2011年4月25日月曜日

「ふつうが、一番!」の罪

2011年4月25日(月)
<「ふつう」の壁>
さて先週末、ふっくんの担任の先生と教務主任をまじえて、ふっくんのアトピーについて面談してきました。
担任の先生については、私のよみまちがえ・・・。まったく「天然ぼけ」の要素はなく・・・どちかといえば、「こどもは、男女にかかわらず『さん』づけで呼ぶ」いまどきのジェンダーにも配慮する「できる」タイプの女性でした。おそらく連絡帳に書かれた「お大事に」は、「本来、学校で目薬をさすなどの医療行為はおこなわない」という前提をもとにした彼女なりの「お断り」の円滑表現だったのでしょう。
担任と教務主任に伝えたことは以下です。
☆状態
・アトピーで、結膜炎や鼻炎もおこしやすいです。
・石けんの使用や丁寧な手洗いは、皮膚の乾燥と出血をまねきやすくなります。最低限にさせたい。
・家では、冬場は入浴も一日おき、下着やパジャマも、一日おきにしかかえないようにしています。
・本人は、先生の指示は守りたい気持ちが強いし、ピアプレッシャーもあります。
☆希望
・よって、アトピーであるために、「特別扱い」される部分があることをクラスのみんなに話してほしい。これは本人の意向でもあります。

これに対するお返事は・・・
「感染症の心配もありますし、清潔にするのは基本的な生活規範ですから、こどもたちに教えなければなりません。でも、本来自分の身を守るための行為が、かえって自分の体を傷つけることがあっては、本末転倒です。世の中には、いろいろな条件の人がいる、それは当然だとおもいます。クラスにも『いろんな人がいるよ』となげかけていきたいと思います。でも、アトピーであることを話すかどうかは・・・そこまでこどもたちが理解できるかどうかわかりませんし、あまりに彼だけが特別にめだつような話をするのは避けたいと思います」とのことでした。
そこで、教務主任が「水に手をぬらすぐらいなら、大丈夫でしょうか。だったら、ちょとでも、ぬらしてもらえれば『洗っていることにはかわりない』でおせますから」と口をはさみました。
「先生、ありがとうございます。たしかにそれなら説明する必要はなくせます。でも、まだ彼は小学1年生です。先生の指示を『ちゃんと』まもりたい年齢です。そうした『ごまかし』は、本人にも、また周囲のこどもたちにもさせたくないと思います」と答えました。そして、担任にむかっては、「先生、たしかに小学1年生にアトピーを説明するのはむずかしいかもしれません。でも、わたしはむずかしいながらにも『いろんな人がいる』と理解するためには、具体例をあげて説明していくことが重要だとおもっています。『いろんな人』がいることを実感できるのは、さまざまな具体的な事柄をつみかさねたうえでこそだと思います。ぜひ、アトピーであることを説明していただきたいです。本人は、自分でも状況が説明できるようになっています。補足説明は自分でできます」とつたえました。
すると、担任は
「そうやって、○○だからと限定して生活するのは、どうかと思います。『この子は特別』ではなく、『ふつう』におなじようにやっていけるということが、やはり学校生活の中では重要かと・・・」とやんわり答えました。
それで「先生、世の中は結局、特別な人ばかりです。どんな子も、さまざまなところで特別扱いが必要です。学校における『みんないっしょ』は、必要なケアをうけれられなくするケースが、十二分にあります」といったのですが、もう、あわれみの視線をあびてしまいました…。

<世の中は、「特別扱い」が必要な人ばかり>
たちあっていた教務主任――彼はひっくんが不登校になりかけたときなどにも担任や管理職と一緒に話をきいてくれた一人ですが、「たしかに、ぼくもあれから、おかあさんのかしてくれた本なんか読んで、おかあさんのおっしゃることが、最近ちょっとずつ、わかってきました。どの子もみんないろんな要素をもっていて、どの子も特別扱いを必要としてますよね。程度の差こそあれ」と言ってくれました。でも、担任はちらっと教務主任をにらみ(雰囲気的には、このおかあさんに媚びうってどーする的な(妄想か!?(笑)・・・)、「こどもをカテゴライズして、『特別扱い』するのは・・・」と不満そうでした。
むろん、これは一面、正論ではあるのです。でも、そんなことを言っていたら、結局「ふつう」の教育方法にどうにかこうにかのっかっていける子ども以外は、学校から排除されてしまいます。実際に、「ふつう」に扱われて困るのは、障害があったり、身体的な問題をかかえていたり、文化や言葉のことなる地域からやってきた人であったり、するわけです。家庭に教育力のないこどもも、やはり排除されてしまいます・・・。「公教育」を任じている「学校」が、そうした「学校適応可能な子」を前提に教育制度を構築するのは、どうなのでしょうか…。

<学校での「ケア」は、どこまでするのか>
「本校では、本来、投薬治療の補助をしません」。これは、「たくさんの子どもがいるから」「教員がそこまで責任をもてないから」「誤ってはいけないから」等々の理由があげられており、いっけんただしそうです。でも、だからといって、本人が「がまん」をしいられるのもまた、おかしな話です。医療行為の幅も昔はひろくなんらかの身体疾患をかかえる子をもつ保護者や、介護が必要な家族をかかえる人たちは、ずいぶん生活の幅を抑制されてきました。2005年の法改正で、やっと保護者以外の人もできる行為がふえましたが…しかし、こうした側面を公的福祉でまかなっていかないかぎり、障害をもたり、疾病をかかえたりする人は、つねに「いらない人」にされる危険につきまとわれます。横塚晃一『母よ!殺すな』(生活書院、2007年)は、脳性マヒである横塚さんが、障害をもってうまれた子の将来を悲観して殺害する母と、それに同情する社会のあり方を告発する書物です。「アトピーから、障害児殺害の話って、飛躍しすぎ!」と思われるでしょうか・・・。でも、ことの軽重はちがっても、構造は同じです。いや、そもそもアトピーは「かゆいだけ」と軽くみられがちですが、その理解されなさや容姿に対する悩む人もあり、他者の判断と個々人の感覚は、かなりことなります。
障害や疾病をかかえた子がいても、安心してくらせる社会を構築するためには、まず「障害」や「疾病」の特性を明言でき、その子たちがくらすために必要なケアを「特別扱い」としてではなく、「必要な扱い」として社会全体でになっていく体制が不可欠でしょう。
その「公的な場」の代表の一つとして、学校でどのようなケアが可能か、それをさぐっていくことは、学校教育にかかわるすべての人に課された課題だとおもいます。

<「医療」の権威>
さて、むろん、こんなしかめつららしい話ばかりではなく、雑談で笑ったりもしていましたが・・・。担任は「いま、ふっくんさんは、どんな治療をうけられていますか?」ともたずねてくれました。
「実は、昨年からステロイドをやめました」というと、これにも彼女は眉をひそめました。「私もステロイドが絶対ダメだとはおもっていませんが、6才にして最強ランクになりました。この先、ひどくなったらなにをつかうことになるのか不安でした。今はまだ小さくて、しょうしょう見た目が悪くても、かゆくて集中できないことがあっても、まだなんとかしのげるとおもいますし、私もついていることができます。また、大きくなって恋愛したり、長時間集中したくなったりしたときに、薬がききやすい状態を保持しておきたいって思いもありました」と言うと、ちょっとほっとした笑顔がみられました。なので「でも、先生、ステロイドの副作用や依存性を警告する医師もおり、こんなに安易に処方されていい薬品だとは、私はおもっていませんが」と、つい付け加えてしまいました。
学校の先生は、医学とか法学とかの権威に従順な人がおおいです(って、それが教育の成果ですし、そうした教育が徹底した人のほうが教員になりやすい社会システムになっているわけですから、当然ですね)。

<読売新聞の連載>
そうそう、また読売新聞がアトピーの連載をはじめたそうですね。moto先生が、さっそく、読売新聞2011年4月22日の記事の誤りについてと題してコメントされています(なんだか、もと先生のブログが更新されると元気がでます。みすてられてなかった確認というか・・・面識もないですが(笑))。また、取材をうけられたのは、ノブコフさんだそうで!!! ノブコフさんもまた、読売新聞・医療ルネサンスのアトピー記事と題して、当事者ならではの実感のこもった、でも状況を冷静にみつめようとするコメントをされています。
しかし・・・moto先生、ノブコフさんの指摘はもちろん、それ以外で、私が「どうなんですか?」とおもったのが、古江医師のコメント「生活指導だけで自然に治癒するのはごく一部にすぎない」の部分でした。「いや、そもそも標準治療で治癒する人だって、ごく一部じゃないんですか?」と、おうかがいしたいです。この標準治療の治癒率の問題は、moto先生も、佐藤先生もそれぞれのブログで何度も話題にしています。

<新聞記者の苦悩>  唐突ですが、竹信三恵子という朝日新聞の記者が、『ミボージン日記』(岩波書店、2010年)という本の中で、つねに広告スポンサーの意向や、世論の動向を気にするデスクによって書きたい記事が書けなかった主旨のことを書いています。読売でも事情は同じなのかな~とつい想像してしまいました。竹信さんはまた、そんな困難をのりこえて書いた記事に対して、読者からコメントをもらったときはとても勇気づけられるとも書いています。わたしたちはふだん、苦情のときだけコメントしがち・・・。そうかんがえると、ノブコフさんの記事を好意的に評価しようという姿勢は、記者たちを元気にするのではないかとおもいました。

<最近のふっくん>  さてはて、ふっくんのこれからの学校生活はいかに。また、報告します。 とりあえず・・・最近、彼は「おかーさん、ふけがでないように、ちゃんと頭洗ってよ」とか、ほかにもっとひどいところがあるのに「またのところがかゆいのが、いちばんやだ」と言っています。ふっくんは、乾燥しがちだから、頭の皮がむけるのは、すごくふつうのことなんだと話してはいますが・・・。
よい状態をたもっている右足を前面に。
でも、ここにきておちついています。
肘の内側も、ここ最近では、かゆみがすくないほうかも。
鼻も学校ではかんでいないよう。「ゴミ箱がない」といいます。「また、副鼻腔炎になって耳鼻科がよいがはじまるのいやでしょ」「はなは、かもうよ」と、机にかけるようにビニル袋をもたせましたが、使っていません。ひっくんは、教室の図解つきで、ゴミ箱の位置を説明していましたが、ふっくんは、こんどは「とおすぎる」と。
はじめて出会うクラスメイトたちにどううつるのか、彼なりにきっと真剣なんですね。やっぱり、「アトピーの状態」について、学校でちゃんと話してほしいな~。
目薬については、なんと先週から自分でできるように練習しはじめました。これも先生にいわれたのかしら。なんとなく、今週は、ふっくんがいじらしい反面、これまでずっと「ひっくんの参観は心配だから行きたくなるけど、ふっくんの参観は単に楽しみで行く」なんておもってきましたが・・・どうやら、それは、まちがいだった気がしてきました。学校生活は、アスペルガーであろうと、アトピーであろうと、なんらか「人とちがったところ」をもつ人にとっては、「苛酷な場所」だと、あらためて思います。
あ~~。担任の先生の「ふつうが一番」感覚を、どうしたら揺さぶることができるでしょうか・・・。難問です。

PS. でも、今日かえってきたふっくんは、「今日は、学校にいったらぼくの席だけ、ビニル袋がついてたんだよ。鼻かんだらここに捨てていいよって。先生も、花粉症がひどかったときがあって、ぼくの気持ちがわかるんだって。目薬も今日は、先生が「さそうか」っていってくれた!」と、うれしそうでした。ありがたいことです。
やっぱり「できる」し、人柄もいい先生なんだ・・・。
だったら、よけい「障害学」に「オルグ(!?)」しなくちゃ(笑)。

2 件のコメント:

  1. 日本は普通であることが当たり前で、そのレールに乗っているうちはとても住みやすいのだけど、ひとたびレールから外れるといかに住みにくいかと痛感しています。「常識」という言葉がこの国の理性を育て、「常識」という言葉がこの国を窮屈にしている、そんな気がします。

    病気になったとき、というよりなる前にぼくは堂々と休める環境が必要だと思いました。しかし現実は、病気になることはまるで何か悪いことをしているような雰囲気で、患者は責任感、罪悪感、劣等感、さまざまな感情に押しつぶされさらに病んでいく。普通でいることが当たり前。病気になれば薬で抑えることが常識。薬を使わないことは医療放棄。責任放棄とみなされる。そうしてみんな潰れていく。休めるのは身体が限界に達したときだけ。その時には仕事を辞めるしかなくなっている・・・・。

    話が飛躍しすぎかもしれませんが、学校は社会の縮図、おっしゃるように普通でいることを先生は指導しなければならない・・・。ジレンマもあるでしょうが。障害や病気を抱えた子には住みにくい世界が出来上がってしまっていますね。

    難しい問題です。アトピーのことを考え勉強していると、この国の抱える様々な問題が見えてきます。子供たちが生き生きとすごせる社会になるように、何か声を上げていきたいです。

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  2. ノブコフさん、こんにちは!
    気づくのが、おおはばにおそくて、ごめんなさい。

    コメント、しみじみ「そうだよな~」と思いながら、拝読しました。

    ほんとうに「むずかしい」問題です。
    でも、アトピーをとおして、社会的な構造の不備を把握し、それに対して声をあげていけるということは、ある意味、ほかの「障害」や疾病をかかえるみなさんを楽にすることでもあるし、実は、みんなが安心してくらせる社会をつくっていくことにもなりますよね。

    そうおもって、くじけず、すすんでいきましょう!
    ノブコフさんのブログや、社会的活動もたのしみにしています!

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