2010年12月21日火曜日

医療秩序-「標準治療推進記事」批判-

2010年12月21日(火)

<おふろで…>
まだまだ、「芳泉」ねづよい人気です。もっとも…ふっくんのみならず、私までこの冬はしもやけもできちゃったし、効用のほどはどうなのか!? よくわかりませんが、とにかくおふろが赤くなるのが、人気の秘密…(それだけかよ〜(爆)だとすると、コストがかかりすぎです…(涙))。
でも、みっくんも「きょうも、『シャア』おふろにいれようね〜」とはりきってますから、当分、つづきそうです
私の自信作、ザク。
すごい不評ですが…
(もともとは「芳泉」、むすこたちによって「赤いの」とよばれていました。で…「シャア」に…(わからない方、ごめんなさい! 写真がヒントです!これは、「ザク」ですが…(笑)))

脱線しました。
で、そのお風呂で、みっくん、唐突に「あ〜〜〜〜っ!!! ふっくん、すごくきれいになってきたね〜」と感嘆したように言います。ひっくんはもうちょっとさりげなく、ふっくんがおふろに入ってきたときや出て行くときに、「あっ、よくなってんじゃん」と、こちらもやはり、たいてい一回言います。ひどくなっていても、言います。
私は「機械的にいうなよ」って、ふっくんの反応をうかがうことがあります。
「みっくん、それちょっと、驚きすぎじゃない? わざとらしくないか?」なんて思うこともあります。
が…。例外なく、その言葉をかけられたときのふっくんはうれしそうです。
返事をしないときもありますが、顔つきは「へへっ」と笑っています。
あきらかにひどくなったところがある日は、「うん、そうそう。ここはちょっとひどくなっちゃったんだけど、こっちは、すごくよくなってるだよね」と意気込んで、なおってきた場所をさし示します。
そして、再び、遊びにもどっていきます。

ひっくんとみっくんは、なにをおもって、ふっくんに毎日、そうした声をかけているのでしょう。
もしかしたら、それはふっくんの肌状態への評価ではなく、ふっくんへの応援メッセージとしてはっしている言葉なのかもしれません。
だからこそ、ふっくんも「よりしのぎやすくなった部分を積極的に評価していく」ことにしているのかも…。

今晩は、みっくんが先に歯磨きがおわり、「ふっくん、アイスノンだしとこうか?」とききました。
ふっくんが「最近、そんなにかゆくないから、いらないよ」と返事をしていました。
ひとりっこの私にとって、ちょっとうらやましい光景です。


左足膝下の皮膚はもりあがっています。
じくじくも、なおりません…。

 なお…相変わらず、足マッサーの日々はつづいています。が…ひっくん・みっくんの足は、冷たくてもマッサージすればすぐにぽかぽか温かくなってきます。が…ふっくんの足は、マッサージしてもじっとり汗ばむだけで、なかなかあたたかくはなりません。冷え性の人がしもやけになりやすいのは、足がつめたいのに足に汗をかくからと読んだことがあります。う~ん。
ふっくんは、「もう、アトピーどうでもいいけど、しもやけどうにかしたい!つめたくなるとめちゃくちゃ痛い」と怒っています。アトピーがその程度の存在になって、よかったね(笑)


<社会的相互行為としての発話>
さて…息子たちの会話をきいていて、会話とは「会話分析」でいわれているように、発話が単に現実を表現しているわけではなく、その場における一定の機能を担っていること、さらにそれが受け手に了解され、それに応答されることによって、はじめて相互行為として遂行されるのだと実感しました。

ごめんなさい。いきなりどうしちゃったの!? でしょうか…。
実は、「ぴーふけのブログ、ときどき意味がわかりません」というメールをいただくことがあります。
「そんなむずかしいこと、書いてないし、書けないし…」と思っていましたが、先日「朝日新聞の記事をどうして信じてはいけないの?」ときかれ、やっと私なりに「これか~!」と気づいたことが…。


これは、たとえば…「やっぱり、子育ては女性の仕事だよね」「うん、母性愛があるから」なんて話でもりあがっているときに、「母性愛って、本能ではなく、学習結果だよ」とつっこまれたときの「意味のわからなさ」に通じているように思います。
「母性本能」を前提として話している人に、「母性は本能じゃない」とつっこむことは、会話の行方をみうしなわせます。なぜなら、「前提」としている人にとって、そのつっこみは、複数の思考を同時にせまるからです。
「母性本能」それ自体の真実性への問い、「母性本能言説」を信じる自分の立場への問い、会話の流れを中断されたことへの違和感…などなどです。
通常、私たちはあまりにもその前提を信じていると、ある問いかけが自分に複数の思考を促していると関知することすら困難になります。どこから、考えていいのか検討もつかなければ
「意味がわからない」となげだす他ありません。
というわけで…江原由美子『ジェンダー秩序』(勁草書房、2001年)の2章「ジェンダーの社会的構築」(pp.26-61)に基づいて、説明してみます。

(関心のない方は、次の<「標準治療」キャンペーンの罪>にとんでください)


<二つの言説分析-「ジェンダーの社会的構築」より>
江原さんは、「ジェンダー」を社会構築主義の立場からかんがえています。「なんでもかんでも社会構築主義で切れるとおもうな!」という議論はありますが…「既成概念」を問うためには有効な手段だと私はおもっています。 

「社会構築主義」について江原さんはバーを引用して定義しています。
「『社会的世界は、社会過程の所産であるので、その世界や人々には何らかの決まった、一定の特質はありえない』『事物や人々を今ある通りにしている、それらの内部の『本質』は存在しない』という立場から社会的世界の考察を行う立場」(p.28 )をとりあえず、社会構築主義としましょう。

で、この「社会構築主義」では、言説分析ということをよくします。江原さんは、バーをもちいて、これには二つの立場があると分類しています(p.29)。
①広く流布し、多くの人々にとって「利用可能」になっている諸言説
②具体的な社会的相互行為の場において、行為を遂行することに関わる諸言説
この分類をしたバーは、①を「構造主義やポスト構造主義などのフランス哲学に基づくもの」、②を「言語行為理論・会話分析・エスノメソドロジーの影響下にあるもの」(p.31 )と区分しているそうです。

ものすごくおおざっぱにいってしまえば、①は法律や宗教、医学や心理学、哲学などがどんな言説をうみだしてきたのか、どんなものが「真理」として人々に使用されているのか、に関心をもつ立場です。たとえば…「女性には母性本能がある」とか「女性にはペニス願望がある(フロイト)」とか、いまでは「常識」と理解されている「言説」にはなにがあるのか…。その「言説」がどのように私たちの行動を規定するのかといったことです。
行動規定の具体例としては、「女性には母性本能がある」という言説は「こどもといる幸せな女性」という「イメージを形成」すると同時に、「女性が子育てをすべきだ」という「義務」と「女性は子育てを優先していい」という「権利」が発生します。
と同時に、女性とは異なるカテゴリーにはいる「男性」に対しては、「異なる権利と義務」、つまり「子育ては女性にまかせていい」という「権利」、「そのかわり働け」とう「義務」が発生します。
つまり、一つの言説は、社会の人々に対して「イメージ形成」と「カテゴリーによって異なる責任と義務」とを生み出すことになります。

②はもうすこし複雑で、ひとかたまりの会話の流れの中ででてくる言葉の背景には、どんな「常識」があるのか、その「常識」のために、どんなイメージや行動規範が形成されていくのかに関心をもつ立場です。この場合、「言説は、『相互行為を組織化する』働きをするものとして把握」(p.44)されています。どのように「組織化」するのか。それは、「相互行為の遂行に関連して行為者が成員に対して適用しうるカテゴリー化装置」(p.36)の中で、なにを選び取り、どう行動するのかに関係します。
カテゴリー化装置とは、発話者をどう分類するかといった問題です。私はたとえば「中年女性」「母親」「有職者」などなどの属性をもっています。
さて、あるとき、私が家をかりよう不動産会社をたずねました。社員は、ひたすらダンくんにむかって話しかけます。こうした行動は、「借り主としてふさわしい有職者」と自身をカテゴライズした私を社員は無視し、「借り主としては不適切な中年女性」とカテゴライズしたと判断できます。実際、「女性とは契約しない。名前だけでも男性名義に」といわれ、さかんに「同じ男性として」の賛同をダンくんに求めていました。
つまり、このときの一連の発話にうめこまれていた言説は「契約履行者として、女性は不適切である」というものであり、「男性」としての「義務と責任」を同志としてダンくんに求め、それを越境しようとする私に、「女性」としての「義務と責任」を想起させようとする行為があります。

江原さんが『ジェンダー秩序』の2章でいいたかったことは、「言説」が人々の会話や行動を規定し、また人々の会話や行動選択は「言説」によってあらかじめ規定されていると、だから「ジェンダー(性別役割など)」が秩序化されているという指摘です。


<「標準治療」キャンペーンの罪>
さて、私は医療もやはり言説によって規定されているのではないかと思います。
「ジェンダー秩序」の中に「男役割」「女役割」がうめこまれているとするならば、「医療秩序」として「医者役割」「患者役割」がうめこまれていると想定できるとおもうのです。
そして、この「医師」と「患者」は、「男」と「女」のようにやはりその「イメージ」とわりあてられる「義務と責任」は同じではありません。
「医学は科学である」「医者は専門家である」などという言説があります。

*なお、江原さんはギデンズの<専門家システム>も紹介しています。「科学技術上の成果や職業上の専門家知識の体系のこと」をいい、私たちは、本当に安全なのかぼんやりとした知識しかないにもかかわらず、「専門家知識」を「信頼」し、「対面的行為を行ったこともない人々との間に」、「社会的関係を構築していく」(p.53)と書いています。
私たちが、なんとなく信じてのる電車、上層階までいく高層ビル、正義だと信じてかけこむ警察、治癒してくれると信じて受診する病院、知識がえられると信じていく学校…などが該当します。それらの「専門家知識」はおうおうにして私たちの信頼に応えてくれますが、ときどき「脱線事故」「欠陥工事」「警察の不祥事」「薬害」「アカハラ」などで裏切られます。ニュースにならない小さな裏切りは、もっと頻繁に、身近におこっていることは、おそらくその組織内にいる人なら、みなれた光景だと思います。

「医者」とは、一般に「専門家」としての権威を認められています。医師のイメージは、「専門職」「科学的」「知的権威」などではないでしょうか。
その対象となる存在、「患者」はどうでしょう。「医師に助けを求める存在」…基本的に、医学に「無知」な存在としてイメージされています。
だからこそ、「患者」とは「医師」によって「啓蒙」される存在となりえます。そして、これらの役割が転倒することのないよう、「医療秩序」は私たちの生活にうめこまれているように思うのです。

この冬、朝日新聞や読売新聞は、アトピーの特集において「標準治療の推奨」記事を書きました。「アトピー性皮膚炎の治療にステロイドを用いることは、医学的にうらうちされている」という言説の流布に一役買ったといえます。
これは、「専門家」の知識を、「専門家」のスポークスマンとして新聞が、無知な「非専門家」を「啓蒙」する行為だと考えることができます。
この記事は、暗黙裏に、医師には、「標準治療を保証する義務」と「医療者としての権威を示す権利」を与える一方で、患者には、「標準治療に従う患者としての義務」と「標準治療によって治癒する権利」を与えました。

一般の「非専門家」である読者は、新聞の紙面を自分の「知」としてとりこむことで、「専門家」に一歩ちかづけるという幻想をいだきます。
新聞記事上の「標準治療」の存在を知っている自分は、「標準治療」をしらない人々より、一歩「専門家/医師」に近い存在だと考えるわけです。
するとどうなるか…「標準治療」を否定する人、しらない人を、自分より「非専門家」であると認識し、その知識を「啓蒙」しようとします。
つまり…「標準治療」を言説分析的にかんがえれば、人々のイメージの中で
・ステロイド使用に賛成する人=医師=科学的知識の持ち主
・ステロイド使用を危惧する人=患者=無知な人
という図式が成立してしまっています。そこで、「患者」の立場にたつ人が、ステロイド使用に賛成すれば、「患者にしては、勤勉な人/誠実に治療にとりくむ人」と「ふつうの患者」から、一つステップアップします。しかし、否定すれば「無知な人」=「患者のくせに不勉強な人/治療に熱心ではない人」というイメージが強化されます。
いくら、患者がふつうの医者なみに勉強していたとしてもそれは、了解されません。「患者」というだけで、すでに行動規範が規定されているからです。

では、医師が、ステロイド批判をしたらどうなるのか。これはみなさんもよくご存じのように「アウトロー」「逸脱者」扱いされるだけならよいほうで、「アトピービジネスの加担者」「医師として不勉強」などと罵倒されることになります。おそらく、「医師」としての「権利と義務」を放棄した存在とイメージされるからです。
(むろん、現実にステロイド依存でくるしみ、脱ステですくわれた患者さんやその家族の人は、ちがいます。が、それは残念ながら多数派の人ではありません。しかもその脱ステ者は、社会ではみえにくい存在です。アトピーに関心があり、かつパソコンの扱いになれている人々には、「みえる」存在というだけです…。「みえにくさ」の理由は以下で書きます)

さらに、新聞記事の中では、くりかえし「医師の指示にしたがってステロイドを使用すること」、かってにやめたり、塗る量や薬の強さを「素人判断」でかえるなと強調しています。この記事がつたえるメッセージは「患者たるもの、医師に従順であれ。それでなければ、苦しむのは患者であるおまえだ」との脅迫です。

くりかえしますが、「標準治療」キャンペーンは、医師には「標準治療に責任をもつ義務」と同時に「医師としての権威を示す権利」を与え、患者には「治癒する権利」を与える一方で「医師に従順である義務」をおしつけます。
では、「治癒する権利」を与えられたにもかかわらず、治癒しなかった場合、どうなるのか。「標準治療」キャンペーンをになった人たちは、反省してくれるのでしょうか。
残念ながら、反省しません。彼らは「あなたのアトピーが人並みはずれて重症である」と判断するか、「医師の指示をまもらなかった」あるいは「医師の選択をまちがえた」と批判するでしょう。いずれにせよ、「治癒しない患者」場合は、たとえ「標準治療」にしたがったとしても、「権利放棄した存在」=「自己責任を問われる」ことになります。


「標準治療」キャンペーンの罪、それは、たんに「ステロイド依存にくるしむ人がいる現実を隠蔽する」それだけにとどまりません。
「標準治療」を新聞社が支持するということは、「標準治療に従順であれ」(=「医学に従順であれ」)という言説を強化し、治癒しない人を「自己責任」としてせめることに加担しているのです。
朝日の記者が特集した理由を「アトピー治療に対する疑問にこたえたい」「現在の医学で分かっている情報をできるだけ正確にお伝えしていきたい」と書いていますが、その「疑問に答える」「情報を正確に伝える」という態度から、実際にかかれた記事は、大きく逸脱しています。


ノブコフさんが以前、「脱ステ」をすると話したら上司にひどく叱られたというコメントをくださいました。上司が「一般常識」の持ち主であれば、新聞が「標準治療」を喧伝する以上、当然の帰結だと思います。
上司は、「標準治療」という存在を知っていることで、自分が「知的権威」に近い存在だと信じていたと思います。ノブコフさんの「脱ステ宣言」は、表面上は「ノブコフさんの治療方針」についての話だけです。しかし、上司には「あなたの信じている「知的権威」を、私は信じていない」、つまり「上司である自分の『知識体系』への批判」として感じられます。
上司にとっては、もはや問題は、ノブコフさんのアトピー治療ではありません。自分の「知識」をとわれる問題へとすりかわります。「ぼく、そういうことには、知識がないんだよね」と気負いなくいえる人にとって、ノブコフさんの「脱ステ宣言」はなんら問題にならないでしょう。が、おおくの人は、自分の信じていることを疑問視されたとき、いごこちの悪さと、不安感をいだきます。自分の信条を変更するよりは、人を批判する方が、自分の安定感は保てます。

<専門家システム>を疑うことなく信じている人は、専門家の提示する意見を貴重なものとして無批判にうけとります。それは、自分で考えることを「専門家」に委託した状態=思考停止状態です。12月6日に、中真生さんの論文を引用して書きましたが、疑うこと、問いをもつことなしに、人は思考できません。
「標準治療」を信じている限り、人は「権威ある医者がいうのだから」と自ら考えることを放棄できます。そこに「脱ステ宣言」をされたら…その人は自らの思考停止を、専門家依存を、怠慢だとして批判されたとうけとめるかもしれません。
さらに、「標準治療」に異議申し立てをするという行為は、「医学」という権威への異議申し立てと同義だとかんじ、「規範秩序」からの逸脱、「権威への反抗」としてうけとめる人もいると思います。「権威」を認め、「規範秩序」を維持したい人、誰かにかわって考えてもらたい人にとっては、それに反抗する人々はやっかいな存在です。

ブログや掲示板などで、ときどき、アトピー当事者でもその近親者でもなさそうな人が、脱ステをやっきになって攻撃する現象がみられるのは、こうした行動様式にのっとっているからだと考えられます。

結果的に、これらの「標準治療キャンペーン」によって、またおおくの脱ステ患者さんたちが、「沈黙」をしいられることになったと思います。あーちゃんのいう秘密結社、アンダーグラウンドの世界にもぐりこみたくなる…。そして、また「脱ステ患者」は社会から「みえにくい」存在となってしまいます。

新聞記者さんたち、反省してください。


<蛇足ですが…「医療秩序」が会話を規定する実例として>
息子たちのおふろでの会話をもう一度かんがえてみます。
「よくなってるね」とひっくんとみっくんの発話を、①の観点でみるとすれば、「病人とは回復すべきものである」という「言説」にのっかった発話だと措定できます。その背景には、「近代医学の高度な発展」「病気の状態を判断し、治療方針を決定する権威としての医学」といった言説もあるとおもいます。
②の観点からでは、どうでしょう。みっくん、ひっくんの発話は、どうやら場面転換や会話の変更を求めるものではないようです。ある意味「お約束」の履行。
この「お約束」の履行の背景には、「その言葉をいうと、ふっくんが喜ぶ」という了解事項があります。
ひっくん・みっくんの発話が「病人は回復すべき」にのっかっていて、さらにふっくんを「患者」という役割にカテゴライズしているとすれば、ふっくんの応答は、「回復にむかっている患者」というイメージをうけいれ、役割を遂行していることになります。つまり、「回復する」義務と責任をひきうけているといえます。
彼らの会話は、「病人は回復すべき」言説にのっかったものであるといえます。
言説とは、こうして幼いこどもといえど、私たちの生活を規定していく力をもっています。

むろん、ふっくんには「いちいちうるさい」とかえすなど、「怒る」という選択肢もあります。この場合、「よくなっている」という発話はふっくんによって「回復が遅いことに対するいやみ」と了解されたと解釈できます。しかし、これもやはり「回復する義務と責任」といった図式にのっかった行動選択といえます。

この図式からのがれられる唯一の応答としては、たんたんと「きれいになったかどうかなんて、関係ないんだよ」といいきり、以後ひっくん・みっくんの呼びかけに応じないという態度しかないように思います。
しかし、この応答は、人間関係を複雑化されます。予期される行動原理から逸脱するわけですから…。うちでもっとも、愛想のいいふっくんに、それは期待できないな~(アスペひっくんなら、無意図でする可能性高いですが(笑))。
でも、いつか「病人は回復すべき」言説からの脱却を意識する日がくれば、行動をおこすかもしれません(笑)。

4 件のコメント:

  1. お子さんがシャアを知ってるのがスゴい(^o^;)
    上司がシャアなら「認めたくないものだな。標準治療以外のアトピー治療など」といったとこでしょうか( ̄▽ ̄;)

    明後日荷物整理に職場に向かいます。どうも読売の記事が話題になってるようで気が重いです…

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  2. こんばんは。ノブコフさんもガンダムフリーク!? 
    うちは…おととしの暮れだったか、知人が初代ガンダムのDVDをワンセットもって遊びにきてくれたことがあり…。ダンくんと私はなつかしさのあまり、息子たちはある種の衝撃をもってガンダムを全編視聴…。たしかおおみそかに、掃除もせずにトイザラスに行って、ガンダムのプラモを4つ購入(まだ、みっくんはあかちゃんでした)。それ以来、私たち、HGからMGはおろか、PGもつくりました(むすこたちは、同じくガンダムフリークのケロロプラモもつくりました)。
    ちなみに私の携帯は、シャア。玄関には、充電用の赤いザグヘッドがおいてあります(爆)。
    バンダイに貢献してます(笑)。

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  3. ごめんなさい! ガンダムの話題で、最後の2行へのお返事、書き忘れました(汗)。
    う〜ん…たしかに…朝日に続いてですから…つらいところですよね…。私にもわからないですけど、
    「ご心配くださり、ありがとうございます!よかったら、『脱ステロイド関連の文献を読む』というブログを検索してみてください。ぼくの言葉も引用されてます!」
    と明るく答えて去るというのはどうでしょうか…。

    でも、ノブコフさんのこれまでの働きぶりを仲間として知っているみなさんですから、上司の手前、表立っては言えなくても、ノブコフさんの意思を支持し、応援してくれている人は、ぜったいにいると思います。

    ここはがんばって、ぜひ笑顔をつくって、元職場にむかってください!
    あさって、「なんか、けっこういい一日だったな」とノブコフさんが眠りにつけることを願っています!

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  4. ありがとうございます(^_^)みんないい人なんで気持ち良く見送ってもらえるとは思います。最後やししっかり挨拶して出てきます☆次の目標もある程度定まりましたから前向きに頑張っていきますよ( ̄▽ ̄;)

    ガンダムは初代からダブルZまで見ました(^_^)けっこう好きですね~。新作ユニコーンのレンタルが楽しみです☆

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