2010年12月30日木曜日

水道水があわないの!?

2010年12月30日(木)
<ふっくんの皮膚状態>
う〜ん…。悪化しました。もしかしたら、脱ステ以来(というか、脱ステ直後から10日くらいにあいだに大悪化して以来)、いちばんひどいかもしれません。
昨晩は、足からからだ、そして頭まで、かきむしっていました。こんなにかゆがるのって、ひさしぶりです。
「かゆすぎ〜」と、ひさしぶりに泣きました。
アイスノンもつかいました。

このところ、ふっくんは…
飲み薬として:サクラはちみつの亜鉛&鉄プルーンいりを1日2回(しーな先生が「亜鉛と鉄分補給してください。でも、調剤でだせないとおっしゃったので、ネットでてきとうにみつくろいました)
しーな先生ももらった、パンビタンを1日2回。
ビトンハイイリッチを夕食後に1回(ほんとは、パンビタン3回なのですが、しもやけにいいかと、ビタミンE
いりのビトンハイリッチを1回分、かえてのんでいます。ビトンハイはじつはわたしのおきにいり。きくかどうかふたしかですが、とにかく、すっぱくておいしいところが、きにいってます(笑))


ぬり薬として:じくじくには、ときどきマキロン
しもやけには、ユベラックス
かゆみのある湿疹には、亜鉛華軟膏1:ワセリン19 の混合保湿剤
かゆみがあって、かつ関節の内側の湿疹には、亜鉛華軟膏1:ワセリン4の混合保湿剤
(かさかさだけなら、放置)
といった具合です。
洗濯は、ずっと、クエン酸とペットボトルだし…

<原因はおふろ!?>
かんがえうる変化はひとつ。
クリスマスにおばあちゃんの家に泊まって以来、おふろになにかいれるブームがさり、なにもいれなかったこと。
これまでは、「芳泉」「ゆずの皮」「マザータッチ」のいずれかを、かならずいれていました。
水道水のみのおふろが、原因か…。

あとは…ふとん乾燥機をこの日つかいましたが、ひっくん・みっくんリクエストで、ひさびさの冬バージョン(つまり、ふとんにはいったときに、ぽかぽかの状態。いつもは、ふっくんがかゆくなるかもと、夏バージョンにしています。が、この前日みっくんが、おねしょをした関係もあり、なんだか布団を熱くしないと…とおもってしまったのです)。
それで、かゆさもましたとおもいます…。
ごめん、ふっくん。

このあと、ねるときにかゆがりました。
そのほかは…このまえ、雪がふりそうにさむい日に、息子3人と公園にいって帰ってくると…。ふっくんだけ、ほっぺたと手が、ところどころぷっくりふくらんでいます。「うわ〜、これ、じんましんじゃん」
寒冷じんましんでしょうか…。
あ〜。アトピーにくわえて、しもやけ+寒冷じんましんかよ!

とにかく、今日からは、またなにかおふろに投入して、はいります!

<脱ステ以来、なぜか鼻づまりが、解消しています…>
でも! ひとついいことが。
この秋から冬にかけて、ふっくん、ほぼはじめて、鼻づまりなし!です。
すご〜い。
あの、耳鼻科がよいの日々は、なんだったのか…。
脱ステと関係があるのかないのか…。でもとにかく、ステロイドの点鼻薬なしでも、抗アレルギー剤をのまなくても、鼻水、鼻づまりは、なくなりました。

しかも…よくわかんないですけど、薄着です。
ひっくんとみっくんは、長袖Tシャツにトレーナー、ながズボンで、これでもおとなからみると、さむそうなのですが、この冬、いまだふっくんは、トレーナーを拒否しています。
毎日、長袖のTシャツ一枚に、ジーパンだけ。
う〜ん…。からだがあたたまるから、薄着がいいの?
おばーちゃんは「こんなんでいいの!?」と、先日もものすごい勢いで、もう一枚、服をきることを主張していましたが、ふっくんだんこ、拒否。
「みっくんは、鼻水でてるけど、ぼくはでてないでしょ!」が説得のきめて(笑)。

あの、猛暑だった9月後半から10月、ステロイドをやめたばかりの日々に、長袖2枚重ねだったのに…。
この、雪がふりそうな冬に長袖1枚…。
よくわかりません。ただ、みなさんがいう「脱ステのときは、めちゃくちゃ寒い」というのは、ふっくんをみても、ほんとだとおもいます。

では…。
よいお年を!

2010年12月22日水曜日

「標準治療推進記事」はアトピー患者を分断する-「医療秩序」補足-

2010年12月22日(水)

<アトピーに関心がなければ、「標準治療推進記事」を語れないのか>
 さて、ありがたいことに昨日のブログに対し、「私にとって、そいういうわからなさではない」とメールをくださった方がいます。昨日のブログをいじりはじめ…ふと、「いや、これは、追記したほうがいいのではないか」と、補足説明をさせていただくことにしました。

その方は、「アトピーについてしらないから、内容が判断できない」とおっしゃいます。理由は、以下の2点です。
・読者対象が、アトピーになやむ人や関心のある人である
・アトピー治療現場に関する知識がないため、ぴーふけの立場の妥当性が判断できない

こう思っていらっしゃるのは、実は昨日メールをくださった方だけではありません。あちこちで、同じようなことを言われてきました。たとえば、「アトピーの『標準治療』をめぐる記事について、原稿をかかせてもらえないか」と雑誌社に打診したときのことわりの理由であったり、「ブログ、はじめました」と紹介したときの「読みつづけない理由」であったり…。
「しらないことには謙虚でありたい」という誠実なお返事だとは思います。が、私としては、「いや~。そうかもしれないですが、そうでもないんですよ」とお返事してきました。
たとえば、ときどきコメントしてくださるaccelerationさんは、おそらくアトピーそのものに関心があるわけではないと思います。「医療業界に共通する問題」に関心があるために、このブログを訪れてくださっているように思います。


<「標準治療」批判と「標準治療推進記事」批判は、同じではない>
 私はたしかに「こどもに安易にステロイド処方しないで」と思っています。「ステロイド依存になった人の存在を無視しないで」とも思っています。だからといって「標準治療はすべてだめ。アトピーの人はすべからく、ステロイドを使用しないで生活すべきだ」などとは考えていません。
 「ならば、なぜ標準治療を推進する記事を批判するのだ」と問われるかもしれません。それは、たとえ少数でも「標準治療」から疎外されている人がいるからです。さらに「標準治療」そのものの是非をこえて、「標準治療」に権威づけをする「医療秩序」「社会構造」に問題があるとおもっているからです。

<「発話の背景」に着目する>
もう一度、昨日の出発点にもどります。
「朝日新聞の記事を信じてはいけないのか?」
この質問は表面的には、「標準治療は、ただしくないの?」という問いかけです。
しかし、ある発話には、背景があることを昨日説明しました。この問いかけの背景にあるものはなにか。
それは、「医学に対して疑義を呈する/医学的権威に納得しない」というスタンス自体が「意味がわからない」という言明、つまり「医学の権威にひれふさないあなたはおかしい」という批判があるのではないでしょうか。
だから、「医学の権威にはむかってまで批判するあなたは、そうとうな「科学的根拠」をもっているはずだ」
「でも、私には、科学的知識がないから、『医学の権威』と『医学にはしろうとであるあなたの意見』を比較し、判定することはできない」「さらに、あなたが依拠する『脱ステ医』は医学界で認められていない」「よって、安易にあなたには賛同できない」という論法が成立します。
こうした「医学には権威があるはずだ」「科学的真理は一つだ」というような発想は「本質主義」的です。

「本質主義」的発想をする人、つまり「医療秩序」に従順な人に対し、いくら「だって、標準治療でなおらない人がいるんだよ」とか、「ステロイド依存になる人もいるんだよ」などの「対抗言説」をもちだしても、納得はしないでしょう。
おおくの場合、あいまいに「へ〜。むずかしんだね。アトピーのこと、よくわかんないし…」と言葉をにごすだけで、その人はあいかわらず「だけど、朝日新聞が『ただしい』って記事にしてるわけだよ。明らかにまちがっていることなら、のせないはず」と信じつづけるのだとおもいます。
世の中は、「白黒つけられないことがたくさんある。おおくがグレーゾーンでなりたっている」と経験的に学んできたであろうおとなが、なぜ「医学」となると、「白黒」が明確だとナイーブに信じるのでしょうか…。これがまさに、「医療秩序」のなせるわざだと思います。

「『標準治療』の是非が自分の中ではっきりしないと、ぴーふけのブログの評価はできない」とする考え方は、「医療秩序」にのっとった「ふるまい」の選考結果であるといえます。

では、もし、「医療秩序」に従順な人の身近に、「標準治療」ではたちゆかないアトピーをもつ人や、「ステロイド依存」におちいった人が出現してしまった場合、どうするのでしょうか。
おそらく、「標準治療」に反した行動をまずさがします。次に「例外化」をします。もし、その数がおおくて、どちらの方法も使えないとなったら、そのときは「標準治療、全否定」にむかうのではないでしょうか。
ある意味、ちょっと危険です。

そうそう、「では、アトピーに関心がなくても、ぴーふけのブログを評価できるケースは?」と問われる方もいらっしゃるでしょうか…。アトピーにかぎらず、医療業界の中の「標準治療」との距離の取り方をきめれば、「評価」できます。むろん、その場合「肯定的評価」も「否定的評価」も可能です。あ~、でも、距離の取り方をきめるには、「医療業界」を相対的にみる習慣がないと困難かもしれません…。(accelerationさんは、「業界内」の方だそうですが、かなり距離をおいて「業界内動向」をみていらっしゃるようにおもいます…)


<「標準治療推進記事」は、アトピー患者を分断する>
しつこいですが、私は「標準治療」は一定の効果をあげているのだろうと推測しています。しかし、標準分布には、つねに両端があるのです(それがなければ、標準分布として成立しませんし…)。「標準治療推進記事」は、その両端にいる人を切りすてます。
「標準治療」が喧伝されれば、それに従って状態を保っている人には優越感を与えますが、それに「従えない」「標準治療ではたちゆかない」両端の人たちは、社会から「非科学的」「自己責任」として批判され、沈黙をしいられるのは昨日書いたとおりです。そして2CHにときどきあるように、ステ使用派と脱ステ派が、はげしい舌戦をくりひろげることに…。不毛だと思います。「信条」をかけた戦いは、おうおうにして不毛です。それによって、アトピーは悪化してもよくならなさそうですし。「信条」をかける代表的な戦いとしては、宗教戦争がありますが、だいたい悲惨なだけで、いいことないし…。勝ったほうの勢力拡大と満足感だけ!?(すみません、脱線しました)

ひとつだけ、私が自信をもって断言できることがあるとすれば、それは「標準治療推進記事は、アトピー患者を分断する」ということです。

私が問題にしているのは「標準治療“だけ”が正しい」とするような医師のあり方であり、それを支持する想像力のない記者のあり方についてです。

私は、「標準外」の人をきりすてるような社会のあり方に、異議申し立てをしつづけていきたいと思っています。これは、アトピー患者だけの問題ではありません。すべての社会的マイノリティに共通する問題です。

メールをくださった方、「仮想敵」になってくださって、ありがとうございます。
さて…「仕事があります!」とあれだけさわいでいたのに、昨日からブログにほぼまる一日以上ついやしてしまいました…。

次回は、29日ごろに。
それまでに、もう息子たちがどんなに興味深い行動をとっても、どんなに思考を刺激するメールをいただいても、ふっくんのアトピー近況しか、かきません!(と、自分を戒め…(笑))

すてきな年末をおすごしください!

2010年12月21日火曜日

医療秩序-「標準治療推進記事」批判-

2010年12月21日(火)

<おふろで…>
まだまだ、「芳泉」ねづよい人気です。もっとも…ふっくんのみならず、私までこの冬はしもやけもできちゃったし、効用のほどはどうなのか!? よくわかりませんが、とにかくおふろが赤くなるのが、人気の秘密…(それだけかよ〜(爆)だとすると、コストがかかりすぎです…(涙))。
でも、みっくんも「きょうも、『シャア』おふろにいれようね〜」とはりきってますから、当分、つづきそうです
私の自信作、ザク。
すごい不評ですが…
(もともとは「芳泉」、むすこたちによって「赤いの」とよばれていました。で…「シャア」に…(わからない方、ごめんなさい! 写真がヒントです!これは、「ザク」ですが…(笑)))

脱線しました。
で、そのお風呂で、みっくん、唐突に「あ〜〜〜〜っ!!! ふっくん、すごくきれいになってきたね〜」と感嘆したように言います。ひっくんはもうちょっとさりげなく、ふっくんがおふろに入ってきたときや出て行くときに、「あっ、よくなってんじゃん」と、こちらもやはり、たいてい一回言います。ひどくなっていても、言います。
私は「機械的にいうなよ」って、ふっくんの反応をうかがうことがあります。
「みっくん、それちょっと、驚きすぎじゃない? わざとらしくないか?」なんて思うこともあります。
が…。例外なく、その言葉をかけられたときのふっくんはうれしそうです。
返事をしないときもありますが、顔つきは「へへっ」と笑っています。
あきらかにひどくなったところがある日は、「うん、そうそう。ここはちょっとひどくなっちゃったんだけど、こっちは、すごくよくなってるだよね」と意気込んで、なおってきた場所をさし示します。
そして、再び、遊びにもどっていきます。

ひっくんとみっくんは、なにをおもって、ふっくんに毎日、そうした声をかけているのでしょう。
もしかしたら、それはふっくんの肌状態への評価ではなく、ふっくんへの応援メッセージとしてはっしている言葉なのかもしれません。
だからこそ、ふっくんも「よりしのぎやすくなった部分を積極的に評価していく」ことにしているのかも…。

今晩は、みっくんが先に歯磨きがおわり、「ふっくん、アイスノンだしとこうか?」とききました。
ふっくんが「最近、そんなにかゆくないから、いらないよ」と返事をしていました。
ひとりっこの私にとって、ちょっとうらやましい光景です。


左足膝下の皮膚はもりあがっています。
じくじくも、なおりません…。

 なお…相変わらず、足マッサーの日々はつづいています。が…ひっくん・みっくんの足は、冷たくてもマッサージすればすぐにぽかぽか温かくなってきます。が…ふっくんの足は、マッサージしてもじっとり汗ばむだけで、なかなかあたたかくはなりません。冷え性の人がしもやけになりやすいのは、足がつめたいのに足に汗をかくからと読んだことがあります。う~ん。
ふっくんは、「もう、アトピーどうでもいいけど、しもやけどうにかしたい!つめたくなるとめちゃくちゃ痛い」と怒っています。アトピーがその程度の存在になって、よかったね(笑)


<社会的相互行為としての発話>
さて…息子たちの会話をきいていて、会話とは「会話分析」でいわれているように、発話が単に現実を表現しているわけではなく、その場における一定の機能を担っていること、さらにそれが受け手に了解され、それに応答されることによって、はじめて相互行為として遂行されるのだと実感しました。

ごめんなさい。いきなりどうしちゃったの!? でしょうか…。
実は、「ぴーふけのブログ、ときどき意味がわかりません」というメールをいただくことがあります。
「そんなむずかしいこと、書いてないし、書けないし…」と思っていましたが、先日「朝日新聞の記事をどうして信じてはいけないの?」ときかれ、やっと私なりに「これか~!」と気づいたことが…。


これは、たとえば…「やっぱり、子育ては女性の仕事だよね」「うん、母性愛があるから」なんて話でもりあがっているときに、「母性愛って、本能ではなく、学習結果だよ」とつっこまれたときの「意味のわからなさ」に通じているように思います。
「母性本能」を前提として話している人に、「母性は本能じゃない」とつっこむことは、会話の行方をみうしなわせます。なぜなら、「前提」としている人にとって、そのつっこみは、複数の思考を同時にせまるからです。
「母性本能」それ自体の真実性への問い、「母性本能言説」を信じる自分の立場への問い、会話の流れを中断されたことへの違和感…などなどです。
通常、私たちはあまりにもその前提を信じていると、ある問いかけが自分に複数の思考を促していると関知することすら困難になります。どこから、考えていいのか検討もつかなければ
「意味がわからない」となげだす他ありません。
というわけで…江原由美子『ジェンダー秩序』(勁草書房、2001年)の2章「ジェンダーの社会的構築」(pp.26-61)に基づいて、説明してみます。

(関心のない方は、次の<「標準治療」キャンペーンの罪>にとんでください)


<二つの言説分析-「ジェンダーの社会的構築」より>
江原さんは、「ジェンダー」を社会構築主義の立場からかんがえています。「なんでもかんでも社会構築主義で切れるとおもうな!」という議論はありますが…「既成概念」を問うためには有効な手段だと私はおもっています。 

「社会構築主義」について江原さんはバーを引用して定義しています。
「『社会的世界は、社会過程の所産であるので、その世界や人々には何らかの決まった、一定の特質はありえない』『事物や人々を今ある通りにしている、それらの内部の『本質』は存在しない』という立場から社会的世界の考察を行う立場」(p.28 )をとりあえず、社会構築主義としましょう。

で、この「社会構築主義」では、言説分析ということをよくします。江原さんは、バーをもちいて、これには二つの立場があると分類しています(p.29)。
①広く流布し、多くの人々にとって「利用可能」になっている諸言説
②具体的な社会的相互行為の場において、行為を遂行することに関わる諸言説
この分類をしたバーは、①を「構造主義やポスト構造主義などのフランス哲学に基づくもの」、②を「言語行為理論・会話分析・エスノメソドロジーの影響下にあるもの」(p.31 )と区分しているそうです。

ものすごくおおざっぱにいってしまえば、①は法律や宗教、医学や心理学、哲学などがどんな言説をうみだしてきたのか、どんなものが「真理」として人々に使用されているのか、に関心をもつ立場です。たとえば…「女性には母性本能がある」とか「女性にはペニス願望がある(フロイト)」とか、いまでは「常識」と理解されている「言説」にはなにがあるのか…。その「言説」がどのように私たちの行動を規定するのかといったことです。
行動規定の具体例としては、「女性には母性本能がある」という言説は「こどもといる幸せな女性」という「イメージを形成」すると同時に、「女性が子育てをすべきだ」という「義務」と「女性は子育てを優先していい」という「権利」が発生します。
と同時に、女性とは異なるカテゴリーにはいる「男性」に対しては、「異なる権利と義務」、つまり「子育ては女性にまかせていい」という「権利」、「そのかわり働け」とう「義務」が発生します。
つまり、一つの言説は、社会の人々に対して「イメージ形成」と「カテゴリーによって異なる責任と義務」とを生み出すことになります。

②はもうすこし複雑で、ひとかたまりの会話の流れの中ででてくる言葉の背景には、どんな「常識」があるのか、その「常識」のために、どんなイメージや行動規範が形成されていくのかに関心をもつ立場です。この場合、「言説は、『相互行為を組織化する』働きをするものとして把握」(p.44)されています。どのように「組織化」するのか。それは、「相互行為の遂行に関連して行為者が成員に対して適用しうるカテゴリー化装置」(p.36)の中で、なにを選び取り、どう行動するのかに関係します。
カテゴリー化装置とは、発話者をどう分類するかといった問題です。私はたとえば「中年女性」「母親」「有職者」などなどの属性をもっています。
さて、あるとき、私が家をかりよう不動産会社をたずねました。社員は、ひたすらダンくんにむかって話しかけます。こうした行動は、「借り主としてふさわしい有職者」と自身をカテゴライズした私を社員は無視し、「借り主としては不適切な中年女性」とカテゴライズしたと判断できます。実際、「女性とは契約しない。名前だけでも男性名義に」といわれ、さかんに「同じ男性として」の賛同をダンくんに求めていました。
つまり、このときの一連の発話にうめこまれていた言説は「契約履行者として、女性は不適切である」というものであり、「男性」としての「義務と責任」を同志としてダンくんに求め、それを越境しようとする私に、「女性」としての「義務と責任」を想起させようとする行為があります。

江原さんが『ジェンダー秩序』の2章でいいたかったことは、「言説」が人々の会話や行動を規定し、また人々の会話や行動選択は「言説」によってあらかじめ規定されていると、だから「ジェンダー(性別役割など)」が秩序化されているという指摘です。


<「標準治療」キャンペーンの罪>
さて、私は医療もやはり言説によって規定されているのではないかと思います。
「ジェンダー秩序」の中に「男役割」「女役割」がうめこまれているとするならば、「医療秩序」として「医者役割」「患者役割」がうめこまれていると想定できるとおもうのです。
そして、この「医師」と「患者」は、「男」と「女」のようにやはりその「イメージ」とわりあてられる「義務と責任」は同じではありません。
「医学は科学である」「医者は専門家である」などという言説があります。

*なお、江原さんはギデンズの<専門家システム>も紹介しています。「科学技術上の成果や職業上の専門家知識の体系のこと」をいい、私たちは、本当に安全なのかぼんやりとした知識しかないにもかかわらず、「専門家知識」を「信頼」し、「対面的行為を行ったこともない人々との間に」、「社会的関係を構築していく」(p.53)と書いています。
私たちが、なんとなく信じてのる電車、上層階までいく高層ビル、正義だと信じてかけこむ警察、治癒してくれると信じて受診する病院、知識がえられると信じていく学校…などが該当します。それらの「専門家知識」はおうおうにして私たちの信頼に応えてくれますが、ときどき「脱線事故」「欠陥工事」「警察の不祥事」「薬害」「アカハラ」などで裏切られます。ニュースにならない小さな裏切りは、もっと頻繁に、身近におこっていることは、おそらくその組織内にいる人なら、みなれた光景だと思います。

「医者」とは、一般に「専門家」としての権威を認められています。医師のイメージは、「専門職」「科学的」「知的権威」などではないでしょうか。
その対象となる存在、「患者」はどうでしょう。「医師に助けを求める存在」…基本的に、医学に「無知」な存在としてイメージされています。
だからこそ、「患者」とは「医師」によって「啓蒙」される存在となりえます。そして、これらの役割が転倒することのないよう、「医療秩序」は私たちの生活にうめこまれているように思うのです。

この冬、朝日新聞や読売新聞は、アトピーの特集において「標準治療の推奨」記事を書きました。「アトピー性皮膚炎の治療にステロイドを用いることは、医学的にうらうちされている」という言説の流布に一役買ったといえます。
これは、「専門家」の知識を、「専門家」のスポークスマンとして新聞が、無知な「非専門家」を「啓蒙」する行為だと考えることができます。
この記事は、暗黙裏に、医師には、「標準治療を保証する義務」と「医療者としての権威を示す権利」を与える一方で、患者には、「標準治療に従う患者としての義務」と「標準治療によって治癒する権利」を与えました。

一般の「非専門家」である読者は、新聞の紙面を自分の「知」としてとりこむことで、「専門家」に一歩ちかづけるという幻想をいだきます。
新聞記事上の「標準治療」の存在を知っている自分は、「標準治療」をしらない人々より、一歩「専門家/医師」に近い存在だと考えるわけです。
するとどうなるか…「標準治療」を否定する人、しらない人を、自分より「非専門家」であると認識し、その知識を「啓蒙」しようとします。
つまり…「標準治療」を言説分析的にかんがえれば、人々のイメージの中で
・ステロイド使用に賛成する人=医師=科学的知識の持ち主
・ステロイド使用を危惧する人=患者=無知な人
という図式が成立してしまっています。そこで、「患者」の立場にたつ人が、ステロイド使用に賛成すれば、「患者にしては、勤勉な人/誠実に治療にとりくむ人」と「ふつうの患者」から、一つステップアップします。しかし、否定すれば「無知な人」=「患者のくせに不勉強な人/治療に熱心ではない人」というイメージが強化されます。
いくら、患者がふつうの医者なみに勉強していたとしてもそれは、了解されません。「患者」というだけで、すでに行動規範が規定されているからです。

では、医師が、ステロイド批判をしたらどうなるのか。これはみなさんもよくご存じのように「アウトロー」「逸脱者」扱いされるだけならよいほうで、「アトピービジネスの加担者」「医師として不勉強」などと罵倒されることになります。おそらく、「医師」としての「権利と義務」を放棄した存在とイメージされるからです。
(むろん、現実にステロイド依存でくるしみ、脱ステですくわれた患者さんやその家族の人は、ちがいます。が、それは残念ながら多数派の人ではありません。しかもその脱ステ者は、社会ではみえにくい存在です。アトピーに関心があり、かつパソコンの扱いになれている人々には、「みえる」存在というだけです…。「みえにくさ」の理由は以下で書きます)

さらに、新聞記事の中では、くりかえし「医師の指示にしたがってステロイドを使用すること」、かってにやめたり、塗る量や薬の強さを「素人判断」でかえるなと強調しています。この記事がつたえるメッセージは「患者たるもの、医師に従順であれ。それでなければ、苦しむのは患者であるおまえだ」との脅迫です。

くりかえしますが、「標準治療」キャンペーンは、医師には「標準治療に責任をもつ義務」と同時に「医師としての権威を示す権利」を与え、患者には「治癒する権利」を与える一方で「医師に従順である義務」をおしつけます。
では、「治癒する権利」を与えられたにもかかわらず、治癒しなかった場合、どうなるのか。「標準治療」キャンペーンをになった人たちは、反省してくれるのでしょうか。
残念ながら、反省しません。彼らは「あなたのアトピーが人並みはずれて重症である」と判断するか、「医師の指示をまもらなかった」あるいは「医師の選択をまちがえた」と批判するでしょう。いずれにせよ、「治癒しない患者」場合は、たとえ「標準治療」にしたがったとしても、「権利放棄した存在」=「自己責任を問われる」ことになります。


「標準治療」キャンペーンの罪、それは、たんに「ステロイド依存にくるしむ人がいる現実を隠蔽する」それだけにとどまりません。
「標準治療」を新聞社が支持するということは、「標準治療に従順であれ」(=「医学に従順であれ」)という言説を強化し、治癒しない人を「自己責任」としてせめることに加担しているのです。
朝日の記者が特集した理由を「アトピー治療に対する疑問にこたえたい」「現在の医学で分かっている情報をできるだけ正確にお伝えしていきたい」と書いていますが、その「疑問に答える」「情報を正確に伝える」という態度から、実際にかかれた記事は、大きく逸脱しています。


ノブコフさんが以前、「脱ステ」をすると話したら上司にひどく叱られたというコメントをくださいました。上司が「一般常識」の持ち主であれば、新聞が「標準治療」を喧伝する以上、当然の帰結だと思います。
上司は、「標準治療」という存在を知っていることで、自分が「知的権威」に近い存在だと信じていたと思います。ノブコフさんの「脱ステ宣言」は、表面上は「ノブコフさんの治療方針」についての話だけです。しかし、上司には「あなたの信じている「知的権威」を、私は信じていない」、つまり「上司である自分の『知識体系』への批判」として感じられます。
上司にとっては、もはや問題は、ノブコフさんのアトピー治療ではありません。自分の「知識」をとわれる問題へとすりかわります。「ぼく、そういうことには、知識がないんだよね」と気負いなくいえる人にとって、ノブコフさんの「脱ステ宣言」はなんら問題にならないでしょう。が、おおくの人は、自分の信じていることを疑問視されたとき、いごこちの悪さと、不安感をいだきます。自分の信条を変更するよりは、人を批判する方が、自分の安定感は保てます。

<専門家システム>を疑うことなく信じている人は、専門家の提示する意見を貴重なものとして無批判にうけとります。それは、自分で考えることを「専門家」に委託した状態=思考停止状態です。12月6日に、中真生さんの論文を引用して書きましたが、疑うこと、問いをもつことなしに、人は思考できません。
「標準治療」を信じている限り、人は「権威ある医者がいうのだから」と自ら考えることを放棄できます。そこに「脱ステ宣言」をされたら…その人は自らの思考停止を、専門家依存を、怠慢だとして批判されたとうけとめるかもしれません。
さらに、「標準治療」に異議申し立てをするという行為は、「医学」という権威への異議申し立てと同義だとかんじ、「規範秩序」からの逸脱、「権威への反抗」としてうけとめる人もいると思います。「権威」を認め、「規範秩序」を維持したい人、誰かにかわって考えてもらたい人にとっては、それに反抗する人々はやっかいな存在です。

ブログや掲示板などで、ときどき、アトピー当事者でもその近親者でもなさそうな人が、脱ステをやっきになって攻撃する現象がみられるのは、こうした行動様式にのっとっているからだと考えられます。

結果的に、これらの「標準治療キャンペーン」によって、またおおくの脱ステ患者さんたちが、「沈黙」をしいられることになったと思います。あーちゃんのいう秘密結社、アンダーグラウンドの世界にもぐりこみたくなる…。そして、また「脱ステ患者」は社会から「みえにくい」存在となってしまいます。

新聞記者さんたち、反省してください。


<蛇足ですが…「医療秩序」が会話を規定する実例として>
息子たちのおふろでの会話をもう一度かんがえてみます。
「よくなってるね」とひっくんとみっくんの発話を、①の観点でみるとすれば、「病人とは回復すべきものである」という「言説」にのっかった発話だと措定できます。その背景には、「近代医学の高度な発展」「病気の状態を判断し、治療方針を決定する権威としての医学」といった言説もあるとおもいます。
②の観点からでは、どうでしょう。みっくん、ひっくんの発話は、どうやら場面転換や会話の変更を求めるものではないようです。ある意味「お約束」の履行。
この「お約束」の履行の背景には、「その言葉をいうと、ふっくんが喜ぶ」という了解事項があります。
ひっくん・みっくんの発話が「病人は回復すべき」にのっかっていて、さらにふっくんを「患者」という役割にカテゴライズしているとすれば、ふっくんの応答は、「回復にむかっている患者」というイメージをうけいれ、役割を遂行していることになります。つまり、「回復する」義務と責任をひきうけているといえます。
彼らの会話は、「病人は回復すべき」言説にのっかったものであるといえます。
言説とは、こうして幼いこどもといえど、私たちの生活を規定していく力をもっています。

むろん、ふっくんには「いちいちうるさい」とかえすなど、「怒る」という選択肢もあります。この場合、「よくなっている」という発話はふっくんによって「回復が遅いことに対するいやみ」と了解されたと解釈できます。しかし、これもやはり「回復する義務と責任」といった図式にのっかった行動選択といえます。

この図式からのがれられる唯一の応答としては、たんたんと「きれいになったかどうかなんて、関係ないんだよ」といいきり、以後ひっくん・みっくんの呼びかけに応じないという態度しかないように思います。
しかし、この応答は、人間関係を複雑化されます。予期される行動原理から逸脱するわけですから…。うちでもっとも、愛想のいいふっくんに、それは期待できないな~(アスペひっくんなら、無意図でする可能性高いですが(笑))。
でも、いつか「病人は回復すべき」言説からの脱却を意識する日がくれば、行動をおこすかもしれません(笑)。

2010年12月15日水曜日

読売新聞の記事

2010年12月15日(水)
<「ステロイドの誤解を解く」って…>
職場で、「こんどは、読売がアトピーの特集やってるよ」と話しかけられました。
「なんで、こんなに次々…。ほんとキャンペーン開催中ってかんじだよね」と…。
さっそくネットでしらべてみて…がっくり。深い徒労感をおぼえました。

「ブログの更新は週に1回ってきめたし」とスルーしようかとおもいましたが、moto先生は「読売新聞の2010年12月14・15日の記事」として、感想の声をとどけようとよびかけています…。
彼の脱力感は、おそらく私の数十倍だとおもいますが、こうして声をあげてくださっている…。
そうおもって、私もさきほど、読売新聞にメールをおくりました。
(朝日新聞のときは、「冷静かつ客観性」をこころがけましたが、こんどは「いいかげんにして。もう、うんざり。もっと視野をひろく勉強してください」的なげやりメールになっちゃいました(爆))

メールアドレスは、以下です。
iryou@yomiuri.com

<きょうのふっくん>
おかげさまで、なんだか元気です。
せっかく、にわとりのひっかき傷がなおってきたとおもったら、こんどはスプーンでひっかかれて帰ってきました(笑)。
保育園児、まだまだ、感情を言葉にするのも苦手だし、人づきあいも練習期間ですよね。
保育園の先生も「ふっくん口達者だもんね〜。あれ、ふつーの6歳児はついてけんくて、手がでちゃうんだよね…」と笑っていました…。ごもっとも…(爆)。
いまのうちに、やって、やられて、反省して、自己主張の仕方とか、けんかのおさめ方とか、まなんでくれるといいな〜とおもいます。

肌状態は、良好です。本人も「かなりよくなってきた」と満足そう。
また日曜日くらいに、写真をとってブログ、かきます。
おやすみなさい。

2010年12月11日土曜日

アトピー治療史の必要性-社会問題として提起するめに(つづき×2)-

2010年12月11日(土)
<ステロイド依存性のアトピー湿疹が、「ふつう」になる日がくる!?>
しーな先生との会話が頭にひっかかっています…。
「これからのわかい皮膚科医は、おとなのアトピーゆうたらもうステロイド依存性の湿疹が混在している状態しかほぼみられないわけですから、それが、おとなの「ふつう」のアトピーとおもってしまうでしょうね…」という言葉…。
それが現実になったら、ステロイドの依存性を危惧し、脱ステを支援する医師がますますやりにくくなっていしまいます…。
「むかしのおとなのアトピー」の写真をみせて、「本来、アトピー性湿疹とはこのようなもであった」と論証しても「時代によって湿疹の状態はかわりうる」と「標準治療」推進派は主張してくるでしょう。
「ステロイド依存性の湿疹はみわけがつくはずだ」と主張しても、「ステロイドのせいだとおもいたいから、そうみえてくるだけだ」ときりすてるかもしれません…。


<アトピー治療の歴史を再構成してみたい…>
木曜日、しーな先生にあいにいく電車の中でよんでいた本にこんな一節がありました。
「個人が談話をつくっているのではない。むしろその逆である。談話は個人を超えている。たしかにあらゆる人々は談話の形成に関わっている。しかし、いかなる個人も、いかなる個々の集団もその談話を規定することはできないし、最終的にできあがるものを正確に意図することはできない。基本的に、談話は歴史的な過程を経てできあがるのであり、独立するのである。談話は、個々の主体が意識しているもの以上の知を伝達する。(たとえば特定のテーマ群にたいする)ある社会の知を伝達しようとするならば、その知がどのように形成されたか、あるいはどのように発生したかを再構築しなければならない」
ルート・ヴォダックほか『批判的談話分析入門』(三元社、2010年、p.57)

「これ、つかえるな~」とページをおってしまいましたが…。アトピー治療にまつわる「言説」あるいは「談話」にも適応できます。

「アトピーにはステロイド」という「標準療法」という知は、どのように形成されたのでしょう。いつどのように発生したのでしょう。この点は、現在の状況をみきわめるために非常に重要なポイントかもしれません。

<アトピーの歴史>
たしか、『第三の脳』を書いた人が、アトピー最初期の患者さんで、それまでわけがわからなかった皮膚状態であったのに、「アトピー」と名付けられ、ステロイドがだされたときは、うれしかったと書いていたような…。それって1970年代? いや、もっと前でしょうか…。
検索してみると、よしだこどもクリニックの院長さんが、「アトピーの歴史学」を書いていました。
これによると…日本に紹介されたのが、1960年代、ステロイド軟膏が開発されたのは1953年、1970年代まではアトピー患者の主流はこども、1980年代後半から成人のアトピー出現(って、1970年代のこどもがおとなになって、なおらなかったってことですかしら…)。
いや、でも、いつから「アトピーにはステロイド」が標準化されたのか、そのときの医者はどうおもっていたのか(画期的!これで、患者をすぐにらくにさせてやれる!とかよろこんだのかしら)、1960年代の主流の治療はなんだったのか…アンダームとか亜鉛華軟膏だったのか? いや、すごくりしりたい…。
そんな昔の資料をあつめて現在の「標準治療へいたる道」をえがくことで、今の「標準治療大合唱」の意味が理解できるかもしれません…(いま、しりたい! あした図書館にこもりたい…でも、これも3月以降の課題にします…)。

<「脱ステ」の歴史>
もう一方、「脱ステ」の歴史はどうなのか…。むかし、個人的におしえてもらったmoto先生のむかしの小説が、ライフヒストリー的でつかえそうな気が…(おしえてくだった方が「この話はもう深谷先生おもいだしたくないかも…リンクはらないで」と書き添えてくださったので、リンクははりません)。
その小説は、周囲の医師や看護師さんが「ステロイド嫌う患者がめんどくさい。どうにかしてほしいよ…」「こんな事態になったのは、マスコミがステロイドを問題視するせい!」と憤慨するなか、「いや、これだけ多くの患者がステロイドを拒否するということは、マスコミの影響だけではないだろう。なにか問題があるはずだ」と考え、患者の意向を尊重しつつ、やめたくなった理由をききとろうしはじめる。しかし、その行動が周囲の反感をかい孤立していく医師の姿がえがかれています。

「小数派影響源」(笑←小坂井敏晶さんの引用です。ブログで詳しく書いたのは…10月26日でした)かもしれませんが、患者さんたちは、いつ、どうして、ステロイドをうたがいはじめたのか。これもアンケートではなくインタビューとしてきいてみたい…。
江崎ひろこさんがステロイド裁判をはじめたのが1983年、それから10年以上たって川崎ステロイド裁判がはじまります。
石川憲彦さんは『子育ての社会学』(朝日文庫、1990年)のなかで、「アトピーにつきあう」(p.130-137)って文章をかかれています。ここに登場するEくんのおかあさんが、皮膚科につれまわしいろいろためしてみますが改善しない…。ステロイドでいったんはおさまっても、またすぐにもっとひどい症状がでる…。ぼりぼりかいているのに「えっ? かゆくないよ」というEくんに、おかあさんはついに治療を放棄します。たぶんこれがはじめて本になったのが、1985年なので、その数年前のできごとだとおもいます。
私の学生時代の友人たちのなかで「ステロイドやめた」という話をきくようになったのも、1980年代(もっとも、それ以前はこどもで、そんなこと友だちとはなしあいませんが(笑)。
それなのに、20年以上たった今、まだ「脱ステ」を皮膚科医の権威がみとめないって(むろん、脱ステした人が皮膚科医の前からきえますので、『私のおかげで治ってさった』と思っていらっしゃるかもしれませんが)、ちょっと検索すれば、脱ステブログがわらわらヒットしてくるのに、認めないって…おかしい…。

<二つをならべることで、みえてくるもの>
やはり、どうしてもはなしがききたいです!! 
moto先生の本、深谷元継『ステロイド依存―ステロイドを止めたいアトピー性皮膚炎患者のために』(柘植書房、1999年)は、「私は1986年に皮膚科医となった」「アトピーは、新米皮膚科医でも、見ればすぐに判った。処方も簡単であった。顔には弱めの、眼囲には眼科用の、体にはやや強めのステロイド軟膏」(p.3)という記述からはじまります。そして「この数年間、ステロイド皮膚症に陥った患者が離脱していく過程に立ち会いながら、いったい何がどう悪かったのか、私なりにいろいろ考えた」と話が展開しています。私は、この「気軽にステロイドをだす新米皮膚科医」だったmoto先生が、いつステロイドを嫌う患者に気づき、なにゆえステロイドをきらう患者につきあいはじめたのか、ここのところをぜひ、きいてみたいです。なにもないかもしれません。でも、ここが「皮膚科の権威」とされる医師たちとの重要な岐路があるような気がします。
佐藤健二先生の本のタイトルは『患者に学んだ成人型アトピー治療-脱ステロイド・脱保湿療法』(柘植書房、2008年)です。序章に、ステロイドによる副作用がみられた患者数を調べ、それが増加してこそすれ、減少していない事実をつかみ疑問をもちはじめたことなどが書かれています。しかし、佐藤先生がなぜ副作用をみせる患者の増減がきになったのか、そうした佐藤先生の気持ちや思考の過程はかかれていません。その思考の変遷こそおうかがいしてみたい…。
ほかにも…たくさんの脱ステを牽引していらっしゃる先生たちは…しーな先生は、いつからおかしいとおもいはじめたのか…どのようにしてステロイドを疑いはじめたのか…。
医師の数だけ、背景があるはずです。
このプロセスは非常に重要だと思います。どこかに研究助成の申請して、インタビューにまわってみようかしら…(どんな枠で!? 医学系はぜったい無理だから…社会学系?(爆))。

多くの医師は治療方法をめぐる論文は書き残します。が、そこにいたる自分の個人史や思考の変化を書き記す人は、おおくありません。
皮膚科の医師たちが、なぜ「標準治療」を、「脱ステ」を、それぞれ支持するようになったのか…そのいきさつを二つならべることで、問題の根源的な部分があきらかになるのではないでしょうか…。
社会問題として提起するために、この記録は必要不可欠だとおもえてきました。
(しかし、これ、どこで発表…医療社会学関係の学会とか? 皮膚科学会系!受理してくれなさそう…というか、私には会員になる資格もなさそうだし(笑)……う~ん…いや、そのまえに、言葉がそれぞれいりみだれていて、整理しないと論文なんてかけない…。「リバウンド」と「離脱症状」は、「抵抗性」と「耐性」は、ほぼ同じ意味で使用されているのか? 「副作用」はそこにどうからむのか。しかも、医者が「業界用語」として使用している言葉と、社会で「一般使用」されている言葉のあいだにもへだたりはあるはず…。そいうえば、「言説研究」もできそうだとおもってはいたけれど…。だめだ〜、ブログ書いている分には問題じゃないかもしれないけれど、論文かこうとおもったらまず文献にあたりまくって言葉の整理が必要…。勉強しないと…。というか、いや、そのまえに自分の仕事、おわらせよ!でした…)。


<きょうのふっくん>
そんなにかわりありません。
しもやけが、ついにかかとと、あしの指2本にも、できてしまいました…。
そういえば…ここ2週間くらい、肌の状態があまりよくなくて…。こうなると、てきめんに足マッサージをいやがります。とくに、足の裏をもむ、足の指をもむと、すごく痛がっておこる…。わたしも、けられるのはいやだし、警戒して力のはいった足をむりにもむのもどうかと、てきとうになぜておわっていました。
「ぼくも〜」と強引にとなりにならんだみっくん。
うごくので、ぼけてます(笑)
あ〜。いたがってもちゃんと話して、毎日足マッサージして、血行よくしてたらしもやけふせげたかな〜とちょっとショック。
本人も、「これからは、保育園でも足がつめたいときは自分でマッサージしよ〜」とつぶやいてました。

2010年12月10日金曜日

今後の方針、きめました-2回目の脱ステ医受診-

2010年12月10日(金)
<脱ステ医にあいに…>
ふっくんは「もう、いかない」といったのですが、もう一回くらいしーな先生には会っておきたいと…。いってきました。
あいかわらず、とおい…。はやくかえれるとおもって布団をほしていったのに、かえってきたら真っ暗(しかも途中で雨…布団乾燥機があってよかった~)…ふだんよりおそかった…ひっくん、手足をつめたくして玄関でまちぼうけ…。ごめんね!

さて、診察室にはいるとさっそく「最初の写真のときと見比べさせて」と身体をみてくれます。
「全体的にはけっこうきれいになってきたんとちがう? さいきんはどんなかんじにしてるん?」ときいてくれます。
たべもの、サプリ、皮膚へのくすり…順にはなしました。
「私の治療方針としては、とにかく必要な栄養素を十分にとること、それから四季おりおり自分にあったくすりの配合をみつけることで、そこそこの状態を保てればとかんがえています。それで、いいですか?」
「はい」
「じゃー、たべものはこのまま、タンパク質たくさんとるようにがんばってね。あと、亜鉛と鉄のサプリは、大人の必要量の3分の2ってことだったけど、全部吸収されるわけじゃないから、大人の必要量毎日のんでみてね。ビタミンもB群を中心に補給しましょう。あとは、ぬりぐすり。じくじくしたらかわかす。かわいてかゆいところには保湿。で、この保湿剤の配合をさぐっていく。いいですか?」
「肘の内側、けっきょくなんだったんでしょう? 最初とびひだとおもって、家にのこしてあった抗生剤のんでアクアチームをつけたんです。それ2日つづけて、そのあとちくちく痛いというので、ヘルペスかもと、抗生剤のむのはやめてゾビラックスにかえました」
「う〜ん。もう痂皮化してるからわかりませんね。でも、ヘルペスがひじの内側にしかも単発ででるってあんまりみたことないですしね…とびひだった可能性たかいですよ。抗生剤のんだんがきいたかもわかりません。おかあさん、いい判断だったとおもいます。これからもきっと、肌の異変に気づくのは夜でしょうから、そのときに今回みたいに塗り薬とか飲み薬ためしてみて、次の朝おさまってればそれがあたったってことだし、ひどくなっていたら皮膚科にみせるでいいんじゃないですか?まーねー、医者もそんなかんじですから。見た目であたりをつけて、薬をだして様子をみる。だから、とびひにもゾビラックスきいたいう医者もいますしね、でもそういう患者さんもいたゆうだけかもしれません。とにかく、試行錯誤していくしかないですよ」
なんだか、すごく納得。わたし、この先生誠実で好きだとおもいました。
そのころ、ふっくんはもうあきて、まわるいすであそんでいます。
しーな先生はまず、ふっくんに
「いいですか?ちゃんと、栄養とって、ぬるおくすりはおかあさんといろいろためしてみてね」と声をかけ、そのあと
看護師さんに「ちょっと、おかあさんと話したいから、ふっくんの相手してもらえますか?」と。


<この先の主治医をどうしますか?>
なんでも、しーな先生は、年明けには病院をかわるそうで、いまより遠くなってしまうとのこと。選択肢は3つ。
・しーな先生の考えを理解してくれる病院を紹介する
・わたしたちがすんでいる地域で、栄養療法に力をいれている皮膚科医に転院する。脱ステの件はしーな先生が手紙で依頼する
・しーな先生のうつる病院を一回受診して、以後は電話でやりとりする
なやみました。しーな先生の説明は明解ですし、人柄もかなり好きです。が…こんどかわられる先は、片道3時間はかかりそう…。が、私のすむ地域の病院は…以前、電話でアドバイスをうけたときも紹介されて、そこで、ホームページをのぞいてみたのですが…。なんとゆうか…ページが洗練されていすぎ…イメージ的に「商売上手!」。偏見ありすぎですが、効率優先、試行錯誤一緒にしてくれないかも…なんて、ちょっと行く気になれない…。
というより、そもそも、いまのふっくんにお医者さん、必要なの!?と…。
「返事、保留にしていいですか?」
「まーねー。私もこのあと気になるから、また次の病院まできてくれたら安心ですけど、でも、遠いですしね〜。それと、いまぐらいの調子でいけるなら、医者かよわんかっても、いける気はしますよ。この程度で、あわてるおかあさんもいれば、ほっとくおかあさんもいっぱいいますから」
「すみません、実は私もそうおもいはじめてました。栄養素はおしえていただいたのでサプリを買っておぎなってもいいし、ワセリンや亜鉛華軟膏も市販されています。あちこち医者につれまわすのも、かえってふっくんを不安にさせるのではと…。このまま様子をみて、彼がまたいつか『医者にいきたい』と言ったときに、先生をたずねるか、おしえていただいたところにいくか、かんがえようかなとおもいます」
「うん、おかーさんが、いろんな情報にふりまわされずに、どっしりかまえてるのが、ふっくんのアトピーにはいちばんいいと思いますよ。でも、どのみち1月中には連絡くださいね。看護師さんに、私の行き先とかもつたえておきますから」
さて、診察終了の雰囲気…でも、まだききたいことが2つ! 依存のはなしと、湿潤療法が〜〜。


<「リバウンド」と「依存」はどうちがうのか?>
「先生、あと2つききたいことがあるんです」看護師さんが、「次の方もまってらっしゃるんで、手短に」と。たぶん、ここまでですでに20分は経過していました。
「では、どうしてもききたいほうから。先生はステロイドの依存とかリバウンドとかいう言葉をどう使い分けていらっしゃいますか?」
「え〜。それは…どんな状態でそれをたずねてらっしゃるのか、説明してもらわないと、どうこたえていいか…」
「実は、おークリニックに先生の紹介状をもっていったときに、『ステロイドのリバウンドなんてないわよ』とはなで笑われました。もし、あそこに『依存』という言葉がかかれていたら、彼女はどんな反応をしめしたのか…彼女の反応は、皮膚科医として一般的なのか…先生は、どんな使い分けをされているのか…そんなことがおうかがいしたいです」
しーな先生の説明は明確でした。以下、簡単に説明してみます。

「リバウンド」=ステロイドをやめたためにおこった症状
「依存」=ステロイドを使用しつづけたためにおこっている症状
「抵抗性」=ステロイドを使用しつづけたために効果をしめさなくなる状態

*「抵抗性」については、moto先生のブログ「塗ってもきかない-ステロイド抵抗性」
や、あおきクリニックの先生による学会の講演
などで示されています。
「抵抗性」と「耐性」は、どのようにちがうのかと…「耐性」でももぐぐってみました。
*「耐性」については、「ステロイドに対する耐性をアッセイするための方法及び試薬」
というなまえで日清キョーリン製薬の研究所の方が特許申請をしています。このなかの【0002 従来の技術】をよむと、ステロイドの耐性は自明のことのように書かれていますが…。否定する医師って…。


つまり…ステロイドをやめたときの症状がただのアトピーとはいえないほどはげしくでたときに「リバウンドがみとめられる」と使用している。一方、これまでずっと「標準治療」をしてきて、ステロイドのランクをあげても、ききがわるくなる「抵抗性」をしめしていて、皮膚にはステロイド依存性の湿疹ができている。しかし、ステロイドをつかわずには皮膚の機能をはたせないような状態になっている、そいう状態の患者さんに「依存」という言葉を使用しているということでした。
→ふっくんが、絶叫するほど夜中にかゆみがひろがったのは、これまでステロイドによっておさえつけられていた症状がいっきにあふれたためがひとつと、前身に赤い発疹がひろがったという点から、(そのときの状態を自分ではみていないの断言はできないが)リバウンドはあったとみなした。しかし、受診した段階ではすでに2ヶ月が経過しており、そのときの皮膚状態は、依存もみられなかったため、一時的なリバウンドがあったが、すでに去った段階だと判断した。

・リバウンドや依存がないと主張する医師は、一定数いる。皮膚科医の中でも、断固として「あれは、本来のアトピーの悪化であり、ステロイドの影響ではない」といいはる医師がいる。しかし、25年も皮膚科医をしていたら、アンテナをたてて患者さんの皮膚をみていたら、アトピーでおこる湿疹と、ステロイド依存による湿疹は、混在していても明確にちがうことがわかるはず。
また、あきらかにアトピーではなりえない症状にもなるが、そうした症状にアトピー以外の診断名をつけてよんでいるケースもある。
さらに…最近の若い皮膚科医がであうアトピー患者さんは、ほとんどが小さいときからステロイドを使用してきている。よって、ステロイドによる湿疹が、アトピー本来の湿疹にまじっていても、「あ〜、これが典型的なアトピーの症状か」と納得している可能性は高い。今後、ますます若い医師が「ステロイド使用による弊害」に気づく可能性はちいさくなっていくのでは…。


<キズパワーパッドとステロイド>
「ステロイドぬってるときに、キズパワーパッドはると、ひどくかぶれます。かふれるというか、ヘルペスっぽい水泡ができたり、じくじくの湿疹ができたりします。そんな話、ほかにもきいたことありますか?」
「さて…。でも、あれ密封するわけですよね。ステロイドぬっている肌は、確実に抵抗力おちてますから、あせもがとびひになったり、毛膿炎になったりゆーことは、ふつうの人よりおおいはずです」
あ〜納得。
もうひとつ…、ほんとはアトピー患者へのステロイド密封療法がどうなのかきいてみたかったですが、看護士さんの顔が〜。
あきらめました。ついでに、
「先生、じゅくじゅくのとき、ガーゼよりプラスモイストのほうが、快適かも」情報もおつたえしたかったけど、これも断念。

そいうえば…しもやけについては、あんまり関心がなかったようで…。最後に、「そうそう、くすりどうする?」ときかれたので、「しもやけのくすり、ください」っていったら、「あ〜、しもやけだったわね〜」まぁ、主訴じゃないから忘れられがちかもしれません。

さて、治療点数ですが…。
前回の電話相談は、69点。
今回は、診察料121点、管理料10点、薬料(ビタミン剤、保湿剤(ワセリン+亜鉛華軟膏)2種、ユベラ軟膏)110点


<きのうのふっくん>
あいかわらず、「亜鉛+鉄」のサプリは、まずいといって非常にいやがっています。が、のみました。ビタミン剤はよろこでいます。
肘の内側と膝の裏が、いまは一番かゆいようです。
シルクパジャマと5本指ソックスは、きにいってます。
「つかれた~。もうお医者さんはとうぶんいかない~」といってねました。
私も同感です。
でも、またいつかしーな先生には、あいたいです。

2010年12月9日木曜日

創傷の「標準治療」はいまも「湿潤療法」ではない!?

2010年12月9日(木)
かかないつもりでしたが…おもわぬアクシデントがあったので!!(笑)

<マスクにガーゼをあてた!?>
昨日、職場に保育園から電話がかかってきました。
(え〜、熱でもだしたのかしら…)とおそるおそる受話器をとると…
「ごめんね、おかあさん。ふっくん、さっき頭ににわとりのっけてたんだけど…」
(はぁ? にわとり〜!? たしか、今日は移動動物園が保育園にくる日だったよね。しかし、なんでまた、頭ににわとり。で、なんで、それで、職場に電話?)わたしの脳内、ますますクエスチョンマークがいっぱい。

とにかく、先生のはなす事情を優先するならば(ふっくんの説明は、これとちがっていましたが、先生の説明のほうが、説得力あり(笑))、
ともだちとにわとりを頭にのっけることができるか競争になり、ふたりでのせっこをしていた。そこで、ふっくんが「ぼくは、もっとすごいよ」とにわとりを頭にのせたまま走りだしたため、おびえたにわとりがふっくんの顔を踏み台にジャンプ。顔をけさがけにひっかかれた。
ということらしい…。

「なにしとるん、ふっくん! すごいあほ〜〜〜〜。うわ〜、うちのむすこ、あほすぎ〜〜〜」もう、大爆笑。
「いや、それでね、おかあさん、ふっくんテープはるとかぶれるでしょ。だから、いまのとこつかいすてのマスクにガーゼをあてて、それで傷おさえてるんだけど、どうしよう。病院、こっちでつれてこうか?」
「だって、にわとりにひっかかれただけですよね。目にはいったりしました?」
「いや、ちょうど目はさけられて…。まー、傷は浅いけど、長いんだよね」
「本人は、なんていってますか?」
「ここにいるから、ちょっときいてみるね」ふっくんの声がとおくから、きこえてきます。
「いたいけど、これ病院いくようなけがじゃないよ」
「おかーさん、きこえた? こんなふうにいってる。とりあえず傷口はすぐ洗ったからね」
「ありがとうございます。では、本人の判断、優先してください。もし、むかえにいって気になったら、私が病院つれてきますね」

というわけで…それでも気になったので、「湿潤療法」をしている医者をネットで検索して、いつもよりははやめにおむかえにいきました。
なんだ、「けさがけ」ってほんの5センチくらい、鼻からほっぺにむけて、ひっかき傷があるだけ。よかった〜。

でも、とにかく顔なので、めだちます。保育園におむかえにくるおかあさんが、つぎつぎふっくんに「どうしたの〜!!その顔!」と話しかけてくれます。
事情をはなすたびに…「にわとり、頭にのせた!? めっちゃおもしろい〜。よく思いついたね」と爆笑する人、「そんなにひどくなくて、よかったね。にわとり頭にのせるなんて経験、いまどきなかなかできないよ」とほめてくれる人、「そんな! 鳥なんてどんなばい菌もってるかわからないのに! おかあさんに病院つれてってもらわないと! 先生はつれてってくれなかったの!?」と憤慨する人、様々でした…。
なんか、おかあさんたちの反応がかなりおもしろかったです…。

でも、ふっくんがしていたつかいすてマスクは、内側からガーゼがテープでとめてあって、ちょうど傷にあたるようにゴムのながさも調節してありました…それをみて、保育園の先生たち「バンドエイドも、ガーゼをテープでとめるのもふっくんがかぶれてはいけない!」と、いろいろかんがえてくださったんだな〜と、しみじみありがたかったです。

<外科医間の湿潤療法は、皮膚科医間の脱ステとおなじ!?>
ちなみに、場所的にプラスモイストははりにくい…。このまえ、キズパワーパッドかぶれなかったから、それでいこう!と、おふろあがりにはりました。
こんなとき、「ステロイドやめてよかった〜」とおもってしまいます。
だれか臨床の方が、これ実証してくれないでしょうか…。ステロイド使用中のキズパワーパッドは、私のしってる十数人の人はみんなひどくかぶれているのです…。
というわけで…外傷にかんして湿潤療法を推奨していらっしゃるお医者さんにメールでといあわせてみましたが、ステロイド使用については関心をもっていらっしゃらないようでした。
返事の要点は以下の3つでした。
①ODT療法(密封療法)は皮膚科では数十年前から世界標準治療である
(ゆえに、アトピー治療においてステロイドを使用してラップでおおう方法は有効である)
②ラップやキズパワーパッドは、たしかにあせもやとひびを併発しやすい。その場合はプラスモイストが有効。
(プラスモイストは、吸収力が高いために、とびひや湿疹の治療にも有効である)
③湿潤療法を理解しようとしない医師は、勉強不足のばか

このお返事からすると、アトピー治療においてステロイドを使用したうえでラップでおおうODT療法で甲状腺機能に異常をきたした人がたくさんいるといったおー先生の見解はどうなるのでしょうか…。
う〜ん、外科の先生ですから、創傷に関する縫合・消毒に疑問はもたれても、アトピーにおけるステロイドの依存性といった問題には関心がなくて当然かもしれませんが…。でも、創傷治療や熱傷治療について「標準治療」のあり方を批判されている医師が、皮膚科のODT療法となると「世界標準治療である」と権威をもちだされることが、ちょっとおもしろくはありました。
②番目は、すごくなっとくしました。ふっくんもプラスモイストではかぶれたことがありません。
ちなみに、このお返事は、③にもっとも力がはいっていたような…。
う〜ん…湿潤療法は、世間的には徐々に認知されているように私はかんじていましたが、「外科学会」の中ではアウトローなのかもしれませんね。
皮膚科医の権威がなかなかステロイド依存をみとめたがらないように、外科医の権威はやはり湿潤療法をみとめたがらないということは十分にかんがえられます。
もっとも脱ステを標榜する医者よりも、湿潤療法を標榜する医者のほうが勢いが強いかんじは、印象ですがうけています…。
近所の総合病院でも院内の大型スクリーンに「当院では、外傷には湿潤療法をおこなっています」とうつしだされています。その後、湿潤療法の詳しい説明がはじまるのですが…最後にちいさく「一部の医師は従来の消毒法を支持しています」的な表示がながれます。看護師さんにきいてみたら「うちの若いドクターはみんな湿潤療法に移行したんですが…ひとり強行に反対なさってるドクターがいて…その方がこの一文をいれろと…。ないしょですよ」と、こっそりおしえてくれました…(爆)。

このメールで勉強になったのは、ステロイド使用中の人でもプラスモイストはいけるであろうことと、もう1つは、外科の先生に、アトピーに関するステロイド使用のことまで越境して考えてもらおうというのが、おかど違いだったなということです。
でも、アトピーの人もけがをします。そのとき…ステロイド使用者かどうかたずねたうえで、もちいる衛生材料を考えてくださったらありがたいですよね…。むろん、アトピーにかぎりませんけど。

いま気になって、「創傷 標準治療」でぐぐってみると…ありました!!!
やはり、創傷の湿潤療法は「標準治療」としてみとめられてない…褥瘡治療でかろうじてふれられた程度だそうです。
きよすクリニック 診察室から
きよすクリニックの院長先生の態度、いいな〜とおもいます。

内部で意見がくいちがうことはどの「業界」でもあることだとおもいます。そんなときに「私の信じる意見こそがただしい」と固執するまえに、いったん白紙にどして異なる主張を十分に吟味してあらためて態度をきめるというプロセスは重要だとつくづくおもいました。


<きのうのふっくん>
なんとなく、手順がおちついてきました。
かいてかさぶたをとってしまった部分にはマキロン
かさぶたになっている湿疹と、乾燥してしろくかいたあとがのこっている部分には亜鉛華軟膏入りワセリン
肘の内側は、かなりかさぶたがあつくなりもう水疱はふえていませんがとりあえずゾビラックス
しもやけには、メンソレータムぬってます。
ねるときのアイスノンは、さむからか、わすれたり、つかったり。
最近、寝る前以外はあまりかゆくないようで、ローラー針をもちあるくこともなくなりました。

2010年12月6日月曜日

「責任」をもつ、「問い」にこたえる

2010年12月6日(月)
<しばらく、更新回数を週1回にします>
このブログを、毎日のぞいてくださる方々、ありがとうございます。とてもはげみになっています。
アトピーについて、ステロイド使用について、子育てについて…まだまだ、考えたいことはたくさんありますが、いよいよ、義理ある仕事が、せっぱつまってきました…。
これから3ヶ月ほど、ブログの更新は、週に1回程度、ふっくんのアトピー経過記録のみにする予定です。
3月になりましたら、また、いろいろな本を参考に、かんがえていきたいとおもいます。
おやすみにはいる今回は…哲学をまなんでいる方の本を紹介したいと思います。

<「責任」ということ>
さて、ブログをはじめて3ヶ月ちかく、ダンくんにはずいぶん笑われ、心配されてきました。
「これやっとるひま、あるん?」「あんた、逃避ではじめたブログのためになんで本買い込んで勉強しとん(爆)」などなど。
たしかに、逃避といわれれば逃避…。しかし、これまでさきおくりしてきた課題といえば課題…。
私にとって、ふっくんのアトピーは、私が責任をもって対処せざるをえない問題だともおもってきました。
中真生さんという哲学を専門にしていらっしゃる方がこんなことを書いていました。

自分ひとりのことならば、どのような損害や評価も甘受しうる。それを背負うのは自分だからだ。しかし、人のものを預かり、自分の裁量にゆだねられているにもかかわらず、その結果は自分(だけ)はなく、他人が背負っていかなくてはならないとき、私たちは責任を感じうる。逆に、私たちが人に責任を問いたくなるのもこのようなときだろう。あなたが関わって残した痕跡を、私は背負っていかなくてはならない。その重みを認識して欲しい、償って欲しいと。
中真生「責任」飯田隆ほか編『モラル/行為の哲学』(岩波書店、2008年、p.249)

たしかに…自分のことならば、ここまで悩まないかもしれません。しかし、いまの私の選択が、ふっくんの今後の人生に大きくかかってくるとしたら、それはたちどまって熟慮せざるをえない。いつか、彼に保護者としての責任を問われたとき、「でも、わたしはあのとき、問い、なやみ、かんがえうるかぎりで最適だとおもう方法を選択した」とこたえたい…。それがまちがていたならば、私もいさぎよく彼に謝ることができる…。
そんなふうにおもっています。これは、一方で私の責任であり、重荷ですが、一方で私の存在証明ともなりえているかもしれません。

こんなふうに考えると、こどものアトピー支援において、親としてアトピーにかかわってきた人の態度が、当事者としてアトピーにかかわってきた人にとっては、「重い」「うっとうしい」「やりすぎ」と感じられる背景もクリアーになるのではないでしょうか…。

親は責任をかんじています…。しかし、考えうる選択肢はだれにでも平等にひらかれているわけではありません。情報収集のスキルが必要です。そのスキルにたけていなければ、択肢はかぎられます。さらに選択肢を手中にしたとしても、選択指針をきめるリテラシーが必要です。リテラシーは訓練なくしてみにつきません…。
つまり、私たちは一般的に、権威のあるもの、声の大きいもの、知人のすすめるもの、おおくの人が従っているものに、判断をゆだねることになります。しかし、アトピー治療の現場は、混乱しています。判断をゆだねる代理責任者の選択すら迷いが生じます。
自分の判断に自信/責任がもてきれないと感じている保護者にとって、「過干渉になる」という選択肢しか残されていないのかもしれません。

アトピー治療の混乱を、混乱のままえがき、自分ならどんな選択をするのかシミュレーションできる…。そんな、記録がいま必要とされているとおもっています。
この混乱に対するまよいは、そっくり、今日までの私の経験でもあります。今後、アトピーやアレルギーと診断されたお子さんをもつ保護者の方がこのブログをみてくださったなら、ぜひ9月のあたまにもどり、私とふっくんの経験を追体験し、ここまでの道程を批判的に検討してください。
お子さんにとって、すこしでも満足のいく「責任」のもち方をみつけてくだされば、幸いです。

<「問い」をはっする>
さて、この中さんは、こんな文章も書いていらっしゃいます。
中真生「問いつめる」松永澄夫ほか編『哲学の振る舞い』(東信社、2010年、p.71)
・「問いは思考を立ち上げ、始動させる」
・「問いは、思考が進むのを後押ししてくれる杖のようなもの」
・「問いがやみ、あるいは生まれなくなるとき、思考もまたやんでしまう」
そうだな〜としみじみ思います。
「このブログのスタイル、これでいいよ」と中さんにはげまされたような気持ちになりました。
このブログを書きはじめて以来今日まで、私の頭の片隅にはつねにアトピーがあり、つねに問いがうかんでくることに、われながら閉口することもありました。
しかし、この次々とうかびあがる問いのおかげで、私はずいぶん、距離をおいて、ふっくんと彼の肌をみられるようになったともおもいます。
というか、問のこたえをみいだしたいという思いが、ふっくんの肌ばかりに気をとられる時間を大幅に減少させた効果かもしれません…。
いずれにせよ、まだ、宙に浮いたままの問いは、たくさんあります。こたえがみつかりそうな本もてあたりしだい購入し、周囲にならべています。
いまの仕事がおわったら、一冊ずつ手にとり、みなさんとかんがえていきたいとおもいます。
そのときは、またご意見ください。よろしくおねがいします。

<今日のふっくん>
ちょっと、湿疹が乾燥してきて、いいかんじです。とびひだとおもった湿疹は、アクアチームをぬったら(これも、家にありました…まえにふっくんが毛のう炎と診断されたときもらった薬です…)、ちくちく痛いというので、「もしかして、とびひじゃなくて、ヘルペス!?」とまよいました。よって抗生剤の内服はやめ、ぬり薬はゾビラックスにかえてみました。こんなかんじになっています。本人は「このでこぼこが、きもちわるい!」とすごくいやがっています…。しかし、そのほかはきれいになりつつあります。この夏からしつこく、じくじくとかさぶたをくりかえした右足のすねは、いま薄皮もあつくなりつつあり、ほとんどかゆみもないようです。本人は「これが、よくなったんだから、ほかもぜったい、このくらいにはなるよね」と自信をふかめているようです。
ひじの内側のでこぼこをいやがっています!
じくじく部分には、マキロン。かさかさでかゆみのあるところに保湿剤。左肘の内側にゾビラックスをぬりました。
さて、しろうと療法もそろそろ限界です。今週中には、仕事をやすんでしーな先生のところにいってみます。
(その顛末に関しては、ご報告します!)

2010年12月3日金曜日

「感情表出」と「社会規範」

2010年12月3日(金)
<きのうのふっくん…>
おふろあがり、「きょーも、マキロンにする~」とさしだす腕をみたら…。
「ちょっと! これ、とびひになってない!?」
きのうまでは、ぽつぽつひろがる赤い発疹の頭がけずれていただけでしたが、
今日は、水疱もまじっているし、けずれたてっぺんに黄色のかさぶたがくっついています…。

しもやけのうえに、とびひかよ~。もう、ふんだりけったりじゃん…。
「テラ・コートリルがあったから、それぬろ~」とみたら…
しらなかった…。これもステロイドいり…。
「ゲンタシンもあったはず…」とさがしたら、未開封のが1本みつかりました。

ひじの内側がとびひ疑惑です。

「これぬっとくべ」
しかし、きのうは単に粉をふいて、しろいかきあとがみられただけの背中に、今日は赤い発疹がいっぱい。しかも、これもひっかいてかさぶたになっているところもあります。
足もかなり、ひっかきキズがめだつ…。
「ふっくん、ねんのために、まえにおー先生にもらった抗生剤ものんどこう」
(うわ~、もう、どんどんしろうと判断拡大…)


【脱線~とびひとステロイド】
息子たちがねてから、「ゲンタシンでよかったかな~」と「とびひ ステロイド」で検索してみました。またまた、いっぱい「とびひには、ステロイド」説が…。
「おいおい、アトピーの子がとびひになったとき、ステロイドぬるとひどくなるのに」とおもって、次は「アトピー とびひ ステロイド」で検索すると…「もともとアトピー体質の子がとびひになったときは、ステロイドは使用しない」という話もでてきました。
しかし、小児科と皮膚科で「とびひにステロイドはだめ」「とひびには、ステロイド」とちがうことをいわれて、困惑しているおかあさんも…。なんか…いつでも、どこでもステロイドですね…。


<いっていいこと、わるいことの境界>
さて、さきほどの続きですが、ひっくんが「いいな~、ふっくん。くすりいっぱいのめて」といいはじめました。
ひっくんは、なぜかくすりをのむのが大好きです。
「じゃー、ビタミン剤でものんどけば?」
「いや、そーいうんじゃなくて、お医者さんからもらった薬がいいんだよね。まー、ふっくんみたいに、からだがかゆくなったり、きずだらけになるのは、いやだけどさ。あっ、かぜでいいや。かぜひかないかな~」
なんだか、怒りのマグマがふつふつ。
「そんな、かぜひきたくてかぜひいた人のめんどうなんか、おかあさんみないから。かってにしてよね」とぷんぷん。
「ひとりでいるの?」
「とうぜんでしょ…」と、私の怒りはおさまらず、しゃべりつづけていましたが、ふとひっくんをみると、とほうにくれた顔であらぬ方向をみつめています。(しまった~。いやみいっても、この人にはつうじない…)
「ごめん。ほんとは、おかあさんがおこっているのは、かぜの話の前。あなた、もし誰かに「ひっくんみたいには、なりたくないけどね」って言われたらどうなの? それ、かなりいやじゃない?かなしいよ。人はいろいろ思うから、それは仕方ない。でも、本人の前で言っていいこと、悪いことがあります。どうしてもいいたかったら、あとで他の人にいいなさい!」

ふっくんが、いきなり「おかさ~ん」とだきついてきました。
(あ~、やっぱり、ふっくんは、ひっくんに「あんなふうになりたくない」って言われて、すごくキズついたんだな~)とおもいました。
(あぶな~い。いやみでおわらせなくて、よかった。ちゃんと怒っている理由いってよかった~)とも。
が、しかし…。私の態度は、これでほんとうによかったのでしょうか…。

<「感情」をどうするのか>
わきあがる感情を、制御するのはむずかしい…。
たしかに、私たちは感情をコントロールしています。が、それは表層的なものです。「顔で笑って心で泣いて…」的な。
より適切にいえば、感情表出をコントロールすることはできても、感情そのものはコントロールできないといえるかもしれません。
(もっとも、感情労働論においては、たとえば「心からの笑顔」をもとめられたとき、しだいに自己の感情と労働上の感情表出規範にそっているのかわからなくなり、自己を阻害するといった話もでてきました…。と、ここでいま、ものすごく「感情社会学」とか「感情労働」についての本を手にとりたくなっています。が、禁欲します。ほんとーに仕事がたちゆかなくなりそうです…(泣)。
みなさん、すみません。また時間の余裕のあるときに、ちゃんと文献参照しつつ、ここかきなおします。でも…いまの気持ちだけ、整理させてください)

<「社会規範」に従うということ>
とりあえず、いまもやもやしていることをかきます。
私は、こどもたちに発したメッセージは以下の三点です。
①なにかを思うことは、よくもわるくもない
②しかし、それを誰かに伝えるかどうかは、判断するべき
③円滑な人間関係のために、沈黙するか、こっそりいうことを奨励

①「なにかを思う」そのことに価値判断はつけられません。なにかを思うことに対し、いちいち「道徳的」あるいは「社会的」価値判断をつけていたら、自己否定的な人生をおくらざるをえない…。
ここは、問題ないとおもいます。
②「わいてきた感情、きもちを表現するかいなかを判断する」…これは「社会的な規範にてらしあわせて考えろ」というメッセージです。
私は、昨晩「自分だったら、どうなのか想像しろ」とひっくんにせまりました。が…ひっくんは、アスペルガーです。「置き換え想定」は小さいときから大の苦手。そのことで、小さいときからさんざ叱って、アスペルガーだとわかったときに、「いままで、怒ってごめん」と私はひとりで大泣きしたはずです。そして
「タブーとされていることも、口にして、はじめてわかりあえることもある」「ことの本質をかたりあういい機会になるかもしれない」と考え直し、またそうも教えてきました。
それなのに、再び、私は彼に「人の気持ちをかんがえろ」としかりとばしている…。
この矛盾を、ぴーふけ、あなた、どうするんですか?
いや、たしかに「ソーシャルスキルとして、それ教えるのは大切ですよ」と弁護してくださる方がいらっしゃるかもしれません。
③「沈黙するか、こっそり言え」は、まさにスキル伝達です。
しかし、人に「沈黙をしいる」ってけっこう抑圧的ではあります。それだったら、「こっそり言え」のほうがいい。これ、「陰口」のことではありますが…。昔は「陰口」は「きたない」「ずるい」「はっきり本人にいえばいい」と私のなかでは大きな「タブー」の一つでした。
が…いまは、これ、けっこう人をエンパワーさせる強力な方法ではないかなどともおもっています。
ただし、これはエンパワーはされても、根本的な解決はうみません。
社会生活は円滑にすすむ方法の一つではありますが、それだけといえば、それだけです。


<「規範」にそわない選択肢>
もう一度、私の態度をふりかえります。

ひっくんが、「かゆくなったり、きずらだけの身体になるのはいやだ」と言った。
私が、「本人にそれをいうなんて、ひどいことだ」と怒った。

しかし、私には、ここで「怒らない」という選択肢があったはずです。
むろん、怒ったことで「ふっくんは、救われたんじゃないの?」と弁護することは可能かもしれません。
でも、ふっくんは「味方してくれた」とは感じても、「アトピーはいやなことだ」というメッセージと、もうひとつ「ひっくんは、『思いやりがない』」というメッセージも同時にうけとってしまったとおもいます。

私が怒ってしまったことで、発したメッセージは3つです。
a.「かゆくなったり、傷だらけな身体であることは、わるいことである」と私が認めている。
b.「だから、それは悪口だ」と私は判断した。
c.「おもったことを、そのまま口にする前に、いったんかんがるべきだ」と私が考えている

しかし…そもそも、「かゆくなったり、傷だらけな身体であること」は、ほんとうに「わるいこと」なのでしょうか?
「おもったことを、そのまま口にすること」は、そんなに「いけないこと」なのでしょうか。
そうかんがえると、ほかの選択肢としてなにがあったか…

b’.「かゆくなったり、キズだらけだと、どうしていやなの?」と、私はひっくんにたずねかえすことができたはずです。そうすれば、ひっくんが外部からみた「アトピー」への感想を話すことができました。ふっくんが「実体験として、自分のつらさ」について話すことも可能になりました。3人で、「アトピーって、なんだかね~」とはなして、つらさを共有したり、その状態を肯定したり、できていたかもしれません。

b”.「いまのひっくんの言葉、ふっくんどうおもう?」と、ふっくんにたずねることもできました。
そうすれば、ふっくんがひっくんに直接自分の気持ちをつたえることができました。「それを言われるのは、いやだ」とか、「でも、ぼくは平気だよ」とか…。いずれにせよ、「アトピーをどうとらえるか」という会話は、はじめられたようにおもいます。

私が怒ってしまったことで、私は「アトピー」を話題にするきっかけをひとつつぶし、ふっくんが「自分で発言する」機会もうばってしまいました。
しかも、ひっくんの「おもったことを、口にした」ことは、彼の口をでた時点ではなんの意味もおびていなかった。それを「悪いこと」と価値付けたのは、「悪いことだと」怒った私です…。
怒られるべきなのは、ひっくんではなく、私のほうでした…。

でも!! いくら「おかあさん」がわたしの主要な属性の一つでも、わたしもただの人ですから、わきあがる感情に、善悪判定をもちこんじゃいけません!(笑)。しかたない、怒れちゃったんですから…。
でも、いまから修復することは、可能かもしれません。
いきなり「ごめん、きのー、おかーさん、態度まちがえてました」と話し出すのも…(これ、けっこう頻繁に使うので、さいきん、息子たち、インパクトをもってきいてくれなくなりました…(笑))。
そうだ。今日ダンくんたちが、かえってくるから、「そいうえば、きのうね~」と報告形式で誘導してみようかしら。ただし! ダンくんは、話を最後まできかずに「こうすればいい」と結論だけ宣言しがち…。「ここに誘導したいんだから、たのむよ」と先に話しておこうかしら…。でも、そんなことしたら、たぶん彼が「あれなー、あんたらのおかーさんが、まちがっててんで。あそこで、怒らずに、はなさんと…」などと自分で主導権をにぎって会話の場をつくりそうな気も…。まっ、それもいいですね。

【脱線~ぐちの効用】
「陰口やぐちは、けっこういいよ」について…。
私も、むかしはきらいだったんです。「ぐちぐちいう」とか「陰口こそこそ」とか、軽蔑してたんです。ところが、あるときいつもアハハと笑っている元気な女性としりあい…。彼女があるとき、
「ぐちとか、かげぐち、ばかにしちゃだめだよ。私も昔はそうおもってたの。家もきびしくてそういう行動が許されなかったし。でも結婚してみたら、彼の家がすごいの。ぐちと陰口の嵐。はじめは軽蔑してたんだけど、でも彼の家族のほうが、私の家族より明るい。かぜとおしもいい。すごい悪口いってるくせに、悪口の標的にしていたその人をまるごとうけいれてるっていうのかな。ある意味、健全だってきづいたんだよ」というような話をしてくれました。そうかな~と半信半疑でしたが…。
仕事でであう人たちが、みんなひとりでかかえてくるしんでいたり、だれにもいえない間にちっちゃなことが巨大化してのしかかっていたりするのをみるにつれ…「はなしましょう」「ぐちぐち、いおうよ」「ぐちは、いわないと!」とどんどん態度がシフトしてきました(笑)。

そうそう、「ぐち」つながりで…。上岡陽江、大嶋栄子『その後の不自由-「嵐」のあとを生きる人たち』(医学書院、2010年)、すばらしいです。これにも、「ぐちをいおう」って、書いてあります。
また、ちょうど読んだ翌日に、オーバードーズ経験者の知人がやってきました。「いいところに!きのうこれよんで、おすすめしたいと思ってたのよ~」と。
そして、ふたりで「ブラバ注意!」とわらいながら、「一緒だ〜」と泣きながら、よみました。
作者さんにおつたえしたい…。すくなくとも、確実にひとり、この本にすくわれた人がいます。きっと、もっとたくさんいます。みなさんもよかったら、よんでみてください。

2010年12月2日木曜日

「かゆいと言ったら、ステロイド!」「えっ?」

2010年12月2日(木)
<しもやけ、できました…>
ショックでした…。この冬、「芳泉」も冷え性防止だし、足マッサー・手マッサーも毎晩。
「ことしのふっくんは、しもやけしらず!」と意気込んでいたのです。
が、昨晩、ふっくんのしあげはみがきをしようとして…「ちょっと、耳、赤くはれてない?」
「うわっ! これ、しもやけじゃん!!!」が~~ん。
「ノーマークだったよ~~。やられた~」と大ショック。
私が、愕然としているわりには、ふっくんはいたってのんき。
「あー、園庭であそんでると、いつも耳がめちゃくちゃつめたいんだよね。だから、なったんだな。でも、おかーさん手でしっかりふさいでるとそんなに痛くないから、平気だよ」
なんか…きみ、たくましくなったね…。うれしい。

でも、しもやけ、いまはまだいいけど、この先ひどくなる予感…。
耳では、「おばーちゃん療法」もつかえない…。
どうしようとしもやけのサイトをさがしていました。いちばん、よかったのはしもやけ.com
実体験にもとづいて、丁寧にかかれています。
針刺し療法もためされています!でも、このかたにはきかなかったよう…。やりかたもちょっとちがいますが、向き不向きなどもあるのでしょうか…。

この方は、皮膚科医さんでもらったビタミンE軟膏がいちばんいいとおすすめされています。
「そうだよね~。じゃーどこのお医者さんでもらうかなー、おー先生とこいくかな」なんて、おもっていたら…。
(ちなみに、つかちに先生は、「しもやけひどくなって」というと「じゃー、ヒルドイドぬっといて」「ビタミンEいりがいいときいたのですが…」「じゃー、飲む方でだしとくかな」ってかんじでした。あんまり、しもやけには、関心なかったみたいです)


<しもやけにも、ステロイド!?>
ところで、この方が皮膚科で処方されているのは、「リンデロンV+ユベラ軟膏」…。
「しもやけにまで、ステロイドかよ~~~~」と、たおれそうになりました…。

ごめんなさい! この方は、すごく快適につかっていらっしゃいます。それに、しもやけ用ですから、おそらく使用期間は冬の間の3ヶ月くらい。長期的常用状態はさけられるので、問題にならない可能性は高いとおもいます。もっとも、この方自身、「病院から処方された薬であっても長期間使用するとしもやけに効かなくなってしまう。(ステロイドのようなもの?)」と疑問をしめされていますが…。


が、しかし…私がたおれそうになったのは、「かゆいっていったら、なんでもステロイドだすわけですか」のその1点…。
accelerationさんも書いてくださったように、老人性の皮膚乾皮症にもステロイドがだされているよう…。うちの父も、内科のお医者さんにステロイドをだされてつづけ、もう10数年になります。
まさに深谷先生の写真3.老人性乾皮症型にそっくりな紅斑が、腕や足、背中にひろがっています。
母は気にしていますが、父は「医者のいうとおりに使っている」と律儀にステロイドをぬりつづけています(コメント欄と同じ話をくりかえして、すみません)…。でも、90になろうという父に、「それ、ステロイド依存性の皮膚だよ」などともいえず…。「年齢的に、しみとかもでやすいよね」なんて、言っています…。
ふっくんは…どうしようかしら。おー先生のところに、しもやけで受診するか、しないか…。
なやみます。


<にんにく風呂!?>
そういえば、「犬のアトピー」で検索していたときに、「にんにく風呂」情報にいきあたりました。
なんでも、にんにくをラップにつつみ、沸騰したお湯のなかで煮る。ラップをはがして、ストッキングなど目のこまかい布でつつみ、お湯のなかで手てつぶす。そのお湯につかる…。
犬のアトピーがこれでよくなったと…。
「すご~」とはなしていたら、ふっくん「それやってみる!」と。
やってみました…。沸騰したお湯で煮るのはちょっとめんどうだったんで、レンジでチンしてしまいましたが…。
う~ん、わかりません。でも、ふっくんはきにいってました。においもしませんでした(使用したにんにく2かけ…すくなすぎか!?)。

にんにくと言えば…ダンくんは、「酢づけにんにく」がお気に入り。
にんにくの皮をむいて、半分にきって、お酢につけます。2週間ぐらいで、ニンニクは青く、酢は黒っぽくなります。そしたら、食べ頃。毎日、たべます。
私もつきあわされました…。最初は、これ強烈です。胃もたれるし、におうし…。でも、2~3日でぜんぜん気にならなくなります。身体がにんにくにあわせているのでしょうか…。
味はからいし、かなり強烈。和食には、けっこうつらいですが、カレーとかピザ、パスタのときは、きざんでちらして、トッピングとして、かなりいけます。(でも、知人のなかでも「あれいい!」とはじめた人と、「あれ、げりになった」とか「においが強烈すぎ」とすごい不評の人にわかれました…)。

昨年の冬からはじめて、ほぼ1年たとうとしています。
ダンくんは、このおかげ(かどーかわかりませんが)で、ひどかった花粉症がこの春はぴたりとおさまっていました。昨年までは、鼻も目もステロイドづけだったのに…。秋もなんの症状もでませんでした。
私は…花粉症でもないので、効果はよくわかりませんが、風邪はたしかにひいてません。
ダンくんは、「これ、アトピーにもいけるんちゃうか」とふっくんにたべさせようとしてみましたが…。こどもには、ちょっと強烈だったよう。どうやら、食べられなかったことが、ふっくん、こころのこりだったのか…。
「酢漬けのにんにくは、だめだったけど、おふろなら大丈夫!」とのりのりです。

<きのうのふっくん>
湿疹のてっぺんが、けずれて血がでたところが数カ所。
「ここには、ぜんぶマキロン」と。
さいきんマキロンおきにいり。「どうなの?」ときいたら、「最初、ちょっとちくちくするけど、そのあとかゆくなくていいんだよね」と。
背中はかさかさしてきて、かいたあとが白くのこっています。これ、まさに乾燥しているだけ。なので、「これは、保湿剤がいいとおもうよ」とワセリンぬりました。
「さいきん、保育園ではどうなの?」ときくと、「う~ん、かゆいのかな~。よくわかんない」と言っていました。無意識に掻いてはいるとおもいます。
家にいるときも、どうでしょうか。
なんといっても、強烈にかいているのは寝入りばな。からだがあたたまってくるからでしょうか。ひとしきり、ばりぼり、ばりぼり、音がしだしたとおもったら、そのうち静かな寝息がきこえてくる…。そんな日々です。

【追記…】
きになって、「しもやけ ステロイド」で検索してみました…。わらわらでてきました…。
「しもやけには、ステロイドが一般的な治療方法です」とかいてあるサイトもあれば、
そもそも、ビタミンEいりのくすりすらつかわず、「しもやけには、ステロイド塗布で、4~5日で治癒します」と断言してあるサイトもありました…。リンクする気もうせました…。すみません。世の中、どれだけステロイドがあふれているか、あらためて思い知りました…。
ステロイド市場、こりゃ、巨大ですね…。

2010年11月30日火曜日

「標準治療」の問題は、ステロイド使用だけ?

2010年11月30日(火)
<「標準治療」で「そこそこ」をめざしていたのに…>
さて、昨日、私は「そこそこ」をみつけられるといいと書きました。「完治めざして、ふりまわされるのはやめましょう」と。しかし…
ノブコフさんに、コメントをいただいて、あらためて思いました。「標準治療」の存在は、けっこう罪だと…。
ノブコフさんが20数年「標準治療をしてきたのに!」と書いていらっしゃるように、私もこれまで、「アトピーにこんなのいいよ」とさまざまな知人に言われても、「ちゃんと医者かよってるから、大丈夫」と、ふっくんに「標準治療」しかしていませんでした!!
それでも、よくならなかった…どころか、ひどくなった…(と主観的には思っています)。
あーちゃんも「たしかな治療を!」と大学病院をはしごして、「標準治療」に邁進して、「ひどくなった!」と脱ステを選択しています。こうめさんもまた、「標準治療」をうけつづけて最終的に脱ステを選択…。


<アトピービジネスにはしる原因は、アンチ「標準治療」なのか?>
むろん、ノブコフさんと、あーちゃんと、こうめさんと、ふっくんが、標準治療でたちゆかない、正規分布のはしっこのグループだった可能性もあります。しかし、あらためて…
「標準治療」どうなんですか?と、問いたいです…。
「標準治療」にまじめにかよう人たちは、おおくの人が、「ちょっとでもこのつらさをしのげれば…」と思っていらっしゃるでしょう。なのに、なのに、悪化です。
竹原和彦先生は、『アトピービジネス』のなかで、「脱ステ患者=アトピービジネスのえじき」のごとく書いていらっしゃいますが……ぜひぜひ、こうした「標準治療」をまじめにうけていたにもかかわらず悪化した人の追跡調査をしていただきたかったです。アトピービジネスにはまるのは、「標準治療」に背をむけた「ばかな/非科学的な」人ではなく、「標準治療」をまじめにうけつづけていたにもかかわらず、「そこそこ」でとどまれず、悪化したからこそ逃げ出した人たちだとおもいます。それを「もともとのアトピーが悪化した」と片づけるのは、医者としてどうなのか…。



<医者の権威>
もちろん、医者の倫理に訴えるのは、戦略としてどうかとは思いますが…。でも、でも、「医者」の権威は強いことを、お医者さんたちはほんとうに知っているのでしょうか。

まえにaccelerationさんが、「『医者の世間知』って具体的になんですか?」ときいてくださって…そのときに「近所のおばさんでも、いいそうなことを言える」と書きました。しかし、実際には、近所のおばさんに「だいじょうぶよ~」と笑ってもらうのと、医者に「だいじょうぶよ~」と笑ってもらうのとでは、受け手の印象はかなりことなります。

たとえば…ふっくんは、最近、いっしょうけんめい肉を食べています。彼は肉がきらいです。牛乳も好きではありません。が、「先生になんでもたべなさいっていわれたもんね」「たんぱく質とると、皮膚も丈夫になるし、背ものびるんだって」と、一生懸命食べています。毎日、牛乳のかわりにヨーグルトとチーズもたべはじめました。「牛乳はのこさずにのもう」「おやつたべるなら、チーズにしたら?」「お肉はのこさない。食べると大きくなれるよ」そんなことを、親がいつも言ってもききません。でも、おなじことをお医者さんが1回言えば、「そうか~」と6才のこどもでも納得するのです。
白衣をきて診察室にすわっている。ただそれだけで、これだけの威力を発することを、「標準治療」だけを宣伝するお医者さんたちは、考えてくださっているのでしょうか…。

<ステロイドの使用方法は、徹底可能か>
いつも、アトピーをかんがえていると、考えはここにまいもどってしまいます。
「標準治療」、やはり問題かかえすぎですと。
それは、皮膚科医がいうように、「塗りからをきちんと指導できない医師がいるからだ」で片づけられる問題なのでしょうか。
厚労省の統計では、2004年度、日本の医師数は約26万人、そのうち皮膚科医は7780人、小児科医14677人、つまり、アトピーのこどもにステロイドを処方する可能性のある医師は、2万人強、いるわけです。2万人の意志統一って、ほんとうにできるんでしょうか?
20人なら、ステロイドの使い方をきっりち指導できるかもしれません…。でも、2万人…アトピーの患者さんは、個人差も悪化要因も、まちまちなのにです。
さらに言えば、いつかご紹介したアレルギーの大家であらせられるという医師、スライドをつかってステロイド軟膏の使い方をきっちりレクチャーされていましたが、ご自分の患者にすら「この患者さん、ステロイドつかいこなせるんでしょうか? 知的障害ありそうですから」などとおっしゃっているわけです。つまり…。「きっちり指導された/する立場にある」医師ですら、患者の薬の使い方を制御するのは不可能だと自ら告白しているわけです。
なのに、「ステロイドはきっちり使えばこわくない」なんて、どうして宣言できるのか…。

<自分のことを、自分できめる>
もうひとつ…医師が、患者を「自分のいうことをきくべき存在」とみなす態度は、どうなんでしょうか?
いま、ふっくん楽しそうです。毎日私に「かゆい!」とおこり、その私に「じっとしててよ!」と叱られながら、ステロイドをぬられる「アトピー客体」だったふっくんが、ステロイドをやめてから「う~ん、今日はどうしようかな~。ここはきれて痛いから、保湿しようかな。ここは、じくじくだから、マキロンにして、あとは、ぬらない」など、自分で肌の状態をたしかめつつ、自分できめようとしています。その結果がわるければ、ときには私にやつあたりもしますが、「こんどは、あーちゃんおすすめのにがり入り塩ためそうかな~」など、試行錯誤をしています。まさに、「アトピー主体」として自分の皮膚にかかわっています。たしかに、すごく回り道のような気がします。でも、彼がアトピー体質である以上、重要なステップのような気がするのです。
かりに、ステロイドがふっくんに有効であったにしろ、薬に依存的であったこれまでより、ずっと望ましい態度だとおもいます。このさき、ふっくんの肌状態がどうなるにしろ、私はやはり「ステロイドやめてよかった」という気持ちはかわらないと思います。


<患者の「試行錯誤」につきあう>
お医者さんは、もしかしたら、救世主/万能願望をもっていらっしゃる方がおおいのかもしれません。「先生、かゆいです」「ほら、これでなおりますよ」と断言して、患者をてばやく苦境からすくいたい、自分の意見をきけば楽になれると示したい…。でも、そうしたら、患者はいつまでたっても、医師にたよりきり…。
そいいった意味で、しーな先生は、理想的なメッセージをくださったと思います。かたくなに「佐藤健二先生療法」にこだわる私に、
「でも、ちょっとくらいなら保湿もためしてみたらどうですか? 抵抗あるなら、実験のつもりで塗る場所と塗らない場所をつくったり、なにをぬるか、配合をどうするか考えてみたり。この程度のアトピーなら、まだ大丈夫。アトピーは、季節によっても、個々の患者さんによっても、かなり違います。じっくり、なにをすると調子がいいのか、この程度のときにえらんでいくのがいいとおもいますよ」とおっしゃり、ふっくんにも「実験してみたら? もし、すごくひどくなっちゃったら、先生、ちゃんとそのときはみるからね」と言ってくださいました。
患者の疾病に気長につきあいつつも、専門家としていざというときのためにひかえていてくれる…。
理想的な態度だとおもいます。さらに、これはアフターケアに自信がないとでてこない台詞だとも思います。勉強している医師だからこそ、フォロー方法にもストックがあり、患者の試行錯誤につきあえる。しかし、地位や予算の獲得に熱心な医師は勉強するひまがない。だからこそステロイドをつかった「標準治療」で統一することに熱心なのかもしれません。マニュアルの存在は勉強不足をかくせますし、なにかあったときに「マニュアルに従っただけだ!」と責任転嫁もできます。
ちょっと厳しすぎるでしょうか…でも、「標準治療」をおしすすめようとする医師たちの存在は、ジョージ・リッツア『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、1999年)を思わせます。

<「マクドナルド化」する医療現場?>
リッツアさんは、マクドナルドの特徴を4つあげています。「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「制御」です。
以下、彼の主張をまとめてみます。

【効率性】「マクドナルド化した社会では、人びとが自分の目的を達成するために、最適の手段を追求することはめったにない。むしろ、人びとは、さまざまな社会状況においてすでに発見され制度化された最適手段を利用する」(p.71f.)
*欠点は、非合理性をうむこと
【計算可能性】
「ものごとを数えられること、計算できること、定量化できることが重視される」「過程について重視されるのは(通常高速の)スピードであるが、結果については、生産され客に提供される(通常大量の)商品の数が重視される」(p.106)
*欠点は、量の重要視が、質の低下をうみやすいこと
【予測可能性】
「合理化された社会は規律、秩序、システム化、形式化、ルーティン化、一貫性、組織的な操作といったものを重視する。そうした社会では、人びとはほとんどの場面や時間において何が期待できるかを知りたがる」(p.134)
*欠点は、個々人の知識や知恵が反映されにくいこと。
【制御】
「人間を管理するため、長い年月をかけて技術体系が開発され普及されてきた」(p.165)
*欠点は、個々人の判断より、機械の判断が優先される。

リッツアさんはこのマクドナルド化の図式にそって、医療の現状も考察しています。彼によれば、合理化の結果、「医師はそれぞれのケースに対する自分の医療判断に依拠するかわりに、規則や規定、上司の決定または技術上の指示に従って決定を行う傾向をしだいに強めて」(p.222)おり、患者の側は、「自分が医療の作業ラインに乗せられている商品のように」(p.222)感じさせられるといいます。

知人のひとりが、「こどもを皮膚科につれていったら、3分どころか、15秒診療だったよ。一瞥して、「アトピーか」って一言。あとは、看護師さんに「ステロイドの塗り方説明しながら、ぬってあげて」と声をかけ、パソコンにむかった処方箋書いておわり。私たちをちゃんと人としてみているのかしら!もう、医者かわりたい。でも、どの先生なら、ちゃんとこどもとむきあったくれるのか、わからないよ」と怒っていました。

まさに、リッツアさんの指摘どおりのことがおこっています。そして、この皮膚科医のとっている態度は、まさに「標準治療」にのっとったものです。
「標準治療」は、診療時間が短縮できます。どのくらいの薬剤が処方できて、どのくらいの収益があるか計算も可能になります。ここの患者さんでおもいなやまなくてもルーティンとして診療できます。「標準治療」にそっているから「ただしい」
なおらないのは、指示をまもらないあなたのせい」と患者さんを制御することもできます…。

いや、もちろん「標準治療」を推進される先生方が、「15秒診療」のお医者さんをふやそうとしているわけではないとおもいます。しかし、「標準治療」をうちだすこと自体が、こうした診療を可能にしていることもまた事実です。

そういう意味において、たしかにaccelerationさんがおっしゃるように、皮膚科のステロイドと精神科の向精神薬はにているかもしれません。向精神薬の投与もまた、「診療の合理化」を推進します。
「べてるの家」に登場する浦河赤十字病院のお医者さんたちは、患者さんにぶんぶんふりまわされながら、つきあっています。
それを「応援している」と表現しています(浮ヶ谷幸代『ケアと共同性の人類学ー北海道浦河赤十字病院精神科から地域へ』生活書院、2009年参照)。患者さんを「応援する」。「応援する」ピアを看護師が、応援する。「応援する」看護師を医師が「応援する」。「応援する」医師を、患者さんが「応援する」…。ぐるぐるまわる、ややこやしい、でも個人的な関係がはりめぐらされ、そのなかですったもんだしながら、生きています。今の社会から逆行しています。
しーな先生も、診療時間、2回にわけて20分。電話で30分…。「合理的」とはとうていいえません。でも、もしかしなくても、3年以上かよった「つかちに先生」より、たくさんしゃべっているように思います。
すくなくとも、つかちに先生は、ふっくんの食べ物の好き嫌いをしりませんが、しーな先生はしっています。
「標準治療」の推進は、ステロイドをつかうつかわない以外にも、いろんな問題をふくんでいるようにおもいます。

<脱線〜キューバのカフェ>
そういえば…キューバで、あるカフェに3日つづけていきました。
1日にめに「イタリアンサンド」をたのんで、すごくおいしかったんです。トマトとモッツァレラチーズにスライスした黒いオリーブがたっくさんのっかっていました。つけあわせは、山盛りのフライドポテト…。どうしても食べたくて、2日めにいって同じものをたのむと、チーズがエレメンタールっぽいものにかわっていました。オリーブはサンドウィッチのなかにはなく、つけあわせのレタスとそのうえにのっかたポテトサラダのまわりに、まるごと、ごろんごろんと、ころがっていました。3日目…こんどは、パンの種類がかわっていて、なかみも…とにかく、3日間とも同じだったのは、スライスされたトマトがはさんであるという一点のみ。
衝撃的でした。お店の人にきくと、「だって、つくる人がちがったり、材料の在庫がちがったりするでしょ。そんな同じもの、でないよ」と…。なんだか、きけばあたりまえ…。たしかに私がつくる料理も「おかーさん、同じもの2回でてきたことあるの?」とこどもたちにきかれるくらい、その日の冷蔵庫事情と私の気分に左右されてます…。
でも、お店では「同じもの」を要求する…。すっかり、マクドナルド化されてました…(笑)。


<きのうのふっくん>
クラスに5本指ソックスをはいている子がいて、ふっくん、あこがれています(笑)。
きのう、その5本指ソックスと絹のパジャマがとどきました。パジャマは大満足していました。ひっくんが「いいな~。でも、あれ高いんでしょ」というので、「あ~、言ってなかったっけ。一部不良で1000円ってのがあって、それ買ってみたんだよ。でもね~、あの5本指シルクソックスも、こども用がなかなかなくて、1000円だけど」「うわ~。しんじられん。ぼく、パジャマだけ買って」ともうしておりました(倹約家です(笑))。
ふっくんは、そんなことには無頓着。5本指ソックスも、「これ、指が1本ずつ離れてるし、しもやけにならなそう!」と大満足でした。
だから…写真も、「1000円のパジャマきてとる!」と…(笑)。
ポーズをきめるのに、日に日に時間がかかっています!(笑)

今日も、元気でした。今日は「流血した3カ所にマキロン」「かさかさの指に亜鉛華軟膏すくなめの保湿剤」「その他はなし」と自分できめてぬっていました。肌の状態自体は、きのとあまりかわりません…。

2010年11月29日月曜日

アトピー治療が「道徳的債務」になるとき…

2010年11月29日(月)
<アトピーに注目されるのが「重い」…>
昨日、ひさしぶりに実家にいきました。
おばあちゃん、ひとわたりみんなに声をかけると
「まぁ、きれいな顔になったね~。よかった」とふっくんのほうかがみこみました。
「うん…」と私はあいまいにこたえました。なんだか気が重い…。
「どれ、からだもみせて。どうなった?」とおばあちゃんはつづけます。
ふっくん、返事をしません。
おばあちゃんがさらに「みせてね。服めくっていい?」と声をかけても、返事をしません。
ひっくんが「だいじょうぶ、ふっくんの皮膚、すごいがんばってるから」と視線をあわせずにこたえます。
おばあちゃんは釈然としない様子でしたが、「ねーねー、おばーちゃん、お庭であそぼうよ~」と強引に手をひっぱるみっくんにつれられて、外にいってしまいました。
きのせいか、ほっとした空気が3人のあいだでながれました。


<「重さ」の理由>
おばちゃんが、ふっくんのことを真剣に心配してくれてるのはよくわかっています。
でも、なぜ、気がおもくなるのか…。保育園では、おむかえにきたおかあさん、おとうさんをつかまえて誰彼となく「ぼく、よくなったんだよ」とズボンのすそをめくってみせているふっくんが、なにゆえおばあちゃんには、みせたくないのか…。

 このあとたまたま、ふくむらしょうへいさんの原稿をよんでいて…「これか~!」としっくりくる引用がされていたので、孫引きしてみます。

「不便だから障害を補う工夫をする、というのは合理的なことだが、障害が克服可能であり、自分には能力があることを証明するために必要以上の犠牲を払って延々と克服努力を重ねるということになると、話は違ってくる。本来なら、障害を克服するために投入される努力は、不便が緩和される程度とのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはずだが、有能であることの証明作業という意味を帯びてしまうと、投入されるコストは歯止めを失う。そうなれば、事実上障害の克服を道徳的責務として受け入れたのと変わらない結果になる」(石川准「ディスアビリティの政治学─障害者運動から障害学へ」『社会学評論』50巻4号、2000年)

 「これのどこが??」とおもわれるでしょうか…。私には、この文章がこう読めたのです。
「不便(かゆみや痛み、見た目がたえがたい)だからアトピーの状態をよくする工夫をするというのは合理的なことだが、アトピーが克服可能であり、自分は完治するのだと証明するために必要以上の犠牲を払って延々と克服努力を重ねるということになると、話は違ってくる。本来なら、アトピーを克服するために投入される努力は、不便が緩和される程度とのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはずだが、有能であること(アトピーを完治させるための努力をおしまない態度)の証明作業という意味を帯びてしまうと、投入されるコストは歯止めを失う。そうなれば、事実上アトピーの克服を道徳的債務として受けいれたのと変わらない結果になる」

 おばあちゃんにふっくんのアトピーに関心をしめされるたびに私たちにながれる「重さ」の原因は、ここにあるような気がするのです。たしかにふっくんは、かゆみをつらがっています。しょっちゅう流血するのもうっとうしがっています。見た目だって気にしています。でも、あの人は「このくらいなら、ぜんぜん平気」と言う日もあります。彼なりにおりあえる「そこそこ」のラインをみつけ、アトピーをうけいれる体制をいっしょうけんめいつくっているのだとおもいます。


<「際限なく求める」ことのこわさ>
でも、おばあちゃんはそのふっくんのえらぼうとしている「そこそこ」をうけいれてくれないのではないか…。
「もっと、きれいな肌に」「本来、もっとかわいい子のはず」「まったくかゆみもなく、ひっかきキズもないすべすべお肌に」と、要求がどこまでもとんできそうです。そして、「もっとなんとかしようとしない、親であるあなたに責任があるのよ」、「アトピーをなおすために投入できるコストはおしむな」とつめよられそうな気配があるのです。
たぶん、わたしたちは、おそらく幼いみっくんも含めて、そんなおばあちゃんの視線をかんじとっています。だから、おばあちゃんがふっくんのアトピーを話題にしはじめると、なにげなくかわそうとする…。うちの母も、いつかご紹介した、孫のためにアトピービジネスにはまった友人の母と同じ心理なのかもしれません。

でも、これってこわいことだとおもうのです。ふくむらさんは、この引用といっしょにこんな文章も紹介しています。

「ここには『未来』がかかわっている。損得があらかじめはっきりしていれば、それはそれですっきりする。だがうまくいくかどうかわからない。しかし可能性はあるのだから、やってしまう。そして後になっても結局それが効いたのかどうか、何が効いたのか、はっきりしないこともある。…『うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。どうしますか』と言う。それで本人は考えて、『ではよろしくお願いします』と言ったりする。となるとこれは本人が決めたのであり、相手の責任は問われない。これからどうなるだろうという不安をみずから引き受けなくてはならない。
 このうっとおしさはかなりのものだと思う。しかしなかなかきれいさっぱりあきらめきれない。もしかするとうまくいくかもしれない。おかげでうまくいったと思われるような例がたいていいくらかはあり、その療法やそれを施す人の信奉者がいる。可能性はゼロではない。だからやってみる。コストはふくらんでいくが、それだけコストをかけたこと自体が、もう少し努力すればなんとかなるかもしれないという駆動力を与えることもある。(立岩真也「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』有斐閣、2001年、p.185)

 アトピービジネスにはまっていく心理と、まさにぴったり重なるのではないでしょうか…。

<「善意」の第三者>
そうした意味では…朝日新聞の「子どものアトピー」に登場する大矢医師がなやめるおかあさんにむけた「アトピーは努力がむくわれる病気です」
という言葉や、「継続したスキンケアや掃除などの環境整備は、お子さんの肌をつるつるに保つための出発点です」という言葉は、残酷だとおもいました。
 
 これは、おかあさんをおいこみます。
「じゃー、よくならないのは、私の努力がいたらないから?」とこの記事よんで涙したおかあさんは、ひとりじゃないとおもいます。この新聞に登場したおかあさんだって、「いままでした努力はまちがっていたから、いけなかったんだ」と自分をせめ、「だからこそ、ただしい努力をしなければ」とますますおいつめられるような気もします(やっと「ただしい」方向で努力できると喜んだともおもいますが…)。
 「母親としてのあなたの努力がたりないから」「努力の方向がまちがっている」とせめられた方もいらっしゃるかもしれません。まさに、医者から、実母から、ずっと私が言われつづけた言葉です…。

 この大矢医師にも、私の母にも、わるぎなんかないのはわかっています。「善意」の、でも、「第三者」なんです。アトピーとつきあわざるをえない「第一者」でも、その「第一者」と日常的にかかわる「第二者」でもないのです…。
だから…ハッキリ言って、この「善意の第三者」は、「無責任でいられる第三者」と同義です(ごめん、おばーちゃん!)。
 
<「あきらめる」からひろがる毎日>
 浜田寿美男(『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社、2005年、p.88 )さんは、こんなことを言っています。
「高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません」
 わたしには、「アトピーの完治」とは、「高すぎる不可視のハードル」におもえます。「そこそこの状態をたもてればいい」という「断念」「あきらめ」は、重要だとおもいます。
 わたしは、ふっくんが笑っていてくれるなら、かゆみにじゃまされず集中してなにかにとりくめているのなら(ふっくんは、3人のなかでいちばん工作など集中してする作業が大好きなのです)、かさかさだっていいし、ひっかきキズなんてあってもいいなと、おもえるようになりました。
「かさかさ」の皮膚が、人間関係を円滑にするネタになったり、親近感のみなもとになったりすることだってあるとおもうのです。
(たとえば、ダンくんは、私のかかとをみて「90のばーさんかよ」と笑うけど、でもそうやってネタを提供してさしあげているとおもえば、まーどうということもないです(笑)。でも…90才の方に失礼な表現ですよね。谷崎潤一郎のおくさん、松子婦人なんかたぶん、90才になっても、ふんわりかかとのような気がします…)。
 でも…「アトピーをすこしでもよく」とおもっているかぎり、私たちはアトピーにとらわれます。人生がアトピーに支配されかねません…。「皮膚かさかさだね」という誰かの一言が「ネタ」になるか、「欠点の指摘」とうけとるかでは、人間関係はかなり変化してしまうでしょうし…。
(私にしても…「人の足のかかとフェチ」でいるぶんには、なんの支障もありませんが、自分の足を「つるふわかかと」にしようとしだしたら…ブログなんて書いているひまがなくなるかも(笑)←かかとねたしつこい(爆)なお、私の身体的コンプレックスは、べつにかかとだけというわけではありません…)。
「そこそこで」とおもうことができれば、ほかにやりたいこと、できることがたくさん見つかる気もします。ノブコフさんも以前のコメントで、おなじようなこと、書いてくださいました。
「あきらめる」って、その線引きがむずかしいけれど、でも、重要だとおもいます。


そうそう、余談ですが…
<「なまえ」へのこだわり>
先日、ひっくんが「おかーさん、アスペってほかによびかたないの?」ときいてきました。
「えっ?いとちゃんは、高機能自閉症でも好きなほうでいいっていってたよ」
「かっこわる~。ほかには」
「広汎性発達障害?」
「なに、それ。ほかは」
「それの頭文字版、PDD」
「ださ~」
「じゃー、自閉症スペクトラム」
「もういい! アスペルガーがまだ、ましだな。それにしよう!」
すると、ふっくんも「じゃー、アトピーは?」とききます。
「皮膚炎? 湿疹? う~ん、なにかな~」とうなっていたら
「もう、おかあさん、しらないのかよ~。ぼくも、アトピーでいいや。じゃー、みっくんはなにかな~、かたかなの「ア」ではじまる病気なんかないの?」
「え~、アルツハイマー? でも、それこどもはなんないんだよね~、おもいつかないよ!」
「つまんないよ~」
「じゃー、アーデーでどう?」
「なにそれ?」
「別名ADHDのドイツ語よみの短縮形~」
「あ~。ADHDね、うん、みっくんそれっぽいじゃん。それでいこう!」とひっくん。
「なにかしってんの?」
「うちにある本にかいてあったよ。じっとしてられないとか、とつぜんなにかしはじめたりするとか、気になると後先考えずにやっちゃう…とかでしょ」
「まー」
「じゃー、それでいいじゃん!みっくんにぴったり!」とふっくん。
「これで、きまりだ~。アスペ、アトピー、アーデーきょうだい!」すごい、のりのりでした…意味不明…(爆)。おもしろかったですが…。
でも、かんがえてみれば、こうしてあの人たちは、自分の属性のひとつとして、アスペルガーやアトピーをうけいれる作業をしているのかもしれません。私は「障害は個性だ」説は、うさんくさくてちょっといやなかんじがしています。
でも、属性のひとつとして受け入れることは、大切だとおもっています。

*なお、「障害は個性だ」と当事者の方が主張される場合には、それなりの理由があるとおももうのです。でも、研究者や医療関係者などの「第三者」がそう主張するのは、「障害」をもつ人が快適にくらせるような環境整備に力をそそがない/そそげない現実へのいいわけのような気がして、ちょっと…。

<きのうのふっくん>
あんまり、よくなってはないかも…。でも、じくじくはなしです。
おふろあがりは、「マキロンぬる~。あれがいちばん、いいかんじ」と強く主張。というわけで、左足のすねのみ、マキロン。ほかはなにもなしでねました。

今日のポーズ!おふろあがりです。

2010年11月27日土曜日

つらいから理論化したい…

2010年11月27日(土)
<まずは、自分に説明したい>
「なんか、すごい量かいてるけど、だいじょうぶ?」と心配してメールをくれる知人がいます。
「たしかに…。逃避かも…」と思いつつも、「書かずには、いられない日がおおいんだよね。これからは、ちょっとまどおにするから…」なんて、おもっていたら、
「ブログみました。くるしいから理論化したいと書いたベル・フックスをおもいだしました」とのメールが知人からとどきました。
ベル・フックス!!! わたしには、かっこよすぎます!

「つらくてならなかったから、わたしは理論に向かった。(中略)分かりたかったのだ。自分のまわりで、そして自分の中で、いったい何がおこっているのかを知りたかったのだ」
(ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを』新水社、2006 年、p.72)
知人が思いをはせてくださったのはこの部分でしょうか…。

ベル・フックスがこの言葉を書いたのは、貧困家庭のアフリカンアメリカンの少女だった時代を回想してのことです。
わたしがいまいる位置は、むろん、彼女よりずっと楽な場所です。が…わたしにとってもこの言葉はやはり真実です。

ある日、ふとステロイドをうたがって、あふれる情報の翻弄され、どうしていいかわからなかった。
ふっくんにもうしわけなくて、自分自身がなにを選択すればいいのかわからなくて、だから、とにかく書き留めておこうと思いました。
もしかしたら、いつかステロイドに疑問をもった人が、私を追試できるように。
「この人、ここで選択まちがえたんじゃないか」とか、「こう悩んでこうしたのか…なら私もやってみようか」とか、そんなふうに検証できる足跡をのこしておこうと思いました(いえいえ、人のためなんかじゃない…私があとで検証できるようにです)。

でも、それ以上に、自分がとにかく納得のいく説明がほしかったとも思います。
このブログを書いていなければ、そこからあーちゃん、山下さん、こうめさん…とつながりがひろがっていかなければ、私は、なにをしたらいいかわからず、孤独で、余裕がなく、だからこそ孤独な戦いを強いられ、ふっくんをおいつめていたとおもいます。

「ベル・フックスをおもいだした」なんて書いてくださって、ありがとうございます。
すごく勇気づけられました。

ブログよんだけど…
<「科学」って、けっきょくなに?>
というメールももらってしまいました。
すみません、それ結局かきませんでした。でも、わからないんです…(おいおい)。

そいうえば、埴谷雄高が『死霊』のなかで、「「私とはなにか」と考えるからわからなくなる。「なにが、私か」を考えろ」といったことを書いていました。高校生の私は「おお!埴谷雄高、あたまいい!]
と感動したのを覚えています。
でも、最後まで「なにが私か」についても、結論はみなかったように思いますが…(埴谷雄高の『死霊』は好きでしたが、その後、彼が自分の妻に「人間の自由意志でできることは自殺と子どもを産まぬこと」と4回も中絶させた話を読んで、「妻に中絶させるまえに、だったら自分がパイプカットなりなんなり避妊を考えなさいよ!」といっきに熱がさめ…)。

でも実際、「私とはなにか」とかんがえることと、「なにが私か」を問うことは、でてくるこたえはかなりずれがあるのは確かです。でも、拡散する問いである「私とはなにか」よりも、収束する問いである「なにが私か」のほうが、その周辺事情は、やはり整理しやすいことはたしかです。
そうした意味で…あのブログは、私にとって、あらためて「科学」をとりまく周辺事情を整理するのに役立ちました。
たとえば、深谷先生が紹介している今回のお金のながれの話は、あまりにえくぐて、これだけよんだら、深谷先生が勘違いしているのではとおもいたくなりますが、まさに、「ジャーナル共同体」の④でしめした「予算と地位の獲得」の話と同じです…。
ため息ものです…。お金はながれだすと道ができますから…。
(あっ!だから「科学なんて」とおとしめようとしているわけではありません。ただ「科学だから」と無批判にうけいれるのはやめましょうとよびかけたくはありました)

<きょうのふっくん>
なんだか、熱もないのに、お昼すぎから夕飯もたべずに夜まで爆睡していました。つかれてるんだな〜と。
みっくん・ひっくんがねるときにおきてきて、「おなかすいた〜」とおにぎりをたべ、またねてしまいました。
今日は、アイスノンも準備しません…。ひたすらねむいのか、きょうはあまりかゆくないのか…。

おかげさまで、皮膚状態は、すこしもちなおしてきたんです。
膝下もじくじく化を心配しましたが、意外にもあっさり薄皮がはりました。(マキロンのおかげか!?)
(こうなると、やはり保湿しないほうが、調子がいい気も…。ただし、私は手がきれいになったとおもっていたのに、ダンくんに「あんた、手になんかぬったら? かさかさやん」と言われてしまいました!! 私のかさかさ閾値、相当さがっている模様です(爆))

そうそう、じつは、きのう保育園でともだちとけんかして、顔におおきなひっかき傷をこしらえてかえってきました。
「ほっておく」といったのですが、ちょっとふかめにえぐれているので、赤くなったらすぐはがそうとキズパワーパッド、はってみました。
おかげさまで、今回、かぶれてません…。(ほっ)

おやすみなさい。

2010年11月26日金曜日

標準「外」治療

2010年11月26日(金)
<標準「外」治療>
さてさて、おー先生は、この血液検査の結果をわたしてくれるときに
「べつに、正常だよ。この結果から、そのお医者さんなにをよみとるっていうのかな~。でも、まーいいや、とにかく、わたしとくね」と言っていました。そのあと…
「この血液検査やるって、どんな病気の子どもがわからんくて、苦労したんだよ。もう、すごいへんな病名だけど、そうしとかんと自費診療になっちゃうから、つけといたからね」とも。
確かに…。(ちなみに、昨日は再診料70点と管理料52点だけでした)。
栄養素でアトピーを制御しようとするしーな先生も「処方できる薬がね~。おとななら胃薬に亜鉛がたくさんはいってるのがあるから、それだすけど、こどもに「胃潰瘍」なんて病名、つけれないしね~。サプリかってもらうしかないわね~」と言っていました。
「標準外治療」は、医者をなやませますね。

そうそう、知人から「ステロイドつかわないとして、どうできるのかな~。うちの子は、「かゆいのはいやだから、ぜったい何かはぬりたい」っていってるんだけど」と聞かれました。
ふっくんも、ほんとはぬりたがっています。そりゃ、かゆいのいやだもんね~。
というわけで、「しろうと療法だよ」とことわって「マキロンと食塩水」の話をしました。
「そんなん、どこの家にもあるじゃん。こどもやるかな~。でも、言ってみよ~」と笑っていました。
やはり、人間「なにかできる」ことがあるとほっとしますよね。
ほんとは、ほんとは、皮膚科のおえらい先生たちも、「ほかにあるなら、ステロイドやめるよ!でも、いま、患者さんにほかになにができるっていうんだよ!」的なところで、「標準治療」推進しているだけかも…。
でも…きくのは人によっても、場所によってもちがいます。
こんど、ふっくんをみていて、ほんとにそう思いました。ワセリン+亜鉛華軟膏がぴたっとはまった場所とそうでないところがありましたから…。
お医者さんも「個々の患者と一緒に試行錯誤するのが、標準治療」「いっとき悪化したぐらいで、さわぐな! つぎ、ためすぞ」ぐらいにひらきなおってくださると、ありがたいですね。漫然とステロイドの強度をあげつづけるのだけは…(涙)。

<血液検査結果説明>
しーな先生…貴重な昼食の時間を30分もさいて、わたしに検査結果の説明とふっくんの症状についての質問をしてくださいました…。いまどき、ありえん…。しかも、「緊急のときは、病院に電話してくれれば、看護師さんが私に連絡してくれますから」とまで…。
「いえ、そんなひどくなりませんから、大丈夫です!」とつい断言。
だって…個人的にはうれしいですが、職業としてしんどいですよ…やはり。
貴重な休み時間は、しっかりとらないと。
患者さんに笑顔をふりむける余裕がなくなっても、こまりますから(と、私にえらそうにいわれたくないでしょうが…)。


さて、その結果ですが、おー先生のいうとおり、基本的には「基準範囲」におさまっています。
が…たとえば、ふっくんは…
【タンパク質不足】 
血清総蛋白が6.4と低めなのですが、それとともにγ-GTPが7と低めです。このγ-GTPは、タンパク質代謝と関係があるそうで、これが低いということは「タンパク質不足」がかんがえられるそうです。ただでさえ成長期にタンパク質は必要であるが、肌もタンパク質が主要成分であるため、とくにたくさん必要で、おとなの必要量の2倍はとったほうがいいとのこと。
ふっくんの場合だと、一日40g。これをとるのに、たとえば肉の赤みだとタンパク質はその2割だから〜と、たまご、チーズ、さかな…さまざまな食べ物とそのタンパク質のわりあいを説明してくれました。

【鉄の不足】
クレアチニンが0.28だが、これは筋肉をつくるときに必要なものだがたりていないということは、ほかにまわされている可能性が高い。実際にフェリチン精密が15.2、MCV81.4とともに低めだということは、貧血とまではいわないが鉄がたりていないであろう。この鉄剤は院内で処方できるが、かなりまずいと評判なので、サプリを買ってその必要量を相談してくれてもいいとのこと。

【亜鉛不足】
亜鉛は、69であきらかに低めなので、摂取したほうがいい。これも、胃薬をこどもにだせないので、サプリを買ってほしい。

【ビタミンB群】
GOT 35、GPT 18と、すこし差がめだつ。同じくらいの値のことがおおいから。原因として、検査の2〜3日前に急にはげしい運動などをするとGOTがあがることもあるが、もしこころあたりがないならば、ビタミンB群の欠乏により GPTのほうが下がっている可能性もある。

とのことでした。とにかくタンパク質がたりてくれば、皮膚の防御能力はたかまるはずだから、数ヶ月かかるが、がんばりましょうといってくれました。
結局、「これから、どうする?」という話になり…。私の地域で栄養療法をしている病院への紹介状を書きましょうかともいっていただきましたが…。
私としては、もうこれ以上、あちこちの医者にふっくんをひっぱりまわしたくはない。
とりあえず、サプリを自分で購入して、のんでどうなるのか、その様子をしーな先生と話した上できめたいと、しーな先生への再受診をきめました。
(もっとも…3人のなかで、いまのところふっくんがいちばん成長がおそいのはたしかです。かゆくて夜眠れないからか(でも、みにいくと爆睡しているようですが)とおもっていましたが、栄養素が皮膚バリヤー機能にもっていかれて、でも成長しないといけないから、結局、皮膚の防御機能も成長も中途半端になっているのではないかと言われれば、そんな気もしてきます。「サプリね~」という気もちらっとしないわけではないですが、一度ぐらいためしてみても…ぐらいで、ネットで注文してみました。

そうそう…ちゃんと「あれから、皮膚状態はどうか?」とも聞いてくれました。

<保湿剤の効果について>
横にはしる傷はなおったものの、全体的に赤い発疹が増え、とくに足のすねの部分は悪化している旨をつたえると「ワセリンと亜鉛華軟膏の配合がよくなかったかも」といわれました。
とにかく、いたがったらやめる、うちにワセリンと亜鉛華軟膏があるなら、それを適当にまぜてみて、よい比率をさぐりながらつかうことをすすめられました。
いまはワセリンはしめりすぎて発疹ができやすそうだし、反対にこの季節は亜鉛華軟膏単独ではひびわれる危険があるから、やめてほしいとのこと。
割合をかえながらためしぬりしつつ、かゆくなくなったらやめて、をくりかえしているうちに、皮膚も丈夫になってきます。とのことでした。

【アレルギーではない】
おそらく、前回みたかんじと、今回の話から、ふっくんは現在、アレルギーではないとおもうと。
これまでの経過で、皮膚がうすくなってやぶれやすくなったところを、引っ掻いて傷がおおきくなり、かさぶたになり、またひっかいての繰り返しだとおもうので、保湿剤はとりあえずつかったほうがいいとのことでした。

もう、ここまでの話で30分以上…。先生、すみません。
とてもじゃないですか、「依存」とか「リバウンド」について、つっこめる状態ではありませんでした…。
こんど受診したときにもちこそう…。

<きのうのふっくん>
さて、ふっくんついに、すねの「コンフレーク」を全部はがしてしまい、流血事件。食塩水どころではなく…。おふろあがりに、今日はマキロンためしてみました。湿潤療法を知って以来、皮膚に消毒液をつけるのははじめてです…。いたくもなんともないとのこと。
「包帯は暑いからいやだ!」というので、パジャマのうらがわにナプキン、はってみました。
本人、パジャマの上から足をおさえて「ふわふわしてきもちい~」とうれしそう。
でもこれ…保育園にははっていけないな~。きっとあそんでいるあいだに、ズボンからはがれておちる…。園庭におちているナプキンみたら…おとなはぎょっとしますよね(爆)。
(というわけで、朝、登園前には、ガーゼと包帯にかえました。)

ほかは…「今日は、なんもぬらな〜い」というので…あんなにしーな先生に「ぬれ」といわれたのに、保湿剤ぬってません。こまったな~。でも、まっ、いいや。ふっくんがきめれば。それに、いまの季節、かさかさして当然だし…。(そういえば!いつのまにか、私の手は「ふつう」にもどりました。なにもぬってなかったのに! かさかさ期間約2週間…。やっぱり、皮膚は第三の脳か!? かかとはぬっています。おかげで、ささくれはなくなり、「ふつー」のかちかちかかとです)

肘の内側のあかぎれ状のキズはなおりましたが、ぶつぶつができました…

あーちゃんに「ポーズをたのしみにしている!」とかいてもらったので、「よし!今日も写真とる! どんなふうにしようかな~。うん、ちょっと手のぶつぶつもひどくなってきたから、うつるようにしてみよう」など、いろいろためし…。
「はい!おかーさん、いまとって!」といわれてとったのが、これです(笑)。肘の内側のぶつぶつ、みえるでしょうか…(笑)。

そうそう!! ひとつわすれてました、今山先生の独自方法。
「おふろからでたら、身体はふくな!」だそうです。おふろのなかで息子たちにいったら、興味津々、「じゃー、どうするの?」「そのままワセリンぬるらしいよ。ひびわれたところにすっとながれて、ほかのところはすべりおちていくんだって」
「ひえ〜」と歓声。
「夏はいいけど、それ、冬はさむいよね。でも、夏にワセリンいるか?」と、しごくまっとうな意見を披露するひっくん…(爆)。(いや、冬でも、ちゃんとあたためた部屋でやれば問題ないのだとおもいますが、うち、さむいので…)




2010年11月25日木曜日

なにが「科学」とされているのか-「社会問題」として提起するために(つづき)-

2010年11月25日(木)
<「社会問題」として提起するための「戦略」>
ちょっと気持ちが萎えていましたが、「社会問題」として提起するための「戦略」について…。
まず、先に私の結論をのべると、「真実は一つだ争いをしない」「標準治療を認めた上で、『正規分布のはしっこの人に注目しよう』キャンペーンをはる」「患者側からみた医師の治療方針への評価をつたえていく」ことだと思います。
「そんだけかよ~」でしょうか。ごめんなさい。でもなんだか、おおくのブログで、お医者さんたちのあげる声で、「そっちがおかしい!」というような「イデオロギー闘争」になっているような…。それはちょっと悲しい…それに、その態度は「非科学的」のような気も…。なので、具体的に藤垣先生にまなびませんか?(って、一面識もありませんが(笑))。

<「科学」と認知される要因はなにか>
 さて、私はときどき「医学」は「科学」とはいえない側面があると書いてきました。
では、「科学」とはなんでしょうか。
「え~っ。ノーベル賞(化学・物理・生理・医学など)をとったのは、まちがいなく「科学」だよね」という声があがるでしょうか。そう、おそらくそれらは「科学」と世界的に認められる発見・研究です。では…ノーベル賞の選考基準はなにか…これは「50年後に公表!」とされていますが、これまではだいたい「業績」がある人が選ばれています。つまり…「業績」があると「科学」とみとめられるということです。では、その「業績」は、どのように決まるのでしょう。
 藤垣裕子(『専門知と公共性-科学技術社会論の構築へ向けて』東京大学出版会、2003年)さんは、「ジャーナル共同体」という概念をつかって、これを説明しています。
①「科学者の業績は主に、専門誌に印刷され、公刊(publish)されることによって評価される」(p.16)
②「科学者によって生産された知識は、信頼ある専門誌に掲載承諾(accept)されることによって、その正しさが保障される(妥当性保証)」(p.17)
③「科学者の後継者の育成は、まずこの種の専門誌に掲載承諾される論文を作成する教育をすることからはじまる(後進育成・教育)」(p.17)
④「科学者の次の予算獲得と地位獲得(研究予算、研究人員、研究環境等社会的側面の獲得)は、主にこのジャーナル共同体に掲載承諾された論文の記された業績リストをもとに行われる(次の社会的研究環境の基礎)」(p.17)

つまり…簡略化すれば「科学」と認められるためには、「その道の専門家」が集まる専門誌、学会誌に論文を投稿し、その「正しさ」を保証してもらう必要があるということです。

<専門誌に認められる論文とはなにか>
 問題は、ここです。専門誌に投稿したことがある方には自明なことかもしれませんが…専門誌、学会誌には、藤垣さんが書かれているように、それぞれスタイルがあり、それを踏襲していないと掲載されません。藤垣さんも(p.24)、査読者のプライベートな領域に侵入すると、敵意あるコメントにさらされたり、同じ内容の論文でも著名な大学に所属するものだと採択され、そうでない場合は不採用になるなどのケースを、実際の実験結果をまじえて報告しています。
 なぜ、深谷先生の紹介するステロイド依存系の論文は、海外ものがめだつのか、なぜ玉置先生が脱ステロイドについて書いた論文は「あいまい」な書き方がなされているのか…その理由は、もしかしたら、日本の皮膚科やアレルギー科が「専門誌」と認定している学会誌の査読者たちが、ステロイド批判系の論文を査読の段階でおとしている可能性もあります(あくまで、私の推測です。すみません、実際に各学会誌にあたってカラーを検討する余裕がありません…でも、ちょっといまの仕事が一段落したらやってみようかしら…)。
 
<それでも、専門誌はただしい!?>
「いや、そんなことはない。専門誌は科学を追究しているはずだ。妥当性がみとめられれば、学会の意向と異なっても掲載するはずだ」と思われるでしょうか…。でも、まったく新しい発見であればともかく、これまでの知見に横やりをいれるような論文はスルーされやすい、もしくは酷評をうけると思います。

【統計結果は科学的か?】
そもそも、統計結果の読み方はかなり恣意的に操作できます。結果分析はSPSSなどで、だれでも簡単にできるようになりましたが、その結果を読み解くのは、研究者個人(もしくはチーム)です。その読み方の妥当性を判断するのは査読者たちです。たとえば、深谷先生がしめされた古江先生のつくった「標準治療成績一覧表」は、誰がつくってもほぼ同じものができます。
(むろん、なにを「非常に悪い」とし、「軽い」とするかの「線引き」が共有されていることが前提です。おそらく、この「線引き」も流動的である可能性は高いと思いますが、これに関してはおそらく皮膚科医であれば経験的にも共有可能な「線引き」を採用しているのでは…と思います)
問題は、「コントロール不良群」とする「線引き」の「妥当性」です。深谷先生が「なにをもって良好とするか」の条件を変更すると「線引き」の位置がどんどんずれていくことを示されているように、この「線引き」は「絶対唯一」のものでも「不変」なものでもありません。おそらく、ステロイドによる標準治療を推奨している日本皮膚科学会のジャーナルに投稿するならば、古江先生の「線引き」は問題なくうけいれられても、深谷先生の「線引き」は「妥当性なし」として却下されると思います。
つまり、「表」はただの表ですが、その読み取りには「人為」がはいりこみます。表はまず提供者の解釈を読む前に、自分で意味を考えるほうが安全です。また…余談ですが、一般的に社会調査については、質問文をつくる段階で回答を誘導することが可能です。「アンケート調査」等の結果をよむときは、質問紙を参照するとだまされにくくなります。(谷岡一郎『データはうそをつく-科学的な社会調査の方法』(筑摩書房、2007年)が、わかりやすいです。そのほか…調査データの読みまちがいによる「言説」のおかしさを指摘する本はたくさんありますが…鮎川潤『少年犯罪―ほんとうに多発化・凶悪化しているのか』(平凡社、2001年)や、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか-「教育する家族」のゆくえ』(講談社、1999年)など、おすすめです)

【変化する「妥当性」】
なお…すでにおわかりだと思いますが、この「妥当性」もまた流動的なものです。
藤垣さんは、精神診断基準に関する論文の分布図を作成することで、「『妥当性境界』は不変ではなく、毎号毎号の編集における査読者の判断の積み重ねを経て、時々刻々書き換えられていく」(p.60)ことを実証しています。
つまり…査読者が変化すれば、「妥当性境界」は変化します。が…医学の世界はかなり徒弟的・閉鎖的です。「アンチ主流」「アウトロー」な研究者が査読者に選ばれる可能性は、医学界においえては極端に低いのではないでしょうか…。

いやいや、それでも…
<「良心的な科学的医師」はいるはずだ>
私もそう思います。が…あらたに、おそらくこのステロイドによる標準治療を解明しようとする若手研究者がいたとして、それを解明するためには、時間がかかります。(おそらく、良心的であればあるほど、現在批判にさらされている脱ステ医の臨床知見をうたがってかかることからはじめるでしょうし…)。
「科学者の責任感の多くは、ジャーナル共同体における精確さを維持することに費やされているのである。そして、市民あるいは公共(public)にとって『不信』とみえたものが、実はジャーナル共同体に対する『忠誠』であることが少なからずある」(p.26)
と、藤垣さんは書きます。「ステロイド依存性皮膚症」というものの存在の有無を確認するには、おそらく百人単位のアトピー患者さんに接し、その追跡調査をする必要があります。まてません…。
藤垣さんは、こうも書きます。
「多様な利害関係者で構成される『公共空間』において、それらの共治(ガバナンス)によって問題を解決し、意志決定をすることが求められている」(p.79)にもかかわらず…「科学的知識、工学的知識はこれまで、社会的意思決定の正統性の提供者という役割も果たしてきた。しかし、現代では、科学者にも答えを出せない問題、技術者にも答えを出せない問題だが、意思決定を行わねばならないことが増えてきている」(p.80)そうだと思います。

【水俣病認定がながびいた理由】
藤垣さんは、水俣病を例にあげています(以下、p.54要約)。水俣病は1956年に最初の患者が発見されますが、その後、数々の説が考えられ、有機水銀が原因物質と特定されてからもその生成メカニズムが明かにされるまでに45年が経過したそうです。これは、科学者としては妥当な立場であっても、公共性の観点からは非常にマイナスだったとおもいます。この45年のあいだに、水俣病患者は増え続けたからです。「あれは、原因物質の解明をまたずに、厚生省にはたらきかけて「食中毒だ」と先に定義してしまえばよかった。魚を食べて中毒が発生しているのはわかっていたからだ」と書かれた本がありました(出典が思い出せません。ごめんなさい!)。たしかに…最初の患者がでた時点で、魚をたべるのをストップしていたら(でも、漁師町ですから、その後の保証問題もありますが…)、工場の排水をやめていたら(でも、工場も経営難になるんですね…う~ん)、「公害」という規模にはならなかったのかもしれません。
 藤垣さんは、こうした現象があるからこそ、これまで「科学的合理性」にたよってきたが科学だけにたよらない「社会的合理性」が必要では…とのべます(これは、本書をつらぬくテーマであるのですが)。

<「科学」だけに頼るとこわい…>
の一つに藤垣さんは、こんなことを書いています。
政策立案者が科学知識に対して抱く過大な期待(p.67要約)
 ①確かさの幻想(判定されること以上に自信をもちやすいこと)
 ②疑似確信の幻想(ある側面における確かさを他のすべてに適用可能と過剰な自信をもつこと)
③「絶対的」真理への幻想(証拠の真実性に対して、過剰な確信に至らせること)
④応用可能性の幻想(一つの結論を一般化すること)

つまり…「科学的合理性」にたよってしまうことは、行政を誤らせることになると危惧しているのです。

【科学的真理とは、一つなのか】
先にのべたように、科学的とされるための「妥当性」に「絶対基準がない」からでもありますが…。もうひとつ重要なことは…。科学が「ジャーナル共同体」にささえられている以上、「ジャーナル共同体」ごとに「真理」とされているものがあるという現実です。この「ジャーナル共同体」は同じ領域内でも複数あるうえに、領域が重なる部分にものりいれています。ある「ジャーナル共同体」が「真理」としたことと、他の「ジャーナル共同体」が「真理」と定めたことは、かならずしも同じではありません。
(たとえば、ステロイド依存に関する論文を掲載するジャーナルと、それを拒否するジャーナルでは、「真理」がことなるようにです)。
藤垣さんは、ここを指摘したいがために「ジャーナル共同体」という概念を提示したそうです。「ジャーナル共同体」に基づけば、「科学の一枚岩観を批判することができる」(p.43)と。藤垣さんの言葉をかりれば、「『科学的』と呼ばれるものに実は多様性があ」り、「現象として分野ごとに妥当性の境界は異なっている」のです。
私たちは、「一方に理念系(科学は一つであり、科学的とそうでないものとを区別する境界は一つである)があり、もう一方に現実系(科学は分野の妥当性境界によって異なる)がある」(p.45 )社会にいきています。
そして、私たちは「このコンフリクトを解消するために、まず妥当性境界が分野によって異なる現象を憂い、『科学は一つ』という立場にたって、『科学的』概念の多様性をできるだけ排除し、一つに定まるようにしようとする立場」をとるか、「それに対し、『理念』のほうを現実(妥当性境界は分野によって異なる)にあわせて書き換えよう、とする立場」(p.45)に立つか、せまられます。
そして、藤垣さんは後者の立場をとります。私もまた、藤垣さんの判断はただしいと思います。

「だから、『ステロイドによる標準治療』の話はどうなるの?」と思われているでしょうか…。

<「順応管理」でどうでしょう>
藤垣さんは、こう結論づけます。「科学的知見は今まさに作られつつあり、書き換えられる知識である。したがって科学的合理性も社会的合理性も変化しうる。我々は、この変化しうる性質を組み込んだシステム作りを考える必要がある。ここで必要なのは、科学者集団の生産する知識だけで(つまり科学的合理性だけで)科学的判断(judge)ができる、という立場から離れ」、「『一度定めた基準』を科学的判断(judge)による確実で厳密な『硬い』基準とせずに、いつでも見直しができるようにして、利害関係の異なるひと(地域住民もふくむ)たちによる話し合いによる合意形成を続けていこう、という」(p.215)柔軟性が重要だと。
この結論の一つの具体例に「順応管理」をあげています。「現在科学者集団の保証できる知見には限界があることを認め、それでは決定できないことを『暫定的』に決めておいて、のちに微調整を繰り返す」(p.213)という方法で、江戸時代の河川管理の「見試し」という制度の応用だそうです。
う~ん、「皮膚科学会」がいまさら「アトピー性皮膚炎に対し、ステロイド治療で保証できる知見には限界がある」とは認めないでしょうというつっこみがはいるかもしれませんが…。でも、「いや、あなたたちはまちがっていませんよ。でも、ほら、この正規分布のはしっこにいる患者さんをみてください。この人たちには効かないという例外性に対して、もうすこし大きな声で語らせてください」という申し入れならば、ききいれてくれるかもしれません。

【正攻法でなくても…】
「社会的合意」を形成するために、「患者さん当事者の声」というのももっと大きく喧伝される必要があります。「脱ステした患者さんのライフヒストリー研究」なんか、いいかもしれません。アトピー患者であり、脱ステを選択した人であり…「複合差別」の当事者としても、豊かなライフヒストリーになることはまちがいないとおもいます。
ブログはたくさんあるし、協力してくれる方は、意外におおいのではないでしょうか…。
(*「複合差別」とは、上野千鶴子が、有吉佐和子の『複合汚染』をもじってつくった言葉。個人は一つの差別対象となるだけではありえない。複数の要素をもっているからだ。そして、個人はあるときは差別者であり、あるときは被差別者となるというようなことを書いています。この論文は2つの本に収録されています。井上俊ほか編『差別と共生の社会学』(岩波書店、1996年)と上野千鶴子『差異の政治学』(岩波書店、2002 年)です)

昨今医療業界でも「質的調査」ばやりです。「皮膚科学会」のジャーナルに掲載されなくても、「ライフヒストリー研究」をのせてくれる「医学系のジャーナル」は存在します。正攻法でたたかわなくても、堀を埋める戦い方は存在するとおもうのです。
きのうも、おークリニックには、むかしふっくんがそうであったような、かさかさで赤いほっぺの赤ちゃんがたくさんいました。診察室をでてくるときは、くすりでてかてか…。「はやいとこ炎症おさまるといいね」「ふっくんみたいに、5年間もくすりぬりつづけることがありませんように」とねがってしまいました。
お医者さんに「たいへんだったね」といわれて「わかってもらえた~」とうれしいこともありますが、ときには「こんなの大丈夫よ」と保証されるだけで、安心できることもあります。
深谷先生がかかれているような、そんなふうに気長につきあってくれるお医者さんがふえてくれることをねがいます。たしかに子どもがかゆがっていると、かわいそうかもしれないけれど、痛みやかゆみといった不愉快なことを全部こどもから遠ざけることは不可能ですし、またそれを親がするのは越権行為のような気もします…。ノブコフさんも書いていらっしゃったように「経験」とは、大切ですから。人の痛みをしることにもつながります。
私はひとづきあいが苦手なので、「運動」をたちあげるのはムリっぽいですが(笑)、私なりの「運動」の仕方、かんがえてみます。

<余談>
さて、しかし…いよいよ首がしまってきました。自分の仕事、ちゃんとします(泣)。これからは、ブログを書きかけた初期目的にもどり、ふっくんの体調変化の報告だけにとどめます(笑)。でも、これからもよろしくおねがいします!

2010年11月24日水曜日

「患者の専門知」と「医師の世間知」

2010年11月24日(水)
<ふっくんの悲哀…>
昨日、知人にあいました。
ふっくんをみて「この人も、ちょっとかさかさだね、アトピー?」ときかれたので、
「そうです」と答えました。
ただいま、自分のがんばりを認めてもらいたい一心のふっくん、ふだんならアトピーを話題にされるのはいやがりますが、今はちがいます。いきごんで、ズボンのすそをめくりました。
「どうしたの?これ?ひどいけがだね~。いたい?」
「ちがうよ! これ、アトピーだよ。すごくよくなってきたんだよ」
彼女が私の顔をみます。
「アトピーで、こんなになる?」
「はい。これ、アトピーなんです。いま、おくすりなしでがんばってるんだよね」
と、私がこたえました。
彼女は「あっ、そう」とあいまいにうなずき、他の人に顔をむけました。
一般的には「ただしい」態度なのだと思いますが、いまのふっくんには、ものたらない態度だったようです(笑)。ちなみに、彼女も医療関係者です。

<それでも、すこしずつ…>
養護教諭をしている知人から、メールがきました。
「まえに、ふっくん、アトピーっていってたよね。どんな治療してる? さいきん、新聞でも「アトピーには、ステロイドを正しく使うのが一番!」って記事でてたし、研修でもそう教えられるけど…。でも、生徒たちみてると、わかんなくなってきちゃって。「お医者さんいったら?」って言っても行かない子もいれば、ちゃんとお医者さんの指示通り薬ぬってるって言う、すごくまじめな子だからほんとしっかり守っていそうなんだけど、ぜんぜんよくならない子もいる。保護者の方針か本人の意志かわからないけどお医者さんに行ってても保湿剤はつかうけど、ステロイドは全部すててるなんて子もいて…。いろんな子に話をきくたびに、ほんとわかんなくなってきちゃった。で、ぴーふけはどうしてるのか、ちょっと気になった」と。
こんなふうに疑問をもってくれる養護教諭って、すばらしいとおもました。
「じつは、わたしもふっくんにずっとステロイドつかってきたけど、なんか悪くなってる気がして…。やめてみたんだ。で、ブログもつくってみちゃいました」とお返事しました。
よんでくれてるかしら(笑)。

<朝日新聞の記事-こどものあとぴー>
朝日新聞で再び、こんどは「こどものアトピー」特集がはじまりました。
さっそく、深谷先生がコメントされています。
先生の視線があたたかくて、なんだかおちつきました。
実は、今日、ふっくんの血液検査の結果がでました。
(あいかわらず、インフルエンザの予防接種の人でいっぱい…。看護師さんもお医者さんも、今日は愛想良かったです。いちおーふっくんの頭部もぐるりとみて、「ふんふん」てな、かんじでした(笑)。)
それがでたら、しーな先生はFAXでいいよとおっしゃってくれましたが、ききたいこともあるし、行ってみようかと主っていました。たとえば、こんなことです。
・ステロイドのリバウンド、依存といった言葉をどう使い分けていらっしゃいますか?
・そのうえで…ふっくんの今の状態は、ステロイドのリバウンドではないのですか?
などなど。
でも、深谷先生のブログをよんで、「どっちでもいいや」という気になってきました。
ふっくんのいまの状態が、ステロイドに起因していようといなかろうと、どっちでもいい。あの人、元気だし、いまの自分の「チャレンジ」をたのしんでもいるようですし、なにより誇りに思っているようです。
ここのところ、ちょっとでも、ふっくんの皮膚に関心をもってくれる人がいれば、彼はズボンのすそをめくり、いちばんひどい部分をみせて「これでもよくなったんだよ。がんばってるの」と言っています。これって、かっこいい(すみません、親バカです…。みせられるほうは、いい迷惑ですよね(笑)でも、保育園の先生たちはみなさん、「ふっくん、えらい!」「がんばってるね!」と協力してくださっています。ほんとうにありがたいです)。
なんか、深谷先生に、「ぴーふけさん、このままいって大丈夫」と背中をおしてもらった気持ちです。うれしいです!

が…ただし…親としては満足でも、わたしの「好奇心」はしーな先生に「つっこむ」ことを求めています(笑)。わたしこそ、病気…(爆)。

<しろうと(!?)アトピー対策>
さて、こうめさんがふっくんの状態を心配してメールをくださいました。
あくまで、なかまうちで、こそっと話題にしているだけですが…と前置きをつけてくださり…。
☆じくじくには、マキロンがかゆくなくていいみたい(これ数々ある消毒薬のなかでマキロンだけがなぜか、かゆみをおさえて、じくじくとさようならできるようです…。いまのとこ、じくじくはなくなったので、こんどやってみます)
☆夜中にしらずにかきこわしているかも…手をひらいた状態でハンカチでおおい手首のところで結んでみては?(たしかに、手袋より、ぬげませんよね…。)
☆じくじくのときに、ナプキンを服の裏からはりつけておくと、くっつかなくていいかも(あ〜!!これすばらしい!)
などなど。
その他…
今山修平先生という方の存在をおしえてくださり…さっそくぐぐってみると、今山先生のところにかかった患者さんたちのブログがたくさん! その方たちの報告する今山先生の姿がユニーク!
アトピーの身体には、綿より絹とか(そういえば、しーな先生もそう言っていたような? しかし…こどもようの絹のパジャマなんて、ネットでも1つしかみつけられなかった…)、いちばんユニークだったのが、「布団はねてるのをかけるな!」でした。私もついついかけちゃうんですよね〜。でも、「からだがつめたくなってはじめて熟睡できる。あたためたらかゆくなってかわいそうじゃないか!」という論理。なるほど〜。じゃー、これから布団はかけずに、でも足がつめたかったらマッサージだけしておきます。(しもやけになられると、これまためんどうなんで…(笑))。
ほかにも、アレルギーで髪がはえなくなっちゃった男の子への説明方法とか、おもわず納得(ちょっと、そのブログはその子の顔写真つきなので…リンクするのを躊躇しました)。
こうめさん、いろいろありがとうございます!

しかし…この患者さんたちの「専門知」ってすてたものではありません!!ローラー針もヒットでしたし。
あしたこそ、アップしようとおもっているのですが、「科学の専門知」についての話で、「真理」をみつけるには時間がかかるし、その「真理」も変化する。しかし、「公共的判断」はつねにくだす必要がある。「専門家(理論上)の専門知」だけに依存せずに、「市民の(あるいは、現実的な)専門知」もとりいれつつ、留保条件付き判断をつみかさねるのが、妥当ではないか…的なフレーズがあるのですが…。
アトピーの治療現場もそうした柔軟性があるといいですよね。でも、これも「こそっ」と、「地下組織」っぽいからいいのかしら…。大々的になるとつねにビジネスにつかわれる可能性がありますし…。


<「病院」とのつきあい方>
そうそう、それに関連して…
最近、「ブログよんだよ」という知人から、アトピー以外のネタでもらう意見として…。
・「私って、医者のいうこと無批判に信用しすぎなのかな?」
・「清潔とか予防とか、ほんとのとこ、どーなの?」
・「私も医者の一言にすごいむかついたことを思い出した。医者の養成、どうなってんの?」
などなどがあります。
むずかしいですよね〜。どこで判断するのか。
ただ…医師には専門知をもっていてはほしいけれど、それふりかざされるのも…どうなんでしょうか。深谷先生みたいに、「だいじょうぶだよ」と声がけができる「世間知」みたいなものは、ぜひふりかけて(笑)いただきたいものですが…。
それに…「専門知」のあり方自体もどうなんでしょう…。
あーちゃんも「私も確実な治療をと大学病院ばかり行ったあげくが、これだよ」と嘆いていたこともあります。
社会が学校化されるにしたがい、人々が「知的権威」に従順になっているのは、たしかです。その「知的権威」のかなり上位に医学とか法学などが、位置しています。
でも、その「知」がなんのためにあるのか…自分たちの「権威」とか「利潤」をうむための「知」になってはいないかとか…。
「知的権威」がどのように産出されているかについては、けっこう私たちは無批判な気がします。
ブルデューの『再生産』は有名だし、ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』とか、いろんな形で、「中産階級の知の継承」問題は指摘されていますが、なかなか、教育現場には反映されないようです…。

<きょうのふっくん>
おー先生のところにも、以外にふつーに行ってきました。からだはちょっと悪化しています。
このところ、天気がよかったから、毎日布団もほしているし(って、入れる頃は真っ暗でつめたくなったりしていますが(爆))、掃除機もかけてるけど…う〜ん…。
でも、本人は、「そんなにかゆくないよ」と、いたってのんきにしていますから、私があれこれ言わない方がいいですよね…。
おやすみなさい。

2010年11月22日月曜日

「名指す」ための言葉-社会問題として提起するために-

2010年11月22日(月)
<「くすり」のもたらす安心感と依存心>
みっくんも、足がかさかさしてきました。かゆがっています。ダンくんは、「なんもぬらんほーがいいんやろ」と放置。
「いや、それステロイドぬってきた人だけだから。時期的にも、みっくんなんかちょっと保湿ぐらいしてもいいとおもうよ」と…。秘伝!メンソレータム塗布。
「みっくんも、おくすりぬるも~ん!」
いつもふっくんがビタミンのんだり「今日は、どうしようかな~」と保湿剤をえらんでぬっているのをみっくんは羨望のまなざしでみていたので、大得意。
「からだにちょっとした『異常』があったときに、なにかできる」ということは、私たちをほっとさせます。
きっとその気持ちが、「くすり好き」につながっているとおもいます。が…。これまた、難しい問題です。
「ちょっとした薬やバンドエイドで、ほっとできるなら、つかえばいい」と思う一方、「これくらいなら、そのうちなおるや」と放置することも必要ではないかと思います。
なお…ふっくんのほうは、またまた「波」がやってきたのかもしれません。寝る前の「かきむしり」かたが、かなりはげしくなりました。赤いぽつぽつした湿疹がとびとびですが、全身にひろがってきています…。これって…。もしかして…保湿しないほうが、よかったのでしょうか…。

<「関心をもつ」ということ>
さて、ノブコフさんのコメントにかんしてダンくんに話していたら…「まー、でも、腰痛でもなんでも一緒やん。しょせん職場は『健常人』以外にはつめたいで」と言われてしまいました。
職場でなかよしさんに話してみると「でも、腰痛のほうが『たいへんだね』とは言われるとおもうよ。なんかアトピーのほうが扱いは軽い気がする。「いたい」より「かゆい」のほうが無視しやすいし。それに…、腰痛はだれでもなる可能性があるから問題にされやすいかもね。アトピーは体質だから、関係ないと思ってきりはなせる。そのうえ、「治療が適切かどうか」なんて問題がからむと、かかわりたくない人はふえるよ」と。
たしかに…ダンくんですら、どうもアトピー治療現場におこっている問題については関心がないようなのです。むしろ、没頭する私を危惧しています(たしかに…私、このブログに時間かけすぎです…。反省…)。
でも、せっかく考えてみたので、とりあえず記録してみます。

<「社会問題化」するために>
土曜日のブログで、「ステロイド使用は、自己決定ゆえではない」と書きましたが、なにゆえ自己決定といえないかは、「周囲の環境」に起因していました。つまり…「ステロイドによる標準治療」の現状が、社会問題化されないかぎり、現状は続くとおもいます。
これまで、「ステロイド裁判」やむかし懐かしい「ニュースステーション」での報道や、ステロイド治療を疑問視する医師や患者さんたちのおかげで、すこしは認知度があります。が、認知度があがれば、まるで「バックラッシュ」のように「標準治療キャンペーン」が展開されます。
私としては、しかし、「ステロイドによって悪化するアトピー患者がいる」という現状を、「とくに乳幼児にはステロイドは必要ないケースがおおい」ということを「社会問題」としてとりあげてほしい。というわけで…。「社会問題にするために、必要なこと」「社会問題を阻害しようとする言説の解明」「社会問題とするための戦略」の3つについて考えてみたいと思います。

<「社会問題」となるための必要条件>
さて、現在私は「ステロイドによる標準治療はおかしい」と考えています。それを公にするために語りたい。
ここで、問題がひとつあるように思います。この「おかしさ」を訴える「共通の言葉」がないのです。
たとえば、私はこの問題を人に語るときのことを、これまでブログでは「脱ステ宣言」とよんできました。
「脱ステロイド」…ふっくんはステロイドをやめたので、まさに状態を示すには最適な表現です。佐藤健二先生や藤沢重樹先生、中村敬先生など「脱ステロイド」という言葉を前面にだしています。
しかし…この言葉は、「ステロイド治療をする」ことが前提にあります。つまり…標準治療先にありきです。これだとなんだか「へ~、やめたんだ」ぐらいてながされてしまいそうです。
「ステロイド禍」という言葉もあります。が…「ステロイド薬害」という言葉とともに、ちょっとインパクトが強すぎる…というか、これだと「ぜんそく」や「リウマチ」など、ステロイドが貴重な患者さんにとって、申し訳ない言葉です(しかし、ネフローゼ治療の現場では、ステロイド依存性とかステロイド抵抗性という現象は認知されているようですが…)。
「ステロイド皮膚症」という言葉もあります。ウィキペディアにも掲載されているくらいですから、これがいいかもしれません。もしくは深谷元継先生がつかっている「ステロイド依存」か…。(そういえば、アトピー協会ではステロイド依存症という言葉を批判していますが…批判のための批判になっているような…)
佐藤先生は「ステロイド依存性皮膚症」という言葉もつかっていますね。とりあえず、「皮膚」に対して使用するのを問題にしたいので、これがいいかもしれません(と、私がきめることではありませんが。でも、でも…私たちは短縮語が大好き。話題にするとき「それ、ステ依存の話!?」「それ、ステヒフの話!?」どっちがいいかしら…(笑))
いや、でも、真剣な話です。「社会問題」として提起するためには、「共通語」は不可欠です。たとえば…「DV」という言葉がなかったころ、夫婦間の暴力は「痴話げんか」でした。「セクハラ」という言葉がなかった時代、それは「職場の花に対するからかい」にすぎませんでした。「セクシュアル・ハラスメント」がいわれだした当初は、ずいぶんマスコミで「からかい」のネタにもなりましが、1989年には流行語大賞になります。以後、「セクハラ」という言葉は、ギャグネタにされる一方で、問題提起する言葉として社会的に認知されていきます。
ある事象を名指し、問題だとするときには、その事象を示す「名前」とその「定義」が必要です。
ぜひぜひ、脱ステを支持される先生たちに、この問題を名指す「名前」をつけていただき、統一見解として発表していただきたいとおもいます。

<「社会問題化」をはばむもの>
さて…「息子が、ステヒフになっちゃって…」(いま、ふと息子の話をするとして考えたとき、「ステ依存」だと「嗜癖」をおもわせるので、ちょっと躊躇しました。「ステヒフ」のほうが、ギャグネタにもつかえるかも(笑)でもでも、こういうことは2chの人たちのほうがセンスいいかも!あーちゃん、なにかいい言葉、ありませんか?)と話し出したとします。
しかし、なかなか関心をよせてもらえない。「あなたの息子の個人的な問題」としてとりあってくれない。「ステロイドはこわくない」という声にともするとかきけされそうになる…。そんな気がします。
ここでは、草柳千早『「曖昧な生きづらさ」と社会-クレイム申し立ての社会学』(世界思想社、2004年)にそって考えてみます。
この本の一節に「人は『問題』を感じ、それを何とかしたいと感じ、他者に自分の感じる『問題』について語ろうとする。だが、『問題』を感じてこなかった、感じていない人々の堅固なリアリティの前に、彼/彼女の『問題』の経験は当人自身の『問題』の一部に還元されてしまう」(p.18)が、あります。
つまり…自分にとって切実な問題であっても、共感をえられる/その確信がなければ、「問題」を感じてこなかった人の解釈を再度うけいれ「これは、自分だけの問題」と閉じてしまったり、「問題だ」と思いつつも「問題がないのに騒ぎ立てる人」とレッテルをはられるのをさけるために沈黙してしまったりする状況をさしています。脱ステを友人に語れなかった人のなかには、そんな経験をした人もたくさんいらっしゃると思います。
なぜ、人々は容易に共感してくれないのでしょうか。
「クレイムを申し立てることは、『問題』を認識していない人々に対して、現実認識の変更を迫ることである。『問題』を認識してこなかった受け手にすれば、それは、自分では疑うことをしてこなかった現実を、他者から問われ否定されるという経験である。(中略)しばしば人は、現実認識の変更という他者からの働きかけに抵抗し、自らの現実を維持しようとする。それによって、この危機を回避し、自分の現実を守り通す」(p.127f.)と草柳さんは書きます。まさに…ノブコフさんの上司が、おー先生が、とった態度です…。
草柳さんは、こうした彼らのとる「『現実』の『問題』化を無効にする方法」について4つに類型化しています。(以下、p.127-158にあります)
①破壊的結果の警告
②人格への還元
③弱者配慮への要求
④グランドルールの宣示 
*グランドルール=「『自然』『合理』『道徳』『社会』『世間』-個々のあなたや私を超えて存在する上位の拘束力」(p.144)
というわけで…「嫌ステロイド」「ステロイドフォビア」「ステロイド嫌い」「ステロイド忌避」といった言葉で検索してみました。
ステロイド忌避からアトピー地獄へなんて、みつけてしまいました…。でも、これはおもにアトピービジネスにたいして怒っていらっしゃるわけですが…。
竹原和彦「アトピービジネス」(文芸春秋、2000年)も、けっこうこわかったです。
②は、ちょっと引用するのもパスです。塗り方が悪いだの、怠けものだの…。対等に話しをする価値もないとか…。くらっ。
③「ママが陥る嫌ステロイドの呪縛」として、そのことで、子どもがいかにかわいそうか(睡眠障害による成長阻害、情緒不安などなどの羅列)が書かれていました。愚かなママのステロイド嫌い…ステロイドは「心につける薬」なんだそうです…(泣)。
④皮膚科セカンドオピニオンというサイトでは、患者がネットであつめる情報はゴミと一緒扱いされています…(とほほ、私もふくまれますね…)。日本アレルギー協会九州支部のK.Kニュースは、もうすこしマイルド…深谷先生がデータとして使用していた古江教授が書くソフトバッシングです。双方とも、一般的な「医師ー患者関係」にそわないこと、メディアにふりまわされることなどを憂慮、つまりグランドルールにそってないことをなげいています。

さて、こうした「バッシング」にどう対応しましょうか…。アトピービジネスを批判することと、脱ステロイドを批判するのは別にしてほしい…。そのほかの対話を拒否するようなバッシングに対しても、「おすきにどうぞ」といいきれないのは、すでに私たちは経験済みです。
でも…こうした「バッシング」をする人たちも、「アトピー治療」で、くるしんだ、なやんだ患者さん、医師、保護者です。
一緒に話せないでしょうか…。
問題意識を共有するのは無理でも、この人たちをさなかでしない主張の仕方は、ないのでしょうか…。

と書きつつも、ちらっと「私って、ことを荒立ててるだけ!?」と不安になってきました…。「クレイム申し立て」をするという行為はたとえブログでも、気合いがいりますね…。

つぎは、藤垣裕子『専門知と公共性ー科学技術社会論への構築へ向けて』(東京大学出版会、2003年)とともに、その「戦略」をかんがえみたいとおもいます。

でも、でも…「ステヒフ」なんて言葉がはやったら、「ステロイドを嫌う人を嫌う人」とも一緒に笑える気はします…。
「わたし、ステヒフはいっちゃったよ〜」「うわ、さいあく〜。わたし、まぬがれてるよ」「私、そもそも、つかってないよ。でも、つらくなったら、つかってみようかな」なんて明るく話せる…。そしたら、またステ使用中の人もやめた人も、つかったことない人も、一緒に「アトピーつらいよね〜」なんて話ができるとおもうのです…。そうなったら、いいな〜。

<きょうのふっくん>
「また、かゆくなってきちゃった〜」と、ちょっとつらそうです。
「保湿剤、やめようか」「やだ、なんかぬりたいもん」「でも…ふっくん、もともと左側のほうがひどかったけど…どうみても左側ひどくなってるよ。でも、右足もかゆいもん」
「右足は、なおってきたからぬってみるって、きのう保湿剤、ぬってみたよね…。関係ないかな〜」「…今日は、ぬらなくていい」
むずかしいです。私にもわかりません。でも…あかぎれ的ひび割れは確実によくなりました。が…赤い湿疹はふえました…。
今日のポーズ(笑)ほんとは手の甲にかいてあるうさぎがみてほしかったそう。

2010年11月20日土曜日

「受容」と「自己決定」の困難

2010年11月20日(土)
<皮膚状態が、悪化しました>
あさ、ふっくんが「パジャマがくっついちゃって、ぬげないよ〜」と台所にやってきました。
手にかかえているアイスノンにまいたタオルは、ひさしぶりに血だらけ…。
「ちょっとそのパジャマ、上からぬらすから、そっとはがそう」
パジャマをぬぐと、左足のすねの皮膚は半径2センチぐらいの円状に5ミリくらいもりあがり、そのうえにコーンフレークのようなかさぶたがくっついています。
出血してくっついていたのは、その上にある、広範囲な湿疹でした。また、じくじくになってる…。
左足は、保湿剤をぬっている側です。保湿剤で、肘や腕、手の指はよくなったのに…。
肘の内側と足は、確実に悪化しています…。

椅子にたおれこみそうでした。
でも、ふっくんが私をみています。私はなんと言えばいいの?

やっと、「いろんなときがあるよ」と言いました。
ふっくんは、「そうだね」といきおいこんで、反対の足を私に見せます。
「こっちは、こんなにきれいになったもんね」

<「受容」という困難さ>
私は、むかしよんだ最首悟『星子がいるー言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』(世織書房、1998年)の一説を思い出しました。
重複障害の星子さんが、いよいよ失明することになったとき、夫婦の間でなかなかものが言えなかったときの心情を説明する部分です。
「星子が目がみえなくなったことについて、お互いに落ちこんでしまったら、悲しんでいたら、それは目が見えるほうがいいのだということを認めることになってしまい、そうすれば、耳が聞こえるほうがいい、口がきこえるほうがいい…(中略)と際限なく思ってしまうだろうという気がするのである。といって、目が見えなくなったことについて、平静にうけいれるとしたら、なんだかひっかかりがなくなって、脱人間になってしまいそうな気がする」(p.56)
そして、悲しければ悲しがったほうがいいが、その思いと、「星子に対する態度、接し方はおのずから異なる次元のことでなければならない」といいます。
重複障害とアトピーとでは、次元がちがうとおもわれるかもしれませんが、「アトピーをうけいれて、つきあおう」とふっくんに明言している私にとって、この最首さんの言葉は、そっくり私の気持ちでした。

「アトピーが悪化したことで私がおちこんでしまったら、それはやはりアトピーはよくなったほうがいい、ないほうがいい、健康なほうがいい、みためがきれいなほうがいいと際限なく思ってしまうのではないか」「でも、やはり悲しくて、私が悲しいと思えるのは「ふつう」だとおもう。だけれど、それをそのままふっくんに伝えるべきことでもない。ふっくんはふっくんで、アトピーが悪化しようとしまいと、同じふっくんなのだから」

最首さんは、べつのところで、「不治の病だと聞くと、私たちは生きる気力をなくしてしまう。またそういう人にどう付き合っていいかわからないのである。だからもっぱら隠して、そういう不安をもつ人にには、だいじょうぶ必ず治りますよと励まし続ける。ここが恐ろしい」(p.108)とかいています。つまり…自閉症やダウン症のような「治らない人」をわたしたちの仲間から排除することになるからです。
「治るほうがいい」「重度でないほうがいい」こうした気持ちは、誰しももってしまうとおもいます。しかし、これを「当然視」してしまうと、人に優劣をつけることになります(障害者間での差別は、これまでかなり激しいものがあり、とくに「就労可能か否か」で、就労可能な障害者は不可能な人を徹底的にばかにする傾向が報告されています)。

<「完治」を目標にすることで「排除」しているもの>
そういえば、ひっくんがアスペルガーだとわかった当初、自閉症・発達障害にかかわるおおくの講演をききにいきました。
そこで、医療者たちが「私たちの目標は、患者さんを納税者にすることです」と言うのを何度も耳にしました。
いや、私とて、ひっくんが納税者になってくれればほっとします。
でも、納税者でいるためにその自閉傾向をおしつぶし、薬づけになり、チックを多発しながらいくのだとしたら…、いやひっくんが「ぼくは、納税できるけど」と、重度の自閉症の子と差異化をはかったとしたら…。
それは、たえられないと思ってきいていたのを思い出します。
さらに、こうした目標を医療者がたてるということは、納税者に育てられなかった直接「療育」にかかわる保護者、納税者に育ち得なかった本人の自己責任にされかねません。いかにも「新自由主義的」社会観です。
この状況はきびしすぎます。

アトピーで職を失う、または職につけないなどの状況を肯定しろといいたいわけでは、もちろんありません。
アトピーで長期療養休暇がみとめられる、アトピーで生活保障が受給できる、そんな制度づくりが、どうしたら可能か、ほかの障害や疾病をもつ人たちと、どうしたらともに「運動」できるのか、そんなことも考えられたらいいとおもっています。

<「持論」への拘泥>
さて、「よくおー先生のとこいったね」「つかちに先生のところにも、いつかいってね」と応援メールをくださった方たちがいます。うれしかったのですが、すこし「行ってどうなのか…」とも思いはじめています。
人は、自分でまちがいを発見したときは素直になれますが、人からまちがいをつきつけられた場合は認めないのが一般的です。まちがいをみとめるどころか、うらまれる可能性もあります(皮膚科学会の権威たちの態度をみても自明ではありますが…(笑))。
よく考えれば、私はこれまでも息子たちの受診に際して「いいもらしがないよう」とメモを持参することがかなりあります。が「もってかえってください」といわれたのは、おークリニックがはじめてでした。私の人選ミスだったかも…と、かなり確信的になっています。いや、そもそも、もっと若い柔軟さをのこした人を選ばなかった時点で失敗だったのかもしれません。
そういえば、あーちゃんは脱ステ病院退院後、地元の皮膚科にいってみるとかなり若い医師が担当にあたったそうです。まったく脱ステに関心がなかった人であったにもかかわらず、あーちゃんの話を熱心にきき、彼なりに文献その他で調べ、その後ステロイドはなるべく使わない方針に転換したとか…。まー職場でも、年配の人、人のはなしなんてきかないし…。
だいたい上野千鶴子なんて、講演ではしょっちゅう「わからんちんおやじたちとの議論は労力と時間の無駄。死ぬのをまちましょう」とギャグネタにしているくらい…。

もし、「脱ステ医をふやすんだ!」とめざめたら、まずは近所の「若者医師」リサーチからはじめたほうがいいかもしれません。
(しまった〜! そういう意味では「お大尽」耳鼻科の先生のほうが、よかったかも!!でも、若く見えるだけだったら…(爆))
そんなときは、深谷先生が作成されたインフォームドコンセントの資料を持参すると効き目があるかもしれません。
これ、見た目にわかりやすくて、これなら医師もなんらかのコメントをせざるをえないような気がします。
こんど、ふっくんの鼻づまりがひどくなったら、「お大尽」先生のところに、これをもって行ってみます(笑)。

そうそう、「いくら論理的な証拠をつきつけられても、人はなかなか持論をかえない」といったことを、さまざまな実験結果をもとに論じている本に、高野陽太郎『「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来』(新曜社、2008年)があります。


<「いつかやめたい薬」としてのステロイド>
さて、さきほどふっくんのアトピーが悪化した話をかきました。ふっくんにとっては、理由はどうあれ、状態の悪化ですが、私にとっては、これはやはりステロイドのせいであろうという気持ちはぬぐいされません。

どきどき、いろんな言葉で、アトピー関係のブログの検索をしてみます。
すると…標準治療をほめたたえ、ステロイド使用をすすめるブログでさえ、最終的には「いまは、くすりつかっていません!」「リバウンドのこないステロイドのやめかた」など紹介していたりします。
(そういえば、読売新聞も11月4日に「標準治療」の特集をくんでいたのですね。しらなかった!アレルギーにかんするブログで、絶賛していました…。これ、皮膚科学会のキャンペーンでしょうか…)
「でも、結局、みんなステロイドつかいたくないんだ…」としみじみおもいます(とはいうものの、むろんこの中には、「たんに薬をぬりつづける状態がいや、なのであって、ステロイドがとくにというわけではない」人もたくさんいるとおもいますが)。

さて…しつこいようですが、なぜ私は「いいのか?」とときどき思いながら、ステロイドをつかってきたのか、なぜみんな「こわい」とか「いつかやめたい」と思いつつ、ステロイドをつかってきたのでしょう…。

<ステロイド使用を決めたのは誰?>

岡部勉(『合理的とはどういうことかー愚かさと弱さの哲学』講談社、2007年)は、アリストテレスをつかって意志の弱さにもとづく行為(のんではいけないとおもいつつ、飲んでしまうとか、どなってはいけないと思いつつ、どなってしまうとか)について説明しています。
「①強制されたものではなく、自発的にしたものであって、しかも②行為者(行為する当人)は何をするのか知っていて、意図的にそうしようとしたものである、そして③他の誰でもなく自分自身による(自己決定した)ものではあるのだが、④選択された行為ではない」つまり、「①自己責任、②意図的、③自己決定、この3つが揃っていても、④選択された行為とはみなさない」(p.22)といいます。
「その理由は、選択された行為は他にあって、それは実は、選択されようとしたのだが、実際には選択されなかった、実際になされたのは別の行為、意志の弱さによる行為であったのだから」(p.61)だそうです。

具体的にアトピーにおきかえて、書いてみます。
ステロイドをやめたいとおもっているのに、ぬってしまうのは、それがたとえ「①自発的に自己責任で病院にいき、②アトピーをなおしてもらう意図をもち、③ステロイドをぬることを決定したとしても、④それは、あなたが選択した行為ではない」ということになります。
「薬物依存だから当然」というつっこみは、とりあえずおいておいて(笑)、岡部さんのあげる理由をかきます。
「①自分が選択しようとしているのとは別の何かをするようにし向けるものが現に目の前にある、②その別のことをしないよりは、することの方が、むしろ自然である、③その別のことをする習慣がその人にはある、④周囲の誰もがそうしている、⑤何らかの権威のある人(親とか医師)がそうするように勧める、というような場合には、ある意味ごく普通のことであるように思われます」としています。

この場合、「別の何か」「別のこと」がステロイドを使用することに該当します。おきかえてみると…
まさに、標準治療の世界です…。

なお、岡部さんは、では「意志の弱さに基づかない行為」つまり「意図的な行為」を選択できる能力とは、「長期間の訓練と学習を経て、かろうじて、備わる人には備わるというようなもの」(p.62)だといっています。つまり…「ふつう」はむり。

<あなたは、わるくない>
この論理は、裁判になったときなど、使えそうに思います。「自分で病院をえらんだ」「その治療方法に納得して、自分でぬっていたのだろう」などといわれたときに、「それは意志の弱さにもとづく行為でした」と理路整然と説明できます!(でも、アリストテレスでは、古すぎでしょうか(笑))。
もちろん、裁判しなくても、「なんで、ステロイドつかっちゃったんだろう!」って自分をせめている人がいたら、ぜひ「アリストテレスは、あなたのせいじゃないっていっているよ!」とはげましてください!!

ちなみに…岡部さんは、この定義のなかに「情報不足とか情報の欠落」(p.64)という要因がはいっていない理由も書いています。情報不足で行うということは、そもそも「自分が何をしているのか知らない」という状態にあるため、自分が決定した行為であるとは言えない、意志の弱さうんぬん以前の問題だとしています。
現在、アトピー治療現場における「ステロイド不使用治療法」など圧倒的に情報不足です。自分をせめる必要はありません!(って、自己弁護みたいになってしまいましたが…(笑))

<だったら、どうすれば?>
いいのでしょうか…。「わるくないのは、わかったけど、でも、どーするの?」ときかれそうです…。
時間かかるけど、アトピーはなくならなくてもよくはなるよと示していくこと(なんか星子さんの話と矛盾しそうですが)、ステロイドのせいで難治化した人がたくさんいるよとアピールすること、でしょうか…。
近所の医者も…正攻法だとむりだけど、なんか「伴走」してもらう方法はあるかもしれません。
また、ふっくんと相談して、ぼちぼち考えながら、行ってみます。

<きょうのふっくん>
今日も、ブレークしてました。「芳泉」の風呂…。
「写真とろ〜」っていったら、いろいろポーズを工夫。「いつも同じはつまらない!」そうです(笑)。でも、これは昨日のもの…。くんで上になっているほうの足を夜中にかきむしったのだとおもわれます…。
今日は、写真をとるともいわず、薬をぬるともいわず、さっさとパジャマをはいて、アイスノンの用意をしてひっくんと2階にいってしまいました…。
おふろあがりなので、ちょっときれい

2010年11月18日木曜日

「肯定される」ということ

2010年11月18日(木)
<「病院にいく」という行為>
なんだか、つかれています…。
「ふっくん、アトピーとつきあっていけばいいよ」というとき、ふっくんは「アトピーをもつこども」です。
が、「アトピーをみてもらいに医者にいく」となると…、ふっくんは「アトピーの患者」となります。
なんか、病院にいくことで、患者役割をひきうけざるをえなくなる…。これって、どうなんでしょう。
「こども」も、おうおうにして立場がよわいですが、「患者」もまた立場が弱いですよね…。
弱さの重複…親の指示にも、医療者の指示にさからえない…。みすてられたくない…。ちょっとやさしくされるとうれしい…。

とくに、患者の場合、「いまの状態をなんとかして」とおもえばおもうほど、相対的に医者の力が強くなり、患者の立場はよわくなるかもしれません。

そいうえば、3人目の息子を生んだ病院では、まったくの自然分娩でどこも切らずにうまれたのに、毎食後抗生剤がだされました。たまたま仕事でパソコンをもちこんでいたため、「抗生剤 予防投与」でしらべたら…。「手術後の抗生剤投与は耐性菌を生むだけで、メリットなし」とする論文がたくさんでてきました。その画面みせて、医者に「不必要だとおもいます」といったとき、すごいいやな顔してました。
それでも、私、不利益をこうむらないように、退院する朝まで薬をためて、最後の回診のときにそれを伝えたことを覚えています。

あらためて…そんなある意味「アナーキー」が私が、なぜにふっくんのアトピーに関しては、これまで治療方法に疑いをもたなかったのか…。
たぶん、アトピーは「みため」の問題が大きいからかもしれません…。おばーちゃんたちに「みっともない!こんなんで、ほっといて。私はあなたをもっと注意深く育ててたわよ」といわれたくない。私が「肌をかきむしる息子」をみたくない…。私の「都合」ばっかりですね。自己嫌悪…。ごめん。

<「善意」という「重荷」>
あ、でも…この「母」という人は、ちょっとやっかいな存在でもあります。娘には遠慮も容赦もないとゆうか…。
そういえば、もう10年以上前になりますが、わたしの友人も、アトピーのこどもの脱ステにチャレンジしていました…。
そのとき「ほっといていいの!?」とそのおかあさんが、連日なにかもってきたそうです。マルチ商法的な1本1万円もするようなジュースに、あやしげなぬり薬…。「ぴーふけの言うことなら、きくかもしれない。あれ、やめさせて。お金もむだすぎ」と白羽の矢をあてられ交渉にでむくも…「ぴーふけちゃんには、私がどれだけ心配してるかわからないのよ!」と号泣され…。
まいりました。
「善意」とは、ときにおそろしいです…。
このとき私は、ついつい「おかーさん黙らせるために、もう一回ステロイドつかったら?」と言ったような…。ごめんね…。今の私が、友人にそれ言われたら、すごくなえます…。あのときは、きづかなかった…。ステロイドについて知ろうともしていなかった…。
でも、その友人のこどもも大きくなって、いまはそれほどアトピーになやんでいるようすはありません(たぶん、その友人が、がんばったんだと思います。こんどどうだったのかきいてみようかしら)。
たしかに、私の母も、このまえの朝日の記事、しっかりきりぬいて「ステロイドつかわないと!」とやってきました…。ありがたいけど、こまる…。
そうそう、母娘関係でいうにいわれぬ葛藤があるときは、ぜひ
信田さよ子『母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き』(春秋社、2008年)
をお読みください! わたしは、これで救われて、かえって母娘関係がよくなりました…(笑)。

そいえば、私の「脱ステ宣言」に無関心そうだった知人のひとりも、ブログをみてくれて…。
「よんでて、いろいろ昔のこと、おもいだした。私もそういえば、こどもに「薬以外の方法を!」「自宅で温泉治療はどう?」と湯ノ花買ったりしてたよ」「でも、おばーちゃんにいろいろ言われたくなくて、その頃は実家から遠ざかってた!(笑)」
なんか、一緒だ。すごくすくわれました。ありがとう。


<「ふつう」からはずれる存在>
さて、深谷先生の標準治療を広めるとはという投稿をみて…つくづく「おー先生、あなたの態度、やっぱり問題ですよ」と思えてきました(でも、朝日新聞の記事のおかげで、深谷先生の情報発信がふえたことは、ありがたいことです。でも、でも、あとで、どーんとこないことを願っています)。
「標準治療を拒否する」患者を鼻で笑い、関心をなくすとは…。「ふつう」からもれた人たちを無視/排除するということですよね。
「ふつう」以外の人に注目するかしないか…。これは…やはり「科学」とは関係ありません。その人の「思想」の問題だと思います。
しかも、標準値からはずれる事象、「ふつう」ではない状態に着目してこそ、「科学」と言えるともおもいますが…。


<保湿解禁!?>
そういうえば、あーちゃんから「保湿はじめました」メールがきました。
そんな時期です…。わたしも、かかとのがさがさがピークに達し、1カ所ひびわれて痛い…。ふっくんも部分保湿をはじめたし、私もメンソレータム解禁にしよう!
(とおもったら、ふっくんに「ぼくも半分こ実験つづけてるんだから、おかーさんもかかとは塗ってもいいけど、手はだめ〜」と言われてしまいました…(爆))

そいういえば…私のかかとのがさがさは遺伝的なのか、母と一緒。高校生の頃はもう、友だちに笑われるほどがさがさ。
谷崎潤一郎の「刺青」を読んだとき、つい自分のかかとをみつめながら、「私…谷崎には好かれないな~。でも、私が好きになった人が、谷崎みたいに『かかとフェチ』だったらどうしようかしら…」なんてナイーブにも思ったりしていました(笑)。
以前、テレビで、オリーブオイルをぬってラップでおおって靴下はいてねる方法を紹介していて、やってみたこともあります(今思えば、湿潤療法!ですね)。これ、すごくききました。が…ねるとき靴下はくのってなんか好きになれなくて、すぐ挫折。
でも、じっさいに不都合なのは、ストッキングをはくときぐらい。はいた瞬間にかかとにひっかかってやぶれます(笑)。でも、ストッキングなんてもう何年もはきません。つまり、ほとんど困ってないです。

でも、そのせいか…あかちゃんのかかとが大好きです。ふわふわでやわらか。「歩き出したら、がちがちになっちゃう!」と息子たちが赤ちゃんの時、さんざさわりましたし、いまも保育園であかちゃんがよってくると、かかとにさわってみたり(笑)。わたしがいつのまにか「かかとフェチ!?」(笑)。

またちがった…。「かかとフェチ」のはなしではなく…。ふっくんの皮膚のかさかさも、この程度なら問題ないって話をするつもりで…。

<保育園の先生と、アトピーについて語る>
ふっくんの担任の先生にひさしぶりに会いました。(早朝保育の時間におくり、延長保育時間にむかえにいくことがおおいので、めったに会えません…。ほとんど、コミュニケーションはおたより帳に依存しています)。
で、先生が
「このまえ、なんか今日はやけに顔がきれいだとおもって、どうしたのってきいてみたら、ふっくんが『電車2回のりかえて、バスものって病院いってきたんだよ』ってすごくうれしそうにおしえてくれたの。で、「なに? そこは特別なことしてくれるの?」ってきいたんだけど、「なんにも」って。ほんとに、なんにも?」
「うん。そこステロイドやめることに肯定的なお医者さんで…」とおー先生での診察室でのいきさつをはなし、
「混乱してたみたいだから、おもいきってつれてってみたの。はげましてもらいにいったようなものだから、べつになにもしてないんだよ」
「じゃー、アトピーって気持ちにかなり左右されるってこと? あれから、ほんとなんかふっくん、顔がきれいだよ」
「うん、そうかも…。それに、あれから、ひっくん、みっくんがやけに協力的で…。なにかと「きれいになってきたね」「このまま、つづけよう」って言ってくれて、本人もその気になってるみたい」
「よかったね〜」
「うん、いろいろあったけどね〜」と、予期せぬアスペカミングアウト話などして、爆笑していたのですが…。
「でも、ふっくんには、よかったとおもうよ。保育園でも、『くすりぬらなくても、かゆいときはアイスノンで冷やしたり、ローラー針でかけば、大丈夫だから』って、『ほら、足もきれいになってきてるでしょ』なんてみせてくれて。あの人、すぐぷーっとふくれるし、負けると怒るしで、気分に波はあるけど、でも毎日元気にとばしてて、ほんとによく笑ってるよ」と言ってくれました。よかった〜。
「でもね〜、おかーさん、みんななにかしらあるもんね。私はさ、それをなくそうとせずに、つきあっていけばいいとおもうんだよ。へんに、かくそうとか、なくそうとするから、話がややこしくなるし、こじれる。ふっくんもアトピーあっても大丈夫。あの子は、くすりなくても十分やっていけそうだとおもうよ。でも、おかーさん、大変なときもあるとおもうから、また、このまえの石けんのときみたいに、手紙でもなんでも、言ってね。できることは協力するから」
しみじみ、ありがたい言葉でした。先生に、私のかんがえを「それでいいよ」っていってもらえるって、こんなにおちつくものなんだと…。
先生と、話せて良かった〜。この保育園でよかった〜。
(でも、この保育園、今年で廃園…。わたしのすんでいる自治体は、いまここのような公立保育園を次々閉鎖し、民間にゆずりわたしています。わたしたち、かなり「運動」したのですが…かなしいです。こんなベテラン保育士さんと一緒にはたらいて、保育士さんたちの智恵をゆずっていってほしいのに…。民間はいくら良心的でも経営の都合で、どうしても「若い先生」と「パートさん」になりがち…。なかなか「先生」はそだちにくい環境にあるとおもいます…)

<きょうのふっくん>
今日のおふろは、「漢方、生薬入浴剤『芳泉』」をいれてみました。いつも無農薬野菜や放牧牛乳をかっているところでもらったパンフレットをみて、なぜかふっくんが「これ買う!」と強く主張。肌にはどうかわからないけど、「冷え性」にいいなら、買ってみるかと。
で、いれてみましたが…おふろ真っ赤。においは…とうがらしとシナモンとどくだみをまぜたような(どれも入ってません(笑))強烈なにおい…。入浴剤大好きひっくんが顔をしかめています…。が、ふっくん、おおよろこび。
「これ、いいよ!」(えっ、そうなの!?)。
うん…たしかに、あたたかい…。しかも、においからは「ぴりぴりきたらどうしよう」とおもったのですが、なんだかやわからなはだざわり。いいかも…。ふっくんは、「ぜんぶ、しぼりだす!」とずっと生薬がはいっている袋をにぎって、でてきません。
まー、きみが気に入ったなら、よかったよ。
*すみません、とうがらしは入っていました。「蕃椒」がとうがらしのことだそうです…。どおりで袋をにぎると熱い感じがしたわけです…。あとは、みかんの皮や生姜などなど。

おふろあがりは、また左半身のかゆいところにのみ、保湿剤をぬりました。

ふっくんは、今日は保育園の先生にもほめてもらったし、はじめてふっくんと同時進行で「脱ステ中」のおにいさんにもコメントをもらったしで、ご機嫌で眠りました。

<「石けん」不使用運動!?>
そうそう、「もう手も足も痛いことはなくなった」という話から…。
「石けんつかってないからだよね」とふっくんがいいました。
「それもあるよね。保育園のみんなはどう? ふっくんが石けんつかわないこと、なにも言わない?」
「いわないよ。だってぼく、説明したもん。石けんのつかいすぎは、手がかさかさになってかゆくなるし、もっとひどくなると痛くなるよって。いま、ぼく、きみくんとも一緒の班だから、おしえてあげたかったんだよね。で、ほんとはきみくんにいったのに、いまぼくの班、だーれも石けんつかってないんだよ。先生はしらないけどさ(うきゃきゃきゃきゃ〜っ)」
「へー、よかったね」と一緒に笑いながら、内心(どこかのおかーさんが「不衛生なことおしえないで!」って、怒ってきませんよーに)とおいのりしてしまいました(笑)。

でも…保育士さんとはなせたのが、きのうの今日でよかった〜。
私…おもっていたより、おー先生の対応、ダメージがおおきかったようです。

でも、今日もみなさん、ありがとうございます。元気づけられました。
おやすみなさい。