまじく文献などもお示ししましたが、読者の声の投稿に対して、わざわざ文献にまであたって判断しようとおもう人は、すくないとおもいます。
そもそも、文章を書いているのは、かたや「皮膚科学会の権威」、かたや「いちおかあさん」です。

つまり…この編集者は、「場所は提供するから、かってに主張しろ、責任はもたない」と宣言しているに等しいのではないでしょうか…。
いや、もちろん、掲載しないと言っているわけではないので、十二分にありがたいのです。
この編集さんを個人的に責めるつもりは、もうとうありません。

私が問いたいのは、この編集さんが考えているほど、編集さんがとっている立場は、「中立」ではないのではないかということです。
なぜなら、アトピー治療の現場において、現在、圧倒的な力をもっているのはステロイド使用擁護派の医師だからです。

<「中立」とはなにを意味するか?>
深谷先生が、治療現場をさらなければならなかったほどに、その深谷先生が「脱ステ」に関してブログで再登場したときに佐藤先生が自らのブログで喜びを表明されたように、ステロイド使用危惧派医師は、その権力関係において圧倒的に不利な立場にいます。
いわば、おとなとこどものシーソーです。60キロのおとなが、「どん!」とシーソーにすわったら、20キロのこどもは、ふっとびます。20キロのこどもがどんなにあがいても、シーソーは平行になりません。だれかが、「ぼく、応援してあげるよ」と真ん中の支柱にたっても、この関係はかわらないのです。ほんとうに、力を均衡にしようとおもうならば、相当こどもよりに立つ必要があります。
その現実に、編集さんは気づいていません。

じつは、この考え方は私のオリジナルではありません。
信田さよ子というカウンセラーがいます。DVや虐待、アルコール依存症、摂食障害…などいろんな方面で著書を出しています。
さて、その信田さんが「中立はない」という章を書いています(『DVと虐待ー「家族の暴力」に援助者ができること』医学書院、2002年、pp.158-165)。
援助職としての「心得」として、「中立」「客観的」をたたきこまれてきた彼女は、ある日、虐待をうけてきたクライエントの話をききながら「親にも親の立場があるから…」「もう、いいかげん、許してあげたら…」と言っている自分に気づいて愕然としたそうです。
つまり、ある被害のうったえを「中立」にきくということは、双方の言い分をきこうとする、つまり「加害の側」の言い分を、代弁することになると気づいたそうです。
彼女は、それ以来「弱い側の見方になること」をモットーに、カウンセリングの方法を転換します。


<守秘義務をまもって、得をするのは誰か>
彼女は、この章につづけて「プライバシーは被害者を守らない」(pp.166-176)とも書いています。
DV、児童虐待、セクハラ…「被害者のプライバシーをまもる」としてその事件に口をとざしてしまうと、社会にはそうした事件がおこっていることが認知できない。つまり、そうした事件にあった人がいても「そんなこと、めったにない」「かんちがいじゃない?」と「なかったことにされてしまう」としています。だから、個人をださずとも、事件については「とにかく、語れ」と、彼女は主張します。

「ステロイドをやめた」という人の話を客観的にきこうとすること、「ステロイドをやめた人(患者)がいること」を話題にしないことは、結果的に、ステロイド使用擁護派医師に荷担することになるのかもしれません。


<きくこと・かたること>
もし…アトピーとは関係のないところで、このブログを読んで下さる方がいるとすれば、ぜひ、おねがいします。
身近に「アトピー」を語る方がいたら、ぜひ、きいてください。
その治療方法に関心をしめしてください。
そして「ステロイド」について話題にしてください。
ほかの知らない人に、アトピーの話をしてください。

それがたとえ、「ステロイドをきらう、ばかな親がいる」といった口調でもかまいません。
ばかかどうかといった判断は、のちに変化しえます。
とりあえず、いまは「ステロイドに不信感をもち、やめる人がいる」ということを、すこしでもおおくの人に知ってもらい、話題にしてもらいたいです。そうすれば、すこしずつではあっても、治療現場は動くとおもうのです。

脱ステを選択したみなさん、とくにわたしのような「親」の立場ではなく、「当事者」の場合、語るのはつらいとおもいます。無理はせず、でも、かたりたくなったら、語ってみてください。
「語る」という行為は、「聞く」人がいなければ、むなしいです。
私もまた、きかれてもいないにの「アトピーの息子、ステロイドやめたんだ」と話し始めるのは、気力が必要です。
無関心なのに、「脱ステのいきさつ」を話すのは、苦痛です。
でも、わらってその深刻さをごまかしながら、話していきたいな〜と。
「少数派影響源」原則は、ただしいとおもっていますから(笑)。
でも、つかれたらやめます! また元気になったらはじめてもいいですよね(笑)。


<きょうのふっくん>
「今日は、写真をとるぞ!」とはりきっているのに、わすれてねてしまいました…。
保湿剤も、彼も私もわすれてました…。ひじや手のがさがさには、ぬるといいとはおもうのですが…。
皮膚の状態は、あまりかわりありません。
でも…ローラー針に、はがれたかさぶたがいっぱいくっついて、「もう!」と怒っていました。
う〜ん…左足のすね、ひさびさに9月からの写真をみてみましたが、いまが一番ひどいかも!?
また、明日は、写真とります。

そうそう!! 夕食時、この雑誌社の対応について、ついついひっくん・ふっくんにぐちってしまいました…。
ひっくんは、ふんふんと適当にききながしているようでいて、「おかーさん、それ、結局、シーソーの話でしょ。真ん中立っても、意味ないっていう」と。
「あっ、そうです…」
というわけで、今日のシーソーの比喩のオリジナルは、ひっくんです。

しっ、しかしこのあと、全部はなしおえると……
「そりゃ、かるいほうにつくのが、ふつうでしょ。たとえ、まけても」とひっくん。
「うそ〜!」といったのは、ふっくん。「ぼくは、おもいほうだな。まけるのやだもん。それにさー、重い方にいても、そこで地面けってたら、シーソーうごくじゃん」と。

うわ〜〜〜、性格でてるわ〜と笑えました。
みっくんが会話にくわわれるようになったら、なんて言うのかしら。

おやすみなさい。

2010年11月15日月曜日

「クスリ信仰」と「清潔文化」

2010年11月15日(月)
<クスリ信仰>
さて、昨晩、ふっくんが夜中に「おが~!」と怒ってわたしのところにきました。なんだかねぼけていた私、「ここにはいりなよ」とふっくんかかえて、そのまま眠ってしまいました。
朝、「そういえば、ふっくん、きのう夜中、どうしておきちゃった?」ときいてみると…「みっくんに、けられた!」と。「よかった~。かゆかったんじゃないんだ」「ちがうよ。いたかったんだよ、みっくん。ひとのこと蹴っといて、自分ねてるし!」とプンスコ。「そりゃ、ねぼけてるほーは、蹴ったことなんて気づいてないよ」なんて笑っていると、ふっくんは自分の足をみています。
「おかーさん! あしがきれいになってる!」そういって、うでもめくります。「おかーさん、ひじのところも、きれい! やっぱり、くすりぬるのが、いいんじゃないの?」とうれしそう。
「ほんとだ。きれいになってる。でも…それ、くすりぬらなかったほうだよ」
「…うそだ!」
「いや、おかーさんがあってるよ。ふっくん、おふろあがりにおかーさんにどっちの足、だしてた?」
「…なんで、なんで、くすりぬってないほうが、きれいなの!?」
ふっくんのまなざしは、真剣です。よくきいてみたら、保湿剤をぬるとすねは、かなり痛かったのでことわったものの、じつはほかの部分も痛かったそうです。たしかに…わたしたちでも、がさがさになってしまったあとでは、ハンドクリームをぬってもぴりぴり・ちくちく痛いことがありますよね。
でも、ふっくんは「くすりをぬれば、なおる」とおもって、言わなかったのだそう。
6歳児にして、このクスリ信仰…。きのう読んだ本、そのままの現象が、うちでもおこっていました。
ひっくんが「だからやっぱり、ふっくんのからだがなおろうってしてる力のほうが、つよいってことだよ」と解説。(あっ! それ、私がいいたかったのに!(笑))。
みっくんも「クスリなくても、大丈夫だよね! おかーさん」と加わってきました。(こっちの人は、ただたんに会話にはいりたかっただけの気がしますが(笑))。
でも、これいい経験かも。
が…(いままでになくきれいになりすぎ。脱ステ2ヶ月の成果か…。あとはビタミン剤効果。か、マザータッチ風呂?)とはおもっていました。でも、ここでクスリ信仰をまた補強するのもな~と。それは、いわずに。
でも、そのあと「あっ、ビタミンのまなきゃ」と、自分からのんでいました。もっとも…ずっぱいもの好きのふっくんにとって、ビタミン剤は、「おかし」の範疇…同じくすっぱいもの好きのみっくんに「みっくんのはないから」とわざわざ言って泣かしてみたりしています(笑)。

<清潔信仰>
 そういえば…「清潔感」も、すでにたたきこまれています。ふっくん、はじめは保育園で「石けん」をいっさいつかわないことに、かなり抵抗があったよう。だから、つい「れもん石けんなら…」と譲歩してしまったのだとおもいます。私も、手洗いうがいは、かなり言ってきましたが、でも…石けんや歯磨き粉は、必要なときだけと考えているので(たとえば、石けんは油でべたべたになったときだけとか…歯磨き粉は歯の色がちょっと黄色くなってきたときだけとかです)、めったにつかいませんし、つかわせません。
でも、保育園では、ふつうの園児は、毎回、トイレ後と、ごはんとおやつ前の「キレイキレイ」の使用を奨励されています…。外遊びのあとなら、れもん石けん…。私的には「つかいすぎ」だとおもうのですが…。

<「きたない」と「差別」~あーちゃんとのチャットその2>
以前、あーちゃんとチャットをしていて、「『けがれ』とか『きたない』って、現代ではすごく嫌われてて…それが、「差別」とつながってること、たくさんあるよね」なんて話になりました。

そういえば、小野芳朗『「清潔」の近代ー「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」へ』(講談社、1997 年)って本がありました。さがしても、みつかりません…。でも確か、近代における「清潔志向」が、「非清潔なもの」=「不衛生なもの」を措定し、それを排除しようとさらに「清潔」を志向する。私たちがいま、問うべきは「排除しようとしたもの」がなにで、どんな意味をもっていたかではないのかというような話だったと思います。

そうそう、このアメリカ版ともいえるスーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』紀伊國屋書店(1999年)もあります。著者は「清潔好き」のインテリで、「清潔礼賛」していますが…。この膨大な資料に基づくアメリカの「清潔の発展史」は、「清潔指導対象」としてのアメリカ社会における移民・アフリカ系アメリカ人の存在がリアルにえがかれ、また「清潔維持者」としての女性の担った役割(最初はアメリカ人女性、その女性たちが社会進出をはじめると今度は「第三世界の女性」)が明確にうかびあがっています。著者の意図とはうらはらに、「汚い」とされて「排除」されてきた「移民」たち、「汚い」ことを落ち度としてせめられてきた「女性」たちの「差別史」として読むことも可能です。
 なお、ホイさんはこの本を「女性の社会進出」と「第三世界女性への賃金の向上」のために、「不潔」にもどりつつある家庭をなげきつつも、「シャワー設備がととのっている現代礼賛」でしめくくっています。「差別を指摘しよう」などという意図は、いっさいなかったはずです。


 が、小野さんの方は、「清潔」をこのむ人々の意識が「差別性」をおびていることに意識的です。「人はみずからと違うものを排除、忌避する生物である。そのことが環境問題を引きおこし、他の生物を死に追いやっているのだということに気づかないかぎり、人はひたすら「虫」を殺しつづけ、一方でみずからの身体をきたえ、その美しさに酔いつづける」(p.263)のか、と私たちに問いかけます。
 そういえば、私がこどもの頃は、冬は一日おきにしかおふろにはいりませんでした。髪も冬なら1週間に1回洗うだけ。こどもたちは、どこの子も2~3日同じ服をきていたような気がします。鼻水たらしていたし、鮫肌の子もいたし、あかぎれやしもやけなんてみんなできていました。でも…いまなら、おおあわてで鼻をかませ耳鼻科へ。手ががさがさすればクリームをぬり、湿疹ができれば皮膚科へいきます。アトピーもまた、現代がうんだ「清潔病」のひとつと言えるような気はします。

<戦前のゴキブリの地位は高かった!?>
余談ですが…虫といえば…瀬戸口明久『害虫の誕生-虫からみた日本史』(筑摩書房2009年)という本もあります。彼もまた害虫の変遷をおうことで、「なにかを『排除』することでうむ『均質な空間』(p.190)に安住する現在に違和をおぼえ、本来、「望ましい/望ましくない」ものは時代によってかわりうるし、さらに、この二分法にすら普遍性はないのではないかと問いはじめたひとりです。(p.196の要約)
 この本の導入は、ゴキブリです。ゴキブリは戦前までは「害虫」ではなかったそうです。ゴキブリは食べ物のある場所、冬でもあたたかい場所にしかでない…。それで戦前までは「裕福の象徴」。よってゴキブリを「こがねむし」とよび、「こがねむしは、かねもちだ~♪」の歌までできたそうです。子どもの頃「なんで、こがねむしが金持ちなのか…」とふしぎでしたが…ゴキブリの歌だったんですね。
(*ただし…前半部分は読書メモから書いたので、大丈夫ですが、ゴキブリの話は私の記憶からの引用…。いま、確認しようとおもったら…本がない…ダンくんがもってっちゃったかもしれません…。すみません、こう書いてあったと思います)

<きょうのふっくん>
おふろあがりに、「保湿剤、どうする?」ときくと、「う〜ん」と首をかしげて、「もうちょっと、はんぶんこ実験つづける!」といいます。
左半分、かさかさのところに、ぬっていくと「おかーさん、ここと、ここは、ぜったいやめて」。そこは、やはり足のすねと、あしの甲でした。
うすかわに亀裂がはいって、またおおきなかさぶたになりそうになっています。ここは、ちょっと手間どるかもしれません。
日中はともかく、夜寝る前は、やはりかゆくなるようで、今日もローラー針を布団にもちこみ、コロコロゴロゴロころがして、かいていました。
ビタミン剤はのんでいます。おふろは、あいかわらずマザータッチ。お洗濯は、クエン酸+ペットボトルです(笑)。
足マッサーは、あいかわらず、指とその周囲だけは強烈に痛がります。足つぼの解説によれば、指の先は「鼻」、指の付けねは、「リンパ腺」となっています…。
たしかに、鼻水すごいです。いつもなら耳鼻科につれていくところですが…。まずふっくんの気がむいたら、しーな先生の指示通り、小児科で血液検査をしてもらいたいので、いっていません。
そしてリンパ線…免疫の中枢!? やはり、関係あるのでしょうか…。

2010年11月14日日曜日

「薬害」ではなくても、「依存」はみとめてほしい

2010年11月14日(日)

<「脱ステ宣言」のつづき…>
昨日、書きおえてから、もっと思い出してきました。
【小学校の先生は…】
小学校の先生に「2ばんめの息子がアトピーですが、ステロイドやめたんです」と言ったときは…「うちの子も、ひとり、アトピーでしたよ。かみさんとよく、かゆがる娘を夜中にだっこしたな〜。あのとき、ステロイド、つかってたんだろうか。もう、わからないな〜」と言っていました。たぶん、その娘さんがこどもだったのは、もう20数年前。おそらくまだ薬の名前も明記していない、白いチューブの時代だったのでしょう。その後、「あれから、気になって家でききました。当時、ステロイドいろいろさわがれて、つかうのがこわくなって、近くの漢方の医者にかえたんだって。しらなかったの? わすれたの? って、家でちょっとかみさんに怒られちゃったよ」と笑ってました。すごく、クラス運営にもたけていてこどもに好かれる、おそらく子育ても、この年代の方にしては人並みはずれてやっていたとおもわれるその先生でも、これか〜っておもったのでした。
ほかに、知人のひとりは「わたしの友人もすごいアトピーひどくて、たいへんだったって。たしか、会社もやめて入院してたとか…。ステロイドがんがんつかってなおしてもらってたとおもうけど」と言っていました。が、後日、「ちがうんだって〜。なんか遠くの脱ステの病院いったんだって。もう15年くらい前の話らしい。そんな頃から、ステロイドやばいって話になってたんだね〜」とか…。みんな、しらない…。無関心…。
とはいうものの、このお二方は、私との「日常会話」のなかから、「みぢかな人のアトピー」について、「どうだったっけ?」と疑問をもってくださったという意味では、話してみてよかったのかもしれません。これからも、「KY」でも、いってみようかしら(笑)。

そもそも、そういう私が…。
【学生時代の友人への私の反応は…】
学生のとき(って、もう20年以上まえ!?)も、「ステロイドをやめた」友人が、2人いました。
ひとりは、「わたし、こんどから漢方にする。リバウンドがひどいかもっていわれてるから、顔とかひどなってもきにしんで」と言っていました。たしか、柿の葉茶のんで、くすりはつけないって言ってたような…。「へ〜、漢方ってアトピーにいいんだ」としか、記憶にないです。でも、たしかに、いっときは、かなりすごいことになっていましたが、あれ以来、彼女、「ふつう」です。
もう一人は、小さいときからアトピーがひどく、日にもあたってはいけない!といわれてきたそうで、だから、海にすごくあこがれていた男の子です。で彼は、留学先に海辺をえらびました。1年後にかえってきたら、それまでのように赤くひかっていない、色黒の「ふつう」の男の子になっていました…。彼によると、ある日、部屋のまどから眺めているだけでは、あきたらなくなり、海水パンツをかって海へ。その夜、すごくこわかったけど、なんともない。毎日海辺で、サンオイルをぬって、ねそべって日焼けしているうちに、すっかりきれいになったと。あまりかゆくないし、海外で医者にいくのもめんどうで、くすりもぬってないとそのとき、言っていました。そのときも、わたしは「へ〜、よかったね」ぐらい…。
無関心でした…。

いまおもえば、ふたりとも、ステロイド使用者だったとおもいます。顔が、ステロイド使用者特有のひかりをはなっていました。しかし、ある日、彼女は「漢方」に、彼ははからずも「紫外線療法」を自ら開発…。
でも、わたし、そのころ「ステロイド」という言葉さえ、しりませんでした。
自分が、ふっくんの状態がきになりだしたからって、「人の無関心をなげくな!」ってかんじですよね…。

それを思えば、「ステロイド」という言葉をおおくの人がしっているいまのほうが、すこしはましなのでしょうか…。
でも…せっかくならば、アルコールの「依存症」の危険、18才未満の飲酒禁止ぐらいに、ステロイドへの関心たかまらないでしょうか…そう思って…。


<ステロイド「薬害」の可能性をかんがえてみました>
【川崎ステロイド裁判の成果】
ステロイド裁判のゆくえをさがしましたが…「川崎ステロイド裁判」は、2008年に敗訴してしまっていたんですね…。
(おつかれさまでした。でも、敗訴はしたけれど「酒さ様皮膚炎はステロイドの関係」は、おおくの人が注目し、その後「この症状をステロイドの副作用」と診断する皮膚科医はふえたようです。(酒さ様皮膚炎で、検索すると、そうした記事がたくさんヒットします)それだけでも、おおきな意義があるとおもいます)

【『薬害の社会学』より】
そこで、宝月誠編『薬害の社会学ー薬と人間のアイロニー』(世界思想社、1986年)をよんでみました(ちょっと古いのですが…)
結論からいえば、ステロイドを「薬害」とみなすのは、むりなようです(って、そもそも、これでたすかっている人もたくさんいる以上、むりだろ〜とつっこみがはいるかもしれませんね…(爆)でも、とりあえず…かんがえてみたかったのです(笑))。
以下、まとめてみます。

《薬害として認定されやすいための条件》(p.233)
①薬害が不可逆的なものであること
②通常の病気の症状に対して特異性をもつこと
③薬害のもたらす症状の発現速度やその進行がはやいもの

この条件がそろったうえで、
☆「診断(病因論)の側面において現実に適合しない原則に執着」(p.239)する医師がいること
☆被害者の組織化(p.240)
が、重要とされています。

アトピー治療におけるステロイド使用の問題性について、すでに☆ふたつの条件はクリアーしているようにおもいます。
しかし…たとえば、①は、今回の朝日新聞の取材をうけた方をはじめ、自然回復力によって、その影響がきえていく人がおおいようです。
②についても、川崎ステロイド裁判では、「もとからのアトピーが悪化した、患者の固有性の問題」とされてしまったように、アトピーの発現のしかたが、さまざまなだけに、診断は困難かもしれません。しかし、たとえば深谷先生が朝日にのった写真だけで判断されたように、「酒さ様皮膚炎」が副作用だとなざされるようになったように、「特異性」をアピールすることは可能だとおもいます。
③は…やはり難しいのではないでしょうか。たとえば私が「ふっくん、なんだか、わるくなってる!」とおもうまでに5年が経過しています。「脱ステ医」がみれば、もっとはやく気づくのかもしれませんが、そもそも、ステロイドはぬればいったんはよくなるわけですから…。

以上、ステロイドの「薬害」を裁判であらそうのはまず無理そうです。が…②が有効ならば、「依存性の有無」という争点ではどうなのでしょうか。

そのまえに…本書は、「日本人とクスリ」(p.12-57)という章で、薬の安全性とは一般的に不確実なものであることを、さまざまな方面から指摘しているので、ご紹介します。

《薬の安全性は不確実》
☆情況的不確実性:
患者サイド→体質、薬をのんだときの状態など、個人的なことがらが、薬の作用を変化させる
医師サイド→医師にはある程度危険性を把握しているが、患者には情報がしらされていない場合
☆構造的不確実性:
薬務行政の問題(しばしば、薬を開発した研究者・薬の審査機構・企業が、癒着している)
医療現場の問題(モニター制度による副作用報告が諸外国にくらべて極端にひくい。モニター制度の形骸化が原因?)
☆文化・歴史的不確実性:
化学物質の多用による人体変化(たとえば、CO2の排出の増大など、科学技術の発展による人的災害をさす)
☆根本的不確実性:
「医薬品」は、もともと自然界に存在しないものであり、「副作用のない薬はない」のが、現実。

この章では、薬が安全でありきらない理由をさまざまにあげ、最後にクスリ消費者のわたしたちに以下のような警告をしています。
「薬害とは、基本的には、企業の営利主義、行政や研究機関と企業との癒着の構造に大きな原因がある。と同時に、クスリの消費者自身のクスリに対する無自覚な依存と神秘化もまた、常に薬害の潜在的原因を形作っている」(p.54)。

現代にいきる私たちの「医者にいけば、なんとかしてもらえる。薬をのめば大丈夫」といった「常識」をとうことなしに、ステロイドのこわさが意識されることはないのではないか…とつくづく思いました。
わたしたちがまず、「くすりは異物。副作用はつきもの」と再認識することが、重要ですね。(なのに…「重篤な副作用はない!」といいきる医者って…どうなんでしょうか…)

さて、こうして私たちのクスリへの態度と、クスリのリスクをふまえたうえで…。

《原因は倫理性の欠如なのか》
と、問います。いや、そうだとおもうのです。企業の利益を優先しずぎだろうと…。
でも、この論文集の論者は「それを問いただすことの有効性は、いったいどのくらいあるのか?」とたたみかけます。
なぜなら、それを問うている間に、薬害を発生させる企業のおかれた現状を、企業の内外で展開する医者や国との相互作用の分析を、阻害されてしまうのではないか(P.217)と危惧するからです。(つまり、企業のおかれた現状をみきわめ、医者や国の相互作用を考えることなしに、薬害は発生しつづけると言っています)

《ステロイドは薬害ではないにしろ…》
ステロイドは「薬害」ではないのでしょう。それによって、快適な生活を保障されている人、たえがたいかゆみをしのいでいる人、生命の危機をすくわれた人…さまざまな人がいます。でも、だから「ステロイドは安全」「皮膚科学会の権威のいうことが正しい」ことにはなりません。
なぜなら、ステロイドもくすり。そして、くすりは昔から、「メリットもある毒」だからです。
そのことを、わたしたちは、わすれているのかもしれません。

《ステロイドとアルコールの相似》
「ステロイドとアルコールはにている」とおもいます。
わたしは、ほぼ毎日、アルコール摂取者です。アルコールは、のむとたのしかったり、はなしがはずんだりします。
「仕事おわった〜」のリラックス合図にもなります。
が…うつのときは、「依存症」を危惧しました。う〜ん…こうかくと、やはり「飲み方・つかいかた」の問題。
ステロイドで問題になる人は、本人がわるいといわれてしまいそうですが…。
でも、アルコールによわい人と強い人がいるように、ステロイドにもつよい人とよわい人がいます。
アルコールは「うつ」でめちゃのみしても依存症にならなかった私のような人がいる一方で、毎日夕飯つくりながら一杯のンでいただけなのに依存症になる人もいます。こどもがのんだら、有害です。
佐藤健二先生などが「こどもには、とくに慎重に」と強く主張するように、ステロイドも、そんな側面が、あるようにおもいます。
なのに…「ステロイド依存」という言葉は、いまだ市民権をえていません。

《責任回避としての「リバウンド」という言葉》
「副作用」ならまだしも、「リバウンド」という言葉が、つかわれます。
アトピーで「リバウンド」というとき、薬をやめたせいで、症状が再発し、以前より悪化することをさします。
そのほか、「リバウンド」という言葉がもちいられるのは、「ダイエット」です。ダイエットに「失敗」して、ダイエットする以前より体重がふえることを「リバウンド」といいます。
この言葉…患者の「自己責任」をとうています。ダイエットはあきらかですが、ステロイドも「患者がやめたから、症状が悪化した」「患者の体質のせい」…などのように。
これは、あきらかに医師の、製薬会社の責任回避の言葉だとおもいます。
でも「依存症」も自己責任じゃないのかとおもわれますか?

《「依存症」という言葉を使うことの正当性》
しかし、「依存症」はつねに周囲の影響をふくみます。依存になる物質を提供する第三者が必要だからです。
ステロイドは、ぬればかゆみがおさまります。「かゆい!」とおもったぬりたくなる。手放せなくなる。しだいに、きかなくなる。やめると、いわば禁断症状のように、強烈なかゆみや、発熱、寒け、のどのかわき…などがおそいます。(このまえ、しーな先生にいうのをわすれていました…。ふっくんが9月末から10月のはじめ、まだ半袖をきる人がおおいなか、長袖2枚重ねで長ズボンをはきたがったことを。ただいま11月。もうさむいのに、彼は長袖シャツ1枚、ときに半ズボンで登園しています。たしかに、「禁断症状期」はさったのかもしれません。が、「リバウンド」がおわったのではないとおもっています)

薬害ではないにしろ、その「依存性」を社会的に認知してもらうために、私たちができることはなにか…。
研究者でもなく、政府の役人でもないわたしたちにできることは、やはり地道な「運動」していくしかないとおもいます。
今回のように、新聞に「ステロイド礼賛」的記事がのったら再考をせまる意見をよせる、危機感をもつ仲間がつどってはたらきかけをかんがえる…。アトピーの「患者会」もたくさんあります。
どんな団体に接近するのか…たまたま今回、朝日新聞の記事をとりあげる一連のブログで患者会のバックボーンを深谷先生がしめされていましたが、そんなことも考慮にいれて、慎重になる必要があるかもしれません。

今回、こうして考えてみて、はじめて深谷元継先生が「ステロイド依存」という言葉にこだわっている理由が、自分なりに納得できました。
こんどしーな先生にあったら、「やはり、リバウンドではなく依存性だとおもうのです」と言ってみようかしら。
まさに「環状島」のてっぺんの「内輪もめ」になってしまうかしら。でも、しーな先生なら、彼女の考えを話してくださる気がします。

<きょうのふっくん>
ときどき、かいています。夜、おふろをでたとき「さて、あと一週間、はんぶんこ実験、つづけてみる?」ときくと
「いい。だって、ぬったほうが、かゆくないもん」といいます。
「よかったね〜」たしかに、線状の傷はなくなりました。
「じゃー、すねのところと、足の甲もぬってみる?」ときくと
「それはだめ!!」とおおあわて。そこは、2回ぬりましたが、ひどく痛かったそうです。
というわけで…「もと、貨幣状湿疹、いまおおきなかさぶたとうすかわ、じくじくサイクル」のすね、あしの甲には、保湿剤は当分、ぬりません。あのうすかわが、もっとかたくなって、じょうぶになったら、ぬれるかもしれません。

そういえば、最近、おふろあがりなどに、かならずみっくんが「あ〜、ふっくん。また、足とかきれいになってるね」と言うようになりました。ひっくんもときどき「これで、よかったとおもうよ。そんなに最近、かゆがってないじゃん」と声をかけています。
そんなとき、ふっくん一生懸命「そうなんだよ、ここはちょっとまだかゆいけど、ほら、ここはこんなにきれい!」とみせています。
なんか、みっくんも ひっくんも、ありがとうね。

そういえば…今日で脱ステして2ヶ月となりました。

今日も、長文におつきあいくださり、ありがとうございます。
おやすみなさい。

2010年11月13日土曜日

脱ステ宣言への反応

2010年11月13日(土)
<脱ステロイドへの反応〜養護教諭編〜>
今日も、ぐうぜんあった知人にあいました。彼女は養護教諭。
きっと学校にもアトピーの生徒はおおいはず。話してみよう!
「こどもたち、元気?」ときいてくれたので…言ってみました。
「うん。ありがとう。9月から、ステロイドやめたんだ。だから、ちょっといろいろあるけど」
「へー。生徒でも、アトピーの子、おおいよ。医者いかない子がおおくてたいへん」
「そうなんだ」
「もう、指先とかきれちゃって、医者にいけっていってるのに。あれ、ちゃんとステロイドつかえば、なおるんだよね」
「う〜ん、朝日新聞にもいま、そんな記事連載されてるけどね。でも、依存症になる人もいて、そうなるとかなりやっかい。
なんでもかんでも、ステロイドってのは、だめみたいだよ。だから、ふっくんも、ステロイドやめたんだ」
「だめって…。でも、ステロイドをこわがるのがよくないって、このまえの研修で、アレルギーの大家っていうお医者さんもいってたよ」
「でも、くすりだから。う〜ん、アルコールとにてるかもしれない。依存症になる人もいる。こどもには、よくない。でも、それをいわないお医者さんは、おおい」
「だから、それって、医者のいうこと、きかなくて、かってに量をへらしたり、ふやしたりがよくないんだよね」
そこで、彼女は、話をかえました。
うわ〜。さすが…。きっちり、教育されてます…。まちがった知識というか、おおくの皮膚科医の「常識」…。
がっくり。この虚脱感は…人に語る気を失わせます。

<脱ステロイドへの反応〜無関心(!?)>
またまた、知人にあいました。ふっくん、ステロイドをやめたというと
「へー、でも、アトピーの人、おおいよね。うちの妹もアトピーで、いま授乳してるんだけど、お乳きれちゃって、すごく痛いって。たいへん」
「あ〜。アトピーじゃなくても、痛いもん、アトピーの人はたいへんだよね」
「そうそう、妹もステロイドつかってないんじゃないかな」
「そりゃ、授乳中におっぱいには、ぬれないよね」
「いや、そんなんじゃなくて、もう、ずっと医者にいってないような…。高校生の頃は、病院かよってステロイドぬってたはずだよ」
「へー、どうしてやめたんだって?」と、わたしはわくわくしてききました。
「通院がめんどくさいって。たしかに、めんどうだよね。あ〜。でも、そういえば、一時ひどかったらしい。その頃、私もう結婚してたからあんまりしらないけど、おかあさんが、どんなに医者にいけっていっても、いかないって心配してたときあったよ。会社も何日もやすんで、けっきょく、仕事かえたんだよね…」
そこで、彼女が話しをかえてしまったので、それ以上、きけませんでした。が…。彼女のいもうと、ほんとに「めんどくさい」が理由だったのでしょうか…。
でも…意図的に脱ステしていても、それがいいにく時代であったかもしれません。
いまだって…わたしも、あえてみんなに言っているのは、もともと「フィールドワーク」好き。「ステロイドをやめる」ことに、人々がどんな反応をしめすかしりたい…。世の中には、どんな「言説」あるいは「常識」がでまわっているのか確認したい、そんな気持ちがあるからです。でなければ、ぜったい聞かないとおもいます。はなすたびに、萎えるし…。
でも、「自分のことじゃない」からこそ、いいやすいのかもしれません。

でも、いずれにせよ、これまで、なんどもはなしてきて、一度も「え〜! ステロイドやめたの!?なんで?」的な強い関心をしめす反応はなし。「わたしも、つかってるけど…。だめなの?」ときまずそうな返事が2回。きこえなかったかのように話題をかえられたのが1回。「アトピーの人、おおいよね〜」と一般論にすりかえられたのが、数回。「へ〜」とながされたことも、数回。
「ステロイド、つかったほうがいい!」と説得されたことはありませんが、無関心ゆえか、「討論をさける」ためか、「そのはなしはしたくない」って反応がおおいようにおもいます。「だめなの?」ときいてくれた人が、まだしも…いやいやながらも、話につきあってくれる…といった雰囲気だったでしょうか。
しかし、いまおもえば、わたし、「やなやつ」ですよね〜。ただの世間話をしようと話しかけてくれた人に、いきなり「脱ステ宣言」はじめるわけですから…(笑)。「KY」です…(笑)。

<きょうのふっくん>
きょうは、比較的ご機嫌です。
「しーな先生にたくさんたべてっていわれたから、今日はおさかなにしようよ〜」と、ほんとに、たくさん食べました。
あしたは、「ぶたまんつくって」だそーです…。めんどくさ〜〜。けど、日曜日だし、一緒につくろうかしら。
今日は…ときどき、掻いてました。やはり中心は、すねです。とくに、左側。う〜ん。
おふろあがりは、「おかーさん、はんぶんこ実験しよ〜」と、保湿剤をまっています。「おちんちんのうえんとこは、ぬるもんね〜。自分でする〜」
(そうそう、はんぶんこ実験をきめたとき、ふっくんすごい真剣に、『おちんちん、どーする!?』ときいてきました。ちょうど、つけねのあたりに、湿疹ができています。「どうしようかね〜」と言うと、「わかった! このうえのとこはぬるけど、下のとこはぬらないってのは、どう?」「よし、それにしよう!」と。自分できめたので、うれしそうにまもっています(笑))
夜は、ローラー針といっしょに布団へ。ふっくんがあれでかいていると、ほかのふたりも「かしてよ!」ととりあいに。
かゆいとこ、ないはずなんですけど…。ちなみに、ふっくんは「じゃー、10かぞえるあいだね」「はい、ちゃんと交替だよ」としきって、うれしそう(笑)。

でも…たしかにステロイドやめた9月末から10月あたまは、なにしてても、とつぜん「ぐわ〜っ」という勢いでかきはじめていたけど、そのはげしさは今はありません。

そうそう、かゆがるところに、保湿剤をぬりだしてから3日めですが、横にはしる線状の亀裂ははやくも、ほとんどなくなりました。ぱっくりわれてしまった手のあかぎれは、なかなかふさぎぎりませんが。

2010年11月12日金曜日

「当事者性」をめぐる問題

2010年11月12日(金)
<わたしの混乱>
 luxelさんとのやりとりでアトピーがちょっとわかった気になり、脱ステ医にもはじめてあってほっとして…「いい気」になってきたところで、「がつ~ん」ときました…。
 帰宅して「わすれないように!」とブログを更新し、メールをみると「朝日新聞」の記事に関するメールがいくつか…。そのほかのメールもいくつか…。うかれていた自分がはずかしい…。血の気がひく思いでした…。とりあえず、自分の混乱をおさめるためにも、順をおって書いてみます。

<批判する「当事者」として>
今朝、職場についたら、「いいの? あの記事」と話しかけられました。「新聞みた? ふっくん、ほんとにステロイドやめて大丈夫?」と言ってくれた人もいます。いつのまにか「脱ステ医もとめて、欠勤」の話をしっている人がふえていました…。気にかけてくださって、ありがとう。
でも、おどろいたのは、これまでステロイド問題に関心がなかった人たちですら「あれ、私がよんでも結論は『正しくステロイドつかいましょう』だよね」とみこしていることでした。みんなでこのあと、今朝の記事をみて「やっぱり、こうきたんだ…」と。せっかく、関心をもってくれる人がふえても「現状とはちがうこと」(いや、正確には「ほんの一部のかたよった現状」ですよね)をつたえられても…。朝日新聞の記者さんには、ぜひ「科学的」な探求心をもって、「かたよりのない取材」をこころがけてほしいです。
それにしても、4回目の記事は、既視感が…。まさに深谷先生の予想どおりの展開でした。これ一つとっても、これまでの先生の立場の厳しさが、わかるような気がしました。

<「ねじれた」当事者性>
 さて、昨日はあまりにもしーな先生からの情報がおおくて、昔からメモをとるのが苦手(かなりLD傾向たかし)なわたしは「パソコンもってくればよかった~」とおもいつつ、先生の言葉を記憶するのに必死で、おおくのことをききもらしました。
そのうちの一つが、「すねとあしの甲、手の甲の貨幣状湿疹は、ほんとにステロイドのリバウンド(もしくは、依存症)ではないのですか?」ということです。この3つは、これまででもっとも、しつこく、ながく、ふっくんの肌の上にいすわっています。とくにすねは、本でみるような、あーちゃんがいうような、直径1センチ大のかさぶたが定期的にごそっとはがれおち、じゅくじゅくになり、うすかわがはり…をくりかえしています。
ほかは、わかります。肘の内側、膝の裏側のこまかい横にはしる線状のキズ、これは、ここ1ヶ月でできたものです。「極端な乾燥に起因しています」という説明は、明確でした。昨晩、ふっくんと相談したものの、この1センチ大のかさぶたに、保湿剤をぬるときは、そうとう覚悟がいりました。「また、かゆがったり、悪化したら、やめればいい」そう思ってぬりました。
 でも…でも…ふっくんには、その私のまよいが、つつぬけだったようです。けさ、「血液検査、いつ行こう」といったら、ふっくん、ぼそっと「いかない」と。ききかえしましたが、もう返事はしません。
 「アトピーの当事者」は、ふっくんです。でも、「脱ステロイドの当事者」は、わたし。わたしには、アトピーのつらさは、わかりません。でも、ふっくんにはステロイドや保湿剤の意味はわかりません(「わかりやすく・すべて説明する」をこころがけていますが…どこまでつうじているのか…ひっくんの方は理解したようで、ときどき補足説明してくれてます…)。この「ねじれた関係」…むずかしいです。ふっくんにとっては、ときどき医者に言って毎日薬をのんで、ぬってというルーティンが、ある日私によって、変化しはじめた。これまで彼にとって「ふつう」だった世界が、とつぜん「薬はどれにする」「たべものは…」と、話題にされ、ためされ、問いかけられ…。非日常にほうりこまれてしまいました。わたしが、ふりまわしていることに…なりますよね、やっぱり。

<「非当事者」「代弁者」という関係>
 さて、あーちゃんからもメールがとどいていました。
「『あーちゃん』をつかって主張したいことがあるならつかってかわまない。でも、あれは、私ではありません」と。
 内容をぜひ、紹介させてください。また、ここで私が「代弁」するのは、「ねじれた関係」になってしまいそうです。でも…、あーちゃんのことは、いつかあーちゃんに書いてほしい。ですから、また私の翻訳版「あーちゃん」としての登場です。
 あーちゃんは「波のことなんか知ってたよ。患者歴二十数年なんだから…」と。「ステロイドつかってたって、波はある。脱ステにあたっては、調べまくったからしっていた。わたしの問題はそんなことじゃなかった」と。あーちゃんのかんがえる「うつ」の原因は、やっと決断して言った脱ステ医でも、「適切なイニシアチブをとってもらえなかった」「自分のうったえをとりあってもらえなかった」ことにあるようです。
 たとえば、医師は皮膚状態にしか注目してくれない。脱ステにともなう発熱や欠尿、頻脈、疲労感、神経のたかぶり…などなど、なんの説明もされず、「そういうこともあるよ」と放置される。「自傷行為にはしり、精神科の受診を希望するも、自傷行為を注意されるだけ。「目がみえにくい」とうったえてもとりあってもらえない。結局、彼女は白内障の手術をうける。
 彼女の絶望は、脱ステ医すら「脱ステにともなう危険について熟知していない」ことにあり、それなのに、自分の訴えに真摯にむきあってもらえないむなしさがうつのひきがねとなったといいます。
 このメールは、ソフトな書き方だったけど、私への抗議文だったとおもいます。
 じつは、この脱ステ病院でのこれらのできごとをあーちゃんにきくのは、はじめてではありません。でも、ふっくんの「脱ステ」を応援するために語られた「物語」とは、こんどはちがいます。はっきり「ぴーふけ」となざされ、彼女のやりきれなさ~おそらく、自分を理解されていないという悲しみ、かんたんに自分をわかった気にならないでという怒りなのだとおもいますが~をぶつけられた。
 これまでの彼女と私は、ふっくんの「アトピー」にむけて、ならんで語ってきたのかもしれません。彼女が自分の体験を語っても、私の視線はふっくんの「アトピー」をみていた。それをあーちゃんに、指摘された。わたしには、わたしの固有の「アトピー」の物語があると。はじめて、私は彼女の「アトピー」にむきあった気がします。
 あーちゃん、ごめんね。メールをよんで、血の気がひきました。でも、メールをくれてうれしいです。
 さて、彼女は、のちに、深谷先生のあつめた論文のなかに、こうした症状について報告されているのを発見し「1991年にもう、わかっていたのか〜」と、愕然としたそうです。それなのに、今回の朝日の記事。彼女の落胆は、わたしのそれとは比較にならないとおもいます。まさに…前に紹介した市野川容孝さんが指摘するように「医者ー医者」関係、「医者ー社会」関係の問題がみおとされた結果の記事のようにおもいます。
 また…今回のあーちゃんのメールのおかげで、わたしはこうめさんの気持ちにもちょっとちかづけたようにおもいます。こうめさんは、深谷先生のことをたいそう心配していらっしゃいます。わたしが「深谷先生にみてもらいたいところですが…。しーな先生に会いに行ってみます」と書いただけで、深谷先生をそっとしてほしい、いまの生活をまもらせてあげたい等々を切々とうったえるお返事をくださいました。じつは、そのとき「大丈夫ですよ〜。わたしだって、うつで離職経験ありますから(笑)」ぐらいにおもっていました。でも、こうめさんにとっての深谷先生は、わたしが想像する以上にありがたく大切な存在なんだと、再認識しました。
 わたしたちは、ともすると同じアトピーということで、つながれる気がします。でも、それは全部ではありません。アトピーは、個々の人にとって固有の経験です。
 宮地尚子さんは、『環状島−トラウマの地政学』(みすず書房2007年)のなかで、「部分的同一化」にとどまることの重要性をといています。「全面的同一化」は安心感はもたらすかもしれないが、お互いの差異をつぶすこと、経験を「代表」してしまう点においてあまりにも危険だとしています(p.118)。宮地さんが主張するように、お互いの経験も、めざすところも、すこしずつずれがあることを意識しつつ、でも「この1点では、一緒にがんばれる」という共通点をみつけて、声をあげていけたらうれしいです。
 そうそう、luxelさんやけーさんからも「朝日新聞の抗議、わたしもいろいろかんがえます。がんばりましょう」とメールをもらいました。「なかまがいる!」とうれしかったです。
 みなさん、これからも、よろしくおねがいします。

<環状島とアトピー>
 きのう、脱ステ医遠征中、ふっくんの相手のあいまによんでいたのが、この宮地さんの本でした。トラウマをめぐる被害当事者、支援者、研究者、加害者の関係を「環状島」という、う〜ん、真ん中が空洞のエンゼルケーキ型をおもいうかべていただくといいでしょうか。
 彼女の説明を、ごく簡単にすれば、まんなかの空洞が「被害の声をあげられないほどダメージをうけた人」そこから徐々に声なき声をあげる人が山をのぼり、山の頂点に被害を訴える人たちがいる。その山の周囲には、無関心な人や傍観者がいるのですが、その中から支援しようとする人が山を外側からのぼる。山の頂点で支援者と被害者がともに声をあげる…そんなイメージだそうです。頂上にたどりつく人の数がふえるほど、社会にアピールする力がつよくなる。でもその頂上はたちさることもできる場であると…。
 そして、つねに「内輪もめ」はおこる。とくに「被害者」の怒りや、糾弾の矛先は、「支援者」や「同じ被害にあっているのに、考え方のちがう人にむけられやすい」。なぜなら、「外側」にいる人たちには、「怒り」すらとどかないから。でも、この「内輪もめ」は、傍観者、とくに加害者にとっては、ありがたくもおもしろい「見せ物」となる…といった説明です。
 彼女は、その「怒り」や「糾弾」を正面からうけてたたなくてもいいのではないかという。でも、その場はたちさらない。そのままとなりに立っていることが、支援でありうると。
 なんだか、わたしはここをよんで、「あとっぷ」のあり方をおもいおこしていました。脱ステ者も、ステ使用者も、重度アトピーも軽度のアトピーの人も、いっしょに集ってわらいとばそうという山下さんの願いは、この宮地さんの提案する「環状島てっぺん」での助け合い方、協同の仕方に非常ににかよっています。たぶん、山下さんの固有の「アトピー」経験も、「トラウマ」的なできごとだったのではないでしょうか。だからこそ、そんなあり方を理想とする会をたちあげようとした…。
 宮地さんは、ある日、トラウマをひきおこした問題の重要性が自分のなかで下がっていて、生活に影響をおよぼさなくなった人たちを例にあげ、それこそが「回復」のあり方ではないのかといいます。内側から頂点にのぼり、いつのまにか外側にすべりおりる。しかし、「支援する人」としておりきらずに外側の斜面にたちつづける人たちがいると。たぶん、山下さんも、こうめさんも、いま、ここに立っていらっしゃるのかもしれません。
 ふっくんにとって、いまのアトピーの経験は、どのようなものになるのでしょうか。からだアトピーがでていたとしても、生活の中においてはその重要性はひくい。そんな生活が、「アトピーとつきあう」理想のかたちかもしれません。ごめんね、もうすこし、おかあさんにつきあってください。
 「環状島」については、クリアな説明ができなくて、ごめんなさい。また、いずれ整理してかんがなおしてみます。
 おやすみなさい。

<きょうのふっくん>
 なお、きょうのふっくんは…また、ワセリンをぬった側のすねをもうれつに掻いていました…。でも、肘の内側は、はやくもきれいになってきました。膝下の保湿…またまた躊躇しています。あしたも、かゆがったら、すねは、やめます。

2010年11月11日木曜日

朝日新聞の記事

追記
みなさんは、朝日新聞の記事をごらんになったでしょうか?

「大人のアトピー」の特集です。3回目

6回連続で、11月9日からはじまり、今日が、3回目です。

はじめは、「アトピーとステロイドをとりあげてくれている!」とおおよろこびしていましたが、
これを取材したという鈴木彩子記者のコメントに
「適切な治療は、きれいな肌をとりもどす近道」とかかれているのをみて愕然としました。

結論がみえた気がしたからです。
これ、たぶん「適切なステロイドの使用が、いちばん!」と結論づけられるのではないでしょうか?

いま、これをかきはじめて、深谷先生もまた危機感をもってブログにかかれていることを発見しました。

朝日の記事にもとづく診断をかかれています。

わたしは、さきほど、結論をかんがえてくれるよう、朝日新聞社にメールをかきました。

危機感を共有してくださるかたは、ぜひ、なんらかの声を朝日新聞にとどけませんか?
連絡先は、下記です。

記事へのご意見や体験をお寄せください。あて先は〒104・8011 朝日新聞社報道局科学医療グループ「患者を生きる」係。ファクス03・3542・3217、メールはiryo-k@asahi.comへ。お名前、ご住所と電話番号を必ず添えて下さい。

脱ステ医 初体験!

2010年11月11日(木)
<いよいよ、脱ステ医にあいに出発!>
あさ、ひっくんをおくりだして、わたしたちも出発!
電車好きのふっくん、のりのりですが…電車、こみこみ。
いや、都心部までの電車はそりゃ、通勤ラッシュのまだ時間であったかもしれませんが、そのあとも…。
全席指定の列車内、満席…。「こんな時間から、みなさんどこへ!?」
6才児とふたりで1席で1時間強はつらかったです…。

なお、この日は、メモ持参。
これまで使用した薬の経緯
肌状態の経緯。
脱ステロイド後の変化
などを、かんたんにまとめていきました。

<診察室で>
さて、しーな先生自ら診察室によんでくださったのですが、ほんと、ほんわかしたやさしそうな先生でした。
「えっと、いままでのいきさつは、どうだったのかしら」と、わたしが持参したメモをみながら、きいてくれます。
こうめさんの紹介であることをおつたえすると「なつかしいわ〜。彼女が、いまそれほど皮膚の状態になやまされてないなら、なによりです」と、とてもよろこんでくれました。
さて、メモについて2〜3の質問後、いよいよ全身をみせました。
(このときも、6才の子ふっくんに「カーテン、ひこうか?」「みせるのは、いやじゃない?」など、とても気づかってくださいました。写真に関しても、「写真は、とってもいい? 記録にのこしておきたいの。顔はうつさないよ」など、ちゃんと、ふっくんの返事をまって、行動してくれました。
すばらしい! ありがたいです。
さて、視診をして「この子…、ぜんぜん、ひどくないじゃない。なんだってまたアンテベートまでいっちゃったのかしら」とつぶやいています。
このとき、ふっくんがポッケからローラー針をとりだして、ころころかきはじめました。
「なに? これ?」
「いえ、2chでも、うわさで…」
「なんか、あわやのりこの、顔用の機具みたいね。でも、これいいわ〜。たしかに、これなら、かさぶたもはがれないし」と、看護師さんにも、みせていました。
これで、気をよくしたふっくん。写真は、すべてローラー針といっしょにおさまっています。

<しーな先生のみたて>
【ステロイドのリバウンドではない】
たぶん、もともとがそれほどひどいわけではないので、リバウンドもかるくすんだのでしょう。
夜中に絶叫するほどのかゆみがあったというなら、そのころがリバウンドのピークかもしれません。
とにかく、いまの肌の状態は、リバウンドがすぎさり、こんどは極端な乾燥から、治癒状態がわるくなっているとおもわれます。

【保湿は必要】
リバウンド中の保湿は治癒をおくらせます。さけたほうがいいとおもいます。が、ふっくんの場合は、現在、乾燥ゆえの傷がおおいため、保湿をするべきです。保湿は、亜鉛華軟膏とワセリンを混合したものがいいとおもいます。しめりやすい関節部の内側には、亜鉛華軟膏の割合をおおくしたワセリンを、そのほかの乾燥がひどい部分は、亜鉛華軟膏がすくないワセリンをためしてください。
ただし、これは冬だからです。夏の保湿は、不必要です。

【投薬】
乾燥がここまではげしいということは、ビタミンなどがうまく皮膚にまわっていない可能性があります。
低燃費の車と高燃費の車があるように、からだもさまざまです。おそらくふっくんは、高燃費タイプです。
下痢をしやすい?だったら、なおさら、栄養分がうまく吸収・使用されていない可能性がたかいです。
そうしたこどもの場合、からだは成長を優先させるので、皮膚への栄養補給があとまわしになりがちです。
たんぱく質は、食品からとるしかないですが、ビタミン・鉄・亜鉛などは、サプリメントで補給してもいいようにおもいます。
血液検査をしたほうがいいとおもいますが、とりあえずビタミン剤はのんでみませんか?
(佐藤先生たちと、ここは考え方がちがうのだけど、私はこどものアトピーは、栄養が大きく関係しているとおもうので、食事指導なんかも、してるんですとおっしゃっていました。ふっくんにも、「肉・魚・チーズ・やさい、どれも大切だから、たくさんたべようね」とはなしかけてくれました)

【入浴】
入浴は、冬場でも、わきの下、またのあいだ、足の指のあいだは、石けんをつけてあらうようにしましょう。
しめった環境でできやすいあせも的な湿疹と、かんそうゆえにできる湿疹があるので、しめりけを放置するのもかんがえものです。
(ところで…「おふろはどうしていますか?」ときかれて「脱塩素シャワーつけました! あと、おふろの塩素ぬきになるということなので、みかんの皮とかマザータッチいれてます」といったら、先生、けげんそう。「あっ、マザータッチは、ひのきのオイルが中心です」「あ〜。ひのきね。で、洗い方はどうしてますか?」というわけで…。しーな先生は、水に関しては、あまり関心がないようでした。ついでに、「界面活性剤いりの洗剤もつかっていません」とも言ってみましたが、とりたてて反応はなかったです)

【状態のみきわめ方】
あかぎれのような、線状のきず、とくにひじのうちがわに皮膚のしわと平行してできる傷は、乾燥ゆえのものです。これは、乾燥ゆえにかゆみが増強されているので、保湿が必要です。
まるっこいかさぶたや、皮膚のしわにさからっているような傷は、炎症のなごりか、ひっかき傷です。これには、亜鉛華軟膏の配分がおおめの保湿剤をつかってみてください。

【その他】
こどもへの、予防的抗生物質の投与は、ナンセンス。かえって、体内の常在菌をころしてしまうので、のんではいけません。
乾燥していても、かゆみのない部分への保湿は、不必要です。ひっかき傷をなくすための保湿だとかんがえてください。

【アレルギー】
さて、ふっくんはこれまでの血液検査で、ひっかかったものは、かずしれず。
ほこり・ダニ・動物の毛・たまご・エビ・かに・いか・たこ…。
しかし、じんましんがでたのは、1才すぎにはじめて半熟のスクランブルエッグをたべたとき、2才まえに、ばかみたいにエビをたべたとき。その2回だけ。なので、食事制限をしたことはありません。
先生いわく、「じんましんが、でないなら、大丈夫です。最近では、抗体検査は、アレルギーの原因だから反応するのではなく、アレルギー反応おこっている最中だから、反応する」という見方にかわってきています。じんましんやぜんそくがでるわけでなければ、どんどん食べてください」とのこと。
なんか、これも納得しました。

さて、今後どうなるのか!?
【血液検査は、地元の小児科で】
「うち、基本的におとなの患者さんしかこないんで、スタッフ、お子さんに採血したことないの。それに、おかあさん、はたらいてらっしゃるみたいだし、うちに2週間ごとにかようなんていうのもむりですよね。ちかくにはなしやすい小児科の先生いないかしら?まず、体内の鉄分や亜鉛がたりてるかちゃんとしりたい。それから、本格的な投薬治療もかんがえたいんです。それは、ここにかよってもらってもいいし、むりなら検査結果をファックスかなんかでおくってもらって、電話で方針をおつたえするので、それをちかくの小児科の先生と実行してもらってもいいの。どうかしら」
わたしは、ふっくんと顔をみあわせました。
どうしよう…。
ぜったいに無難なのは、耳鼻科の先生です。かれは、頭はきれそうだけど、のほほんとしたおうような「お大尽」タイプ。
「ステロイドいやです」「あ〜。そう。いいですよ」「この血液検査してください」「じゃー、そこにすわって」「このビタミン剤などの投与が必要だそうです」「うーん、うちの調剤薬局さんにあったかな〜。ジェネリックでもいい? それともほかの薬局さん、いってみる?」
うわ〜〜。会話が、リアルすぎます! 彼は、わたしがなんといっても、うけいれてくれるけど、自分の方針のみなおしなんて、ぜったいにしない。これじゃー、意味がない。(いや、ふっくんには、意味があるかもしれないけれど、「ステロイド、危険かも」「ステロイドつかわなくても、なんとかなるじゃん」派医師をふやすことに貢献はしません。
わたしは、ゆっくり、口をひらきます。
「ふっくん…。また、おー先生のとこいく?」
「う〜ん」
「血液検査がいるんだって」
「うさぎのお医者さん(「お大尽」先生のこと)なら、『がんばったね』っておもちゃくれるよ」
「じゃー、そこにしましょうか。なまえは?」としーな先生。
「そこ、耳鼻科なんです」
「耳鼻科ですか…。できたら、小児科のほうがいいかな」
ここで、決心しました。「ふっくん、おー先生のとこ、もう一回、いってみようよ」
「うん、いいよ」

また、いったらいやがるかな〜。
でも、これって、おー先生とつきあえって運命の声のような気もする。うん、おー先生に、もう一回、かけあおう。
というわけで、紹介状はおークリニック、おー先生あてになりました。

【総括】
治療点数:初診料270点、医学管理料260点 投薬料84点
処方薬:飲み薬としてパンビタン末 2週間分   ぬり薬として、亜鉛華軟膏とワセリンの混合剤2種
紹介状:おー先生の血液検査依頼(内容は、「アトピー性皮膚炎ですが、ステロイドによるリバウンドは、みとめられません。栄養状態がきになるので、以下の項目の血液検査をおねがいします」的なもので、15種類ぐらいの成分が指定されていました)


【感想】
つかれました…。8時に家をでて、かえってきたのが4時…。とおっ。
でも、電車とバスをのりついで、ふっくんはご機嫌。ふたりで遠出なんて、めったにない。
いい機会だったかも。あやとりも、つきあいまくったし…。

ふっくんは…
「おかーさん、きょうの病院と、おー先生のとことどっちがすき?」
「ふっくんは?」
「ぼくは、今日の先生。だって、おー先生、ごちゃごちゃうるさい!」
う〜ん。しーな先生ともそうとう長くはなしたし(たぶんはじめに15分はつかったし、そのあと「で、けっきょく、保湿剤はどこにぬればいいの?」とまた、ほかの患者さんのあいまに、診察室にとおしてもらい5分はしゃべってました。
そのかん、ずっとふっくんは、まる椅子にはらばいになって、ぐるぐるまわったり、わたしの壁のポスターをよませようとしたり、ちっともじっくしていませんでした。
だから、ふっくんの「ごちゃごちゃうるさい」は、「ぼくとおかーさんのいうことに、反論してくる」というわずらわしさにあるのかもしれません。
でも、まー。ふっくん、もしかしたら、おー先生とは、これから、ながいおつきあいかもよ(笑)。

<きょうのふっくん>
さて…きょうは、ふっくんが「マザータッチ+みかん風呂」に決定。
しーな先生にいわれたように、ちょっとだけ石けんつけてあらいました。
ビタミンものみました。
が…「保湿、どうしよう…」
atsukiさんは、脱ステ医に
「保湿すると皮膚をあまやかすことになる」といわれて、保湿もしていません。
しーな先生は、「脱ステ中はともかく、その時期がすぎれば、佐藤先生も保湿は必要とみとめることもあります」と言っていました。
luxelさんも、「また、理由は後日かきますが、保湿は必要だとおもっています」と…。
う〜ん…。
でも、でも、あーちゃんは、「保湿は、よけいかゆみがましたよ」と…。
うわ〜〜〜〜!! どうしたらいいんだ〜〜〜!

ふっくんと協議の結果、とりあえずあかぎれのひどい、左手にはワセリンぬりたいとのことだったので、左半身は、保湿剤をつかう。右半身はなしでいくことになりました。
というわけで、こんなかんじです。

むかってひだりが、よくなってきた側。保湿なしです。
こっちが、ぬったほう。左足と左手


2010年11月10日水曜日

免疫とステロイド

2010年11月10日(水)
<luxelさんから、メールが!>
きました。これまで、リンクのお作法とかもしらなかった私…。初期には、かってにリンクしていて、知人に「リンクするときは、一言ことわるものじゃないの?」ときかれ、はじめて「リンク許可」のメールをしたのが、以前にも話題にしたluxelさん。(もっとも、ダンくんには「リンク許可なんか、いるわけないやん。みんなにみてもらうのを前提にネットにながしてんだから」とのことですが…。なお、このブログは、リンクフリーです!って、知人以外、よんでませんよね(笑)あっ! でも、このところ海外からもアクセスが!! (サーバー経由してるだけかもしれないですが…)ありがとうございます。ぜひ、それぞれの国・地域のアトピー事情もおしえてください)

<アトピーのでやすいところ>
で、お返事をいただいたのですが、そのなかに
「お子さんの患部の写真を拝見しましたが、ステロイドの影響が大きいように思います。アレルギー活性が高くて起きている自然なアトピーは肘膝屈側や、耳切れ、目のふち、肩周りなどに限定されることがおおいように思うのです」との一文が。
おもわず「そうじゃないですか~~~!!!」と、声をあげてしましました(笑)。
さすがに、着眼点、すばらしいです!!
たしかに、たとえば「究極の医療電子教科書をめざす」マイメドにも、luxelさんが指摘されているところが、アトピーの好発部位としてとりあげられています。
ふっくん…昔はよく耳切れしていましたが、いまはありません。目のふち、きれいです。肩もちょっとかさかさなだけ…。たしかに膝の内側は、発疹がでています。が…いちばん、ひどいのは、足のすね、手の甲、指です。
明確な関連性は、わかりませんが、ふっくんがステロイドをやめてはじめて夜中に絶叫した頃、わたしの手の甲にかゆみを伴う赤い発疹ができていました。(もしかして、ステロイドをふっくんにぬりつづけた私の手も依存症!?)ともおもいましたが、不確かすぎる…と書きませんでした。が…以前、病院でもらった薬をのんだら、手と足にかゆみをともなう発疹がでたことがあります。再受診すると「あ~、これ、薬疹だね。なんかよくわからないんだけど、薬疹はからだの末端、手首や足首より先にではじめる人、おおいいんだよね。とにかく、この薬はやめて、ちがうのにしましょう」と言われたことがあります。もう、なんの薬かも忘れてしまったし、こんないいかげん情報でもうしわけないのですが、でも、ふっくんは、やはり「ステロイド依存症」の気配が濃厚の気がします。
アレルギーについては、私にはよくわかりません。ぜひ、luxelさんのアトピーとアレルギーの関係を参考になさってください。
その他、彼女はブログの読者の方から、アンケートもとられています。おいそがしそうですが、また、アンケートの結果などからわかったことなども、徐々にアップしてくださるとうれしいです。

<ステロイドと免疫の関係>
さてluxelさんは、メールでくわしく免疫機序についてもご説明くださいました。とりあえず、私の理解した範囲で、「お~そうか!」とおもったことを、かんたんにしてみます。
なお、luxelさんの説明でわかんなかったところは、こんな本で補足してみました。
萩原清文『好きになる免疫学』(講談社、2001年)絵がかわいくて、なんだかわかった気分にひたれます!(笑) (でも、でも、説明ちがってたら、ごめんなさい!)

【免疫とステロイド】
①免疫細胞のなかには、「いけいけ派」と「まてまて派」がいる。「ふつう」は、ふたつの力は、おなじくらい。
②しかし、たまたま「いけいけ派」の力がつよくなってしまうと…「いけいけ、どんどん!」かんちがいして、自分まで攻撃! こうなるとアレルギー(この場合、皮膚炎)がおこる。
③だから、ステロイドで「まてまて派」を応援すると、「いけいけ派」がおとなしくなり、いったん炎症はおさまる。
④しかし! ステロイドで「まてまて派」を応援している間に、もともとの自分のからだで「まてまて派」を応援していた機能が、さぼりはじめる。そこで「まてまて派」がおとろえる(あたらしくうまれる数がへったりするのかな?)。
⑤ステロイドをぬるも、からたの中の「まてまて派」がおとろえているため、「いけいけ派」をおさえきれない。

でも、これ、そうだとおもうのです。全部説明がつきます。
たいてい、とくにこどもの頃は、①と②のあいだを、いったりきたりして、すこしずつ、からだが「このバランスがいい!」と気づいて、免疫系をそだてていく。
なのに、ここで“待てない”現代の「きれい大好き」「病気きらい」のわたしたち、あわてて医者につれていきます。そこで、③。「あ~よかった」と一安心。ここで、また①と②にもどる人もいるとおもいます(おそらく、この人たちがステロイド依存が極端にでなかったり、ステロイドをつかってもなおっていく人たち)。でも、③にとどまり④にむかってしまう人も。
ふっくんなんて、たぶん、⑤までいっちゃた人です。
だから、佐藤健二先生なんかは、②の段階でステロイドをつかわずに「たえろ」と主張してるわけでしょう。
④や⑤にいっちゃった人がステロイドやめれば、そりゃー「まてまて派」大パニック! いままで、外から定期的にやってきていた応援隊が、ある日いきなりこない! なんで? どうして? とりあえずがんばらなくちゃ!
というわけで、残留部隊で「いけいけ派」に応戦。でもでも、もともとおとろえている「まてまて派」すぐに、「いけいけ派」にまきかえされる。炎症(戦場!?)拡大。「なんか、まっても来ないよ」「しかたない、自力でかんばるぞ!」でも、たたかないなれていないから、どのあたりまで「まてまて派」を育てておくりだせばいいのか、わからない。そんなことを、くりかえしている段階が、「波」なのかもしれません。
なっ、なんか、われながら、明快! Luxelさん、ありがとう!!
(ちなみに彼女は、内服と外用では、影響のでかたがちがい、おそらく皮膚への影響は外用のほうが大きいはずとおっしゃってました)

<脱線〜「ステロイド=アメリカ」説(笑)>
しかし…なんか、こうしてみるとステロイド、アメリカかよってかんじですね。紛争にくびつっこんで、鎮圧するとみせかけてひっかきまわす…ベトナムも、アフガンも、イラクも…えらいめにあってます…。(たしかに、ステロイド、ぜんぞくにも、リウマチにも、結膜炎にも、あらゆるところに登場!)
うわ〜、じゃー、キューバ的アトピー患者っておおいのかも。
アメリカ軍(ステロイド)の力をかりて、スペイン(自己免疫異常)から独立したのはいいけれど、アメリカに支配されそうになり、ソビエト(プロトピック)に依存。しかし! ソビエト崩壊(プロトピックもいろいろ問題ありそうです。たとえば、安藤直子さんはプロトピックの考察で、発がん性を危惧しています。一方で、深谷元継先生はプロトピックの発がん性はそれほど問題になっていないという文献をしめされています。が…、しかし、ものすごい痛みをうったえる人や、酒さ様皮膚の原因としてとりあげている人も。やはりこれも、依存性があるのではないでしょうか…)により、困窮! 経済的危機におちいるも、人々は徐々に生活をたてなおす
(すみません。この夏キューバにいって、キューバかぶれしています。でも、キューバの人、めちゃくちゃ明るくて、おせっかいで、たのしかった! 老後はキューバに移住したいくらいです)。
とすると!アメリカ支持(ステロイド支持)の皮膚科医は、さしずめバティスタ!?(キューバのバティスタは、イラクのフセインっぽいです。さんざアメリカに支援され、あとではしごをはずされました)

「アトピー=キューバ」説、なんか、私的にはしっくり(爆)。
脱線しまくりですが、キューバといえば、ヤマザキマリ『世界の果てでも漫画描き−キューバ編』(創美社、2010年)、おすすめです! たぶん、時代は、プロトピックじゃないや、ソビエト崩壊直後。なので、めちゃくちゃものがない時期ですが…。キューバの人たち、すてきです!

うん。だんだん、ちょっとぐらいアトピーだっていいじゃん!という気持ちに…。(って、あんたは、ちがうからそんなこといえんのとか、つっこまれそうですが…)
でも…ふっくん、ときどきかゆくてかきこわしてもキズパワーパッドでもはって、乾燥でかゆかったら安心してワセリンでもぬって、ときには、ちょっぴりステロイドもつかってみて(アメリカだって、いいところもいっぱいあるし。うん)、ラテンののりで、のりきってほしい!!

<脱ステ+波>
「波」といえば…脱ステにともなう、経過の悪化と好転のくりかえし…。これ、しらない人がおおいですよね。じつは「あーちゃん」も、この「波」がくることをしらなくて(たぶん10年ぐらい前だから、まだ情報すくないですよね…)「いちいち」一喜一憂したのが、うつの原因だったとおもう…といっています。
おかげで、わたしは、ふっくんに「よくなったり、わるくなったり、くりかえすから。それが、ふつうだから、大丈夫」と言っています。
でも、これをしらない「おかあさん」や本人、たくさんいるとおもいます。Luxelさん、わたしへのメールだけではもったいないです!!
ぜひぜひ、ブログに書いて、みなさんにおしらせください。

<おすすめの目薬>
さて、luxelさん、目薬についても、アドバイスくださいました。彼女のおすすめは、抗アレルギー薬の「パタノール」。
うれしいです! じつは、ふっくんも、ここのところ目がかゆいときは、「パタノール」をつかっています。
が、これ…実は「ふっくん」に処方されたものではありません。
昨年、「ひっくん」のアスペ全開期はチックもひどくて…、目をこすりすぎて、あわや失明の危機!!でした。そのときに、だされた目薬ののこりが何種類か未開封のままとってありました。そのなかに、パタノールもあったので、「これだ!」とおもい…。
ただいま、眼科でまで「ステロイド攻防」をするのは、ちょっと体力的・時間的に…と、手持ちでしのいでいます。また、いつか行って、報告します。

【脱線~無料化問題】
もう、うちは、薬局ぐらい薬であふれています。病院でもらった薬でいっぱいのかごがあります。のみ薬、塗り薬だけでなく、目薬も、クラビットから、フルメトロン、ソフトサンティア、サジテンなどなど。
1ヶ月ほどまえ、ステロイド系の薬はすべて破棄しようと、あらためて、パソコンのとなりに薬のかごをぶちまけ、すべての薬名と成分をしらべて、ゴミ箱いきと、薬かごにもどす作業をしました。パタノールは、そのときのいきのこりです(爆)。
そうそう、このときの眼科は…このまえの「就学時検診のふっくんがお気に入りの眼科医さん」とはまたちがうお医者さんです。彼女は、そういえば、ひっくんの「かゆい」という訴えに対して、フルメトロンではなく、パタノールをだしてくれたんでした…。こんど、ふっくん、つれていこうかしら。
しかし…私がすんでいる地域は、小学6年生まで、医療費が無料になりました。「たすかった~」と、すごくよろこでいたのですが…。なんだか、気のせいか、どこの医者でも薬をたくさんもらうようになった気がします…。
「それ、つかわないかもしれません」といっても、「まー、おかーさんの負担にはならないでしょ。つかいたくなるとき、あるかもしれないし」とか、「ぴーふけさん、いそがしがって、なかなかこないから、1週間分だしとくよ」とか…(抗生剤、1週間分ものみつづけていいん!?)とか。で…、のんでない分、途中でやめた分がわらわら…。
リドメックスやアンテベートも、新品をいくつか捨てました…(これは…つかちに先生に『じゅうぶんな量をぬらないから、ひどくなる!』と叱られるのがいやで、もらっていた面もあります…。断れよ、私…。医療費かさませて、ごめんなさい)
たしかに、小児科のお医者さん営業的に厳しいみたいですが、ただっていうのは、やはり考えもののような気がします。

<おー先生、再訪の件>
についても、はげましてくださいました。
Luxelさんも、ちかくの小児科にかよいつづけ、いまではそのお医者は脱ステ派(!?)に。
(って、ここのお医者さんの調剤薬局さんに話をふったら「そいうえば、最近、ステロイドほとんど処方されませんね」ということだったそうです)
「だから、ぴーふけさんも、おー先生の宗旨替えに協力してあげてください」と…。
たしかに、わたしも、ここでやめては…でも、でも、いまのふっくんをつれていくのは、キケンだ!とも、かんがえ、おもいなやんでいました。
でも、luxelさんのおかげで、決心がつきました。
とりあえず、「こうめさん」に紹介してもらった、遠方の脱ステ医のところにいってきます。そこでとりあえず「ふっくん」が気をとりなおし、なおかつ、皮膚状態がちょっとよくなったら、また、「おー先生」のところに、ぼちぼち、行きます。
「遠方の脱ステ医より、近所のはなせそうなお医者さんの宗旨がえ」をもくろんでの、「おー先生」受診でした。初心貫徹、きながにがんばります。

<医療倫理の課題としてのアトピー>
たいそうなトピック名ですが…このまえのあーちゃんとのチャットから、話題をひとつ。
市野川容孝「医療倫理の歴史社会学的考察」(井上俊ほか編『病と医療の社会学』岩波書店、1996 年)の論文にこんなことが書いてありました。要約すれば
ふつう、医療倫理で問題になるのは、医師と患者の関係です。インフォームドコンセントが重要視されるのも、この関係です。だか、しばしば見落とされるのが、医師と医師の関係、医師と社会関係です。
ということを、歴史的な医者の成り立ちから、「医者の地位の変遷」などとともによみといています。で、この結論が
「専門家内部で意見の対立があるという事実をあまりに見落としがちである。意見を異にする医師たちがプロフェッションとして議論をたたかわせながら一つの結論を出し、かつその課程を外に向かって透明にできるようにすることも、今日の医療倫理の重要な課題として認識されなければならない」(p.24f.)というもの。
まさに、まさに、アトピー、いやステロイドをめぐる医療業界の話、そのままです。マスコミも、いや医者たちですら「ステロイド論争」に決着をつけないまま、佐藤先生や深谷先生たちステロイドの継続使用を危険視する医者たちの存在を黙殺しようとしている…。
医療倫理的に、この状態、どーなんですかと、問いただしたい。
(もっとも、この論文集の中の何人もの論者が「医療業界の閉鎖性」を指摘しています。だから、現状はある意味「当然の帰結」なのかもしれませんが)

たしかに、アトピーは「死にいたる病」ではありません。だから、社会問題化されないのか…(1990年代後半のステロイド裁判の影響も、いまやうすれています)。
しかし…「死にいたる病」ではないかもしれませんが、「死のひきがねをひく病」ではあるとおもうのです。
あーちゃんは「思春期のとき、うつのとき、よく死ななかったものだ」と言っています。『アトピーの女王』の雨宮処凜さんも、そう書いています。もっと、もっと、たくさんの人が、自分の外見になやんでいるとおもいます。
「人は見た目じゃない。だから大丈夫」なんて言葉、いまの社会では、そらぞらしすぎる…。もう一度、アトピーとステロイド問題、社会的にマスコミでもとりあげてほしいと切にねがっています。

*むろん、「人は見た目」といいたいわけでは、ありません。ただ…「うまれもったアザ」などとはちがって(むろん、ユニークフェイスの人たちは、それぞれまた、かかえる葛藤があるわけですが)、アトピーは状態が変化しやすいです。しかも、ステロイドによって赤黒くひかってしまったり、しろくおちついたり…。「どの状態をうけいれれば、いいのかわからない」「どの状態を、『ふだん』の自分としてうけいれていいのか、きめがたい」こんなところが、もっとも思春期なんかにつらいのではないかとおもうのです。(わたしは、「あきらめる」というのは、生きていくうえで重要だとおもっています。だからこそ、「あきらめきれない」状態をずるずるひっぱる要素は、酷だとおもうのです)
そして、その激変する要素が、わたしはステロイドにあるとおもっています。
(むろん、これまでステロイドをつかいつづけてきて、脱ステした方の場合は、また状況はことなるとおもいますが)
だからこそ、ベリーストロングのステロイドを、指の関節一本分ぬれば、薬のチューブは3日でなくなるはず。つかいかたがすくない! 医者がやめろというまで、かってにやめるな! なんて主張する医者にたいして、怒りをかんじます。

なお…ユニークフェイスについては
西倉実季『顔にあざのある女性たちー「問題経験の語り」の社会学』生活書院、2009年
石井政之『肉体不平等ーひとはなぜ美しくなりたいのか?』平凡社、2003年
など、いろいろかんがえさせられます。石井さんのほうが、内容が平易かもしれません。