2010年12月3日金曜日

「感情表出」と「社会規範」

2010年12月3日(金)
<きのうのふっくん…>
おふろあがり、「きょーも、マキロンにする~」とさしだす腕をみたら…。
「ちょっと! これ、とびひになってない!?」
きのうまでは、ぽつぽつひろがる赤い発疹の頭がけずれていただけでしたが、
今日は、水疱もまじっているし、けずれたてっぺんに黄色のかさぶたがくっついています…。

しもやけのうえに、とびひかよ~。もう、ふんだりけったりじゃん…。
「テラ・コートリルがあったから、それぬろ~」とみたら…
しらなかった…。これもステロイドいり…。
「ゲンタシンもあったはず…」とさがしたら、未開封のが1本みつかりました。

ひじの内側がとびひ疑惑です。

「これぬっとくべ」
しかし、きのうは単に粉をふいて、しろいかきあとがみられただけの背中に、今日は赤い発疹がいっぱい。しかも、これもひっかいてかさぶたになっているところもあります。
足もかなり、ひっかきキズがめだつ…。
「ふっくん、ねんのために、まえにおー先生にもらった抗生剤ものんどこう」
(うわ~、もう、どんどんしろうと判断拡大…)


【脱線~とびひとステロイド】
息子たちがねてから、「ゲンタシンでよかったかな~」と「とびひ ステロイド」で検索してみました。またまた、いっぱい「とびひには、ステロイド」説が…。
「おいおい、アトピーの子がとびひになったとき、ステロイドぬるとひどくなるのに」とおもって、次は「アトピー とびひ ステロイド」で検索すると…「もともとアトピー体質の子がとびひになったときは、ステロイドは使用しない」という話もでてきました。
しかし、小児科と皮膚科で「とびひにステロイドはだめ」「とひびには、ステロイド」とちがうことをいわれて、困惑しているおかあさんも…。なんか…いつでも、どこでもステロイドですね…。


<いっていいこと、わるいことの境界>
さて、さきほどの続きですが、ひっくんが「いいな~、ふっくん。くすりいっぱいのめて」といいはじめました。
ひっくんは、なぜかくすりをのむのが大好きです。
「じゃー、ビタミン剤でものんどけば?」
「いや、そーいうんじゃなくて、お医者さんからもらった薬がいいんだよね。まー、ふっくんみたいに、からだがかゆくなったり、きずだらけになるのは、いやだけどさ。あっ、かぜでいいや。かぜひかないかな~」
なんだか、怒りのマグマがふつふつ。
「そんな、かぜひきたくてかぜひいた人のめんどうなんか、おかあさんみないから。かってにしてよね」とぷんぷん。
「ひとりでいるの?」
「とうぜんでしょ…」と、私の怒りはおさまらず、しゃべりつづけていましたが、ふとひっくんをみると、とほうにくれた顔であらぬ方向をみつめています。(しまった~。いやみいっても、この人にはつうじない…)
「ごめん。ほんとは、おかあさんがおこっているのは、かぜの話の前。あなた、もし誰かに「ひっくんみたいには、なりたくないけどね」って言われたらどうなの? それ、かなりいやじゃない?かなしいよ。人はいろいろ思うから、それは仕方ない。でも、本人の前で言っていいこと、悪いことがあります。どうしてもいいたかったら、あとで他の人にいいなさい!」

ふっくんが、いきなり「おかさ~ん」とだきついてきました。
(あ~、やっぱり、ふっくんは、ひっくんに「あんなふうになりたくない」って言われて、すごくキズついたんだな~)とおもいました。
(あぶな~い。いやみでおわらせなくて、よかった。ちゃんと怒っている理由いってよかった~)とも。
が、しかし…。私の態度は、これでほんとうによかったのでしょうか…。

<「感情」をどうするのか>
わきあがる感情を、制御するのはむずかしい…。
たしかに、私たちは感情をコントロールしています。が、それは表層的なものです。「顔で笑って心で泣いて…」的な。
より適切にいえば、感情表出をコントロールすることはできても、感情そのものはコントロールできないといえるかもしれません。
(もっとも、感情労働論においては、たとえば「心からの笑顔」をもとめられたとき、しだいに自己の感情と労働上の感情表出規範にそっているのかわからなくなり、自己を阻害するといった話もでてきました…。と、ここでいま、ものすごく「感情社会学」とか「感情労働」についての本を手にとりたくなっています。が、禁欲します。ほんとーに仕事がたちゆかなくなりそうです…(泣)。
みなさん、すみません。また時間の余裕のあるときに、ちゃんと文献参照しつつ、ここかきなおします。でも…いまの気持ちだけ、整理させてください)

<「社会規範」に従うということ>
とりあえず、いまもやもやしていることをかきます。
私は、こどもたちに発したメッセージは以下の三点です。
①なにかを思うことは、よくもわるくもない
②しかし、それを誰かに伝えるかどうかは、判断するべき
③円滑な人間関係のために、沈黙するか、こっそりいうことを奨励

①「なにかを思う」そのことに価値判断はつけられません。なにかを思うことに対し、いちいち「道徳的」あるいは「社会的」価値判断をつけていたら、自己否定的な人生をおくらざるをえない…。
ここは、問題ないとおもいます。
②「わいてきた感情、きもちを表現するかいなかを判断する」…これは「社会的な規範にてらしあわせて考えろ」というメッセージです。
私は、昨晩「自分だったら、どうなのか想像しろ」とひっくんにせまりました。が…ひっくんは、アスペルガーです。「置き換え想定」は小さいときから大の苦手。そのことで、小さいときからさんざ叱って、アスペルガーだとわかったときに、「いままで、怒ってごめん」と私はひとりで大泣きしたはずです。そして
「タブーとされていることも、口にして、はじめてわかりあえることもある」「ことの本質をかたりあういい機会になるかもしれない」と考え直し、またそうも教えてきました。
それなのに、再び、私は彼に「人の気持ちをかんがえろ」としかりとばしている…。
この矛盾を、ぴーふけ、あなた、どうするんですか?
いや、たしかに「ソーシャルスキルとして、それ教えるのは大切ですよ」と弁護してくださる方がいらっしゃるかもしれません。
③「沈黙するか、こっそり言え」は、まさにスキル伝達です。
しかし、人に「沈黙をしいる」ってけっこう抑圧的ではあります。それだったら、「こっそり言え」のほうがいい。これ、「陰口」のことではありますが…。昔は「陰口」は「きたない」「ずるい」「はっきり本人にいえばいい」と私のなかでは大きな「タブー」の一つでした。
が…いまは、これ、けっこう人をエンパワーさせる強力な方法ではないかなどともおもっています。
ただし、これはエンパワーはされても、根本的な解決はうみません。
社会生活は円滑にすすむ方法の一つではありますが、それだけといえば、それだけです。


<「規範」にそわない選択肢>
もう一度、私の態度をふりかえります。

ひっくんが、「かゆくなったり、きずらだけの身体になるのはいやだ」と言った。
私が、「本人にそれをいうなんて、ひどいことだ」と怒った。

しかし、私には、ここで「怒らない」という選択肢があったはずです。
むろん、怒ったことで「ふっくんは、救われたんじゃないの?」と弁護することは可能かもしれません。
でも、ふっくんは「味方してくれた」とは感じても、「アトピーはいやなことだ」というメッセージと、もうひとつ「ひっくんは、『思いやりがない』」というメッセージも同時にうけとってしまったとおもいます。

私が怒ってしまったことで、発したメッセージは3つです。
a.「かゆくなったり、傷だらけな身体であることは、わるいことである」と私が認めている。
b.「だから、それは悪口だ」と私は判断した。
c.「おもったことを、そのまま口にする前に、いったんかんがるべきだ」と私が考えている

しかし…そもそも、「かゆくなったり、傷だらけな身体であること」は、ほんとうに「わるいこと」なのでしょうか?
「おもったことを、そのまま口にすること」は、そんなに「いけないこと」なのでしょうか。
そうかんがえると、ほかの選択肢としてなにがあったか…

b’.「かゆくなったり、キズだらけだと、どうしていやなの?」と、私はひっくんにたずねかえすことができたはずです。そうすれば、ひっくんが外部からみた「アトピー」への感想を話すことができました。ふっくんが「実体験として、自分のつらさ」について話すことも可能になりました。3人で、「アトピーって、なんだかね~」とはなして、つらさを共有したり、その状態を肯定したり、できていたかもしれません。

b”.「いまのひっくんの言葉、ふっくんどうおもう?」と、ふっくんにたずねることもできました。
そうすれば、ふっくんがひっくんに直接自分の気持ちをつたえることができました。「それを言われるのは、いやだ」とか、「でも、ぼくは平気だよ」とか…。いずれにせよ、「アトピーをどうとらえるか」という会話は、はじめられたようにおもいます。

私が怒ってしまったことで、私は「アトピー」を話題にするきっかけをひとつつぶし、ふっくんが「自分で発言する」機会もうばってしまいました。
しかも、ひっくんの「おもったことを、口にした」ことは、彼の口をでた時点ではなんの意味もおびていなかった。それを「悪いこと」と価値付けたのは、「悪いことだと」怒った私です…。
怒られるべきなのは、ひっくんではなく、私のほうでした…。

でも!! いくら「おかあさん」がわたしの主要な属性の一つでも、わたしもただの人ですから、わきあがる感情に、善悪判定をもちこんじゃいけません!(笑)。しかたない、怒れちゃったんですから…。
でも、いまから修復することは、可能かもしれません。
いきなり「ごめん、きのー、おかーさん、態度まちがえてました」と話し出すのも…(これ、けっこう頻繁に使うので、さいきん、息子たち、インパクトをもってきいてくれなくなりました…(笑))。
そうだ。今日ダンくんたちが、かえってくるから、「そいうえば、きのうね~」と報告形式で誘導してみようかしら。ただし! ダンくんは、話を最後まできかずに「こうすればいい」と結論だけ宣言しがち…。「ここに誘導したいんだから、たのむよ」と先に話しておこうかしら…。でも、そんなことしたら、たぶん彼が「あれなー、あんたらのおかーさんが、まちがっててんで。あそこで、怒らずに、はなさんと…」などと自分で主導権をにぎって会話の場をつくりそうな気も…。まっ、それもいいですね。

【脱線~ぐちの効用】
「陰口やぐちは、けっこういいよ」について…。
私も、むかしはきらいだったんです。「ぐちぐちいう」とか「陰口こそこそ」とか、軽蔑してたんです。ところが、あるときいつもアハハと笑っている元気な女性としりあい…。彼女があるとき、
「ぐちとか、かげぐち、ばかにしちゃだめだよ。私も昔はそうおもってたの。家もきびしくてそういう行動が許されなかったし。でも結婚してみたら、彼の家がすごいの。ぐちと陰口の嵐。はじめは軽蔑してたんだけど、でも彼の家族のほうが、私の家族より明るい。かぜとおしもいい。すごい悪口いってるくせに、悪口の標的にしていたその人をまるごとうけいれてるっていうのかな。ある意味、健全だってきづいたんだよ」というような話をしてくれました。そうかな~と半信半疑でしたが…。
仕事でであう人たちが、みんなひとりでかかえてくるしんでいたり、だれにもいえない間にちっちゃなことが巨大化してのしかかっていたりするのをみるにつれ…「はなしましょう」「ぐちぐち、いおうよ」「ぐちは、いわないと!」とどんどん態度がシフトしてきました(笑)。

そうそう、「ぐち」つながりで…。上岡陽江、大嶋栄子『その後の不自由-「嵐」のあとを生きる人たち』(医学書院、2010年)、すばらしいです。これにも、「ぐちをいおう」って、書いてあります。
また、ちょうど読んだ翌日に、オーバードーズ経験者の知人がやってきました。「いいところに!きのうこれよんで、おすすめしたいと思ってたのよ~」と。
そして、ふたりで「ブラバ注意!」とわらいながら、「一緒だ〜」と泣きながら、よみました。
作者さんにおつたえしたい…。すくなくとも、確実にひとり、この本にすくわれた人がいます。きっと、もっとたくさんいます。みなさんもよかったら、よんでみてください。

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