2010年11月29日月曜日

アトピー治療が「道徳的債務」になるとき…

2010年11月29日(月)
<アトピーに注目されるのが「重い」…>
昨日、ひさしぶりに実家にいきました。
おばあちゃん、ひとわたりみんなに声をかけると
「まぁ、きれいな顔になったね~。よかった」とふっくんのほうかがみこみました。
「うん…」と私はあいまいにこたえました。なんだか気が重い…。
「どれ、からだもみせて。どうなった?」とおばあちゃんはつづけます。
ふっくん、返事をしません。
おばあちゃんがさらに「みせてね。服めくっていい?」と声をかけても、返事をしません。
ひっくんが「だいじょうぶ、ふっくんの皮膚、すごいがんばってるから」と視線をあわせずにこたえます。
おばあちゃんは釈然としない様子でしたが、「ねーねー、おばーちゃん、お庭であそぼうよ~」と強引に手をひっぱるみっくんにつれられて、外にいってしまいました。
きのせいか、ほっとした空気が3人のあいだでながれました。


<「重さ」の理由>
おばちゃんが、ふっくんのことを真剣に心配してくれてるのはよくわかっています。
でも、なぜ、気がおもくなるのか…。保育園では、おむかえにきたおかあさん、おとうさんをつかまえて誰彼となく「ぼく、よくなったんだよ」とズボンのすそをめくってみせているふっくんが、なにゆえおばあちゃんには、みせたくないのか…。

 このあとたまたま、ふくむらしょうへいさんの原稿をよんでいて…「これか~!」としっくりくる引用がされていたので、孫引きしてみます。

「不便だから障害を補う工夫をする、というのは合理的なことだが、障害が克服可能であり、自分には能力があることを証明するために必要以上の犠牲を払って延々と克服努力を重ねるということになると、話は違ってくる。本来なら、障害を克服するために投入される努力は、不便が緩和される程度とのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはずだが、有能であることの証明作業という意味を帯びてしまうと、投入されるコストは歯止めを失う。そうなれば、事実上障害の克服を道徳的責務として受け入れたのと変わらない結果になる」(石川准「ディスアビリティの政治学─障害者運動から障害学へ」『社会学評論』50巻4号、2000年)

 「これのどこが??」とおもわれるでしょうか…。私には、この文章がこう読めたのです。
「不便(かゆみや痛み、見た目がたえがたい)だからアトピーの状態をよくする工夫をするというのは合理的なことだが、アトピーが克服可能であり、自分は完治するのだと証明するために必要以上の犠牲を払って延々と克服努力を重ねるということになると、話は違ってくる。本来なら、アトピーを克服するために投入される努力は、不便が緩和される程度とのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはずだが、有能であること(アトピーを完治させるための努力をおしまない態度)の証明作業という意味を帯びてしまうと、投入されるコストは歯止めを失う。そうなれば、事実上アトピーの克服を道徳的債務として受けいれたのと変わらない結果になる」

 おばあちゃんにふっくんのアトピーに関心をしめされるたびに私たちにながれる「重さ」の原因は、ここにあるような気がするのです。たしかにふっくんは、かゆみをつらがっています。しょっちゅう流血するのもうっとうしがっています。見た目だって気にしています。でも、あの人は「このくらいなら、ぜんぜん平気」と言う日もあります。彼なりにおりあえる「そこそこ」のラインをみつけ、アトピーをうけいれる体制をいっしょうけんめいつくっているのだとおもいます。


<「際限なく求める」ことのこわさ>
でも、おばあちゃんはそのふっくんのえらぼうとしている「そこそこ」をうけいれてくれないのではないか…。
「もっと、きれいな肌に」「本来、もっとかわいい子のはず」「まったくかゆみもなく、ひっかきキズもないすべすべお肌に」と、要求がどこまでもとんできそうです。そして、「もっとなんとかしようとしない、親であるあなたに責任があるのよ」、「アトピーをなおすために投入できるコストはおしむな」とつめよられそうな気配があるのです。
たぶん、わたしたちは、おそらく幼いみっくんも含めて、そんなおばあちゃんの視線をかんじとっています。だから、おばあちゃんがふっくんのアトピーを話題にしはじめると、なにげなくかわそうとする…。うちの母も、いつかご紹介した、孫のためにアトピービジネスにはまった友人の母と同じ心理なのかもしれません。

でも、これってこわいことだとおもうのです。ふくむらさんは、この引用といっしょにこんな文章も紹介しています。

「ここには『未来』がかかわっている。損得があらかじめはっきりしていれば、それはそれですっきりする。だがうまくいくかどうかわからない。しかし可能性はあるのだから、やってしまう。そして後になっても結局それが効いたのかどうか、何が効いたのか、はっきりしないこともある。…『うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。どうしますか』と言う。それで本人は考えて、『ではよろしくお願いします』と言ったりする。となるとこれは本人が決めたのであり、相手の責任は問われない。これからどうなるだろうという不安をみずから引き受けなくてはならない。
 このうっとおしさはかなりのものだと思う。しかしなかなかきれいさっぱりあきらめきれない。もしかするとうまくいくかもしれない。おかげでうまくいったと思われるような例がたいていいくらかはあり、その療法やそれを施す人の信奉者がいる。可能性はゼロではない。だからやってみる。コストはふくらんでいくが、それだけコストをかけたこと自体が、もう少し努力すればなんとかなるかもしれないという駆動力を与えることもある。(立岩真也「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』有斐閣、2001年、p.185)

 アトピービジネスにはまっていく心理と、まさにぴったり重なるのではないでしょうか…。

<「善意」の第三者>
そうした意味では…朝日新聞の「子どものアトピー」に登場する大矢医師がなやめるおかあさんにむけた「アトピーは努力がむくわれる病気です」
という言葉や、「継続したスキンケアや掃除などの環境整備は、お子さんの肌をつるつるに保つための出発点です」という言葉は、残酷だとおもいました。
 
 これは、おかあさんをおいこみます。
「じゃー、よくならないのは、私の努力がいたらないから?」とこの記事よんで涙したおかあさんは、ひとりじゃないとおもいます。この新聞に登場したおかあさんだって、「いままでした努力はまちがっていたから、いけなかったんだ」と自分をせめ、「だからこそ、ただしい努力をしなければ」とますますおいつめられるような気もします(やっと「ただしい」方向で努力できると喜んだともおもいますが…)。
 「母親としてのあなたの努力がたりないから」「努力の方向がまちがっている」とせめられた方もいらっしゃるかもしれません。まさに、医者から、実母から、ずっと私が言われつづけた言葉です…。

 この大矢医師にも、私の母にも、わるぎなんかないのはわかっています。「善意」の、でも、「第三者」なんです。アトピーとつきあわざるをえない「第一者」でも、その「第一者」と日常的にかかわる「第二者」でもないのです…。
だから…ハッキリ言って、この「善意の第三者」は、「無責任でいられる第三者」と同義です(ごめん、おばーちゃん!)。
 
<「あきらめる」からひろがる毎日>
 浜田寿美男(『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社、2005年、p.88 )さんは、こんなことを言っています。
「高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません」
 わたしには、「アトピーの完治」とは、「高すぎる不可視のハードル」におもえます。「そこそこの状態をたもてればいい」という「断念」「あきらめ」は、重要だとおもいます。
 わたしは、ふっくんが笑っていてくれるなら、かゆみにじゃまされず集中してなにかにとりくめているのなら(ふっくんは、3人のなかでいちばん工作など集中してする作業が大好きなのです)、かさかさだっていいし、ひっかきキズなんてあってもいいなと、おもえるようになりました。
「かさかさ」の皮膚が、人間関係を円滑にするネタになったり、親近感のみなもとになったりすることだってあるとおもうのです。
(たとえば、ダンくんは、私のかかとをみて「90のばーさんかよ」と笑うけど、でもそうやってネタを提供してさしあげているとおもえば、まーどうということもないです(笑)。でも…90才の方に失礼な表現ですよね。谷崎潤一郎のおくさん、松子婦人なんかたぶん、90才になっても、ふんわりかかとのような気がします…)。
 でも…「アトピーをすこしでもよく」とおもっているかぎり、私たちはアトピーにとらわれます。人生がアトピーに支配されかねません…。「皮膚かさかさだね」という誰かの一言が「ネタ」になるか、「欠点の指摘」とうけとるかでは、人間関係はかなり変化してしまうでしょうし…。
(私にしても…「人の足のかかとフェチ」でいるぶんには、なんの支障もありませんが、自分の足を「つるふわかかと」にしようとしだしたら…ブログなんて書いているひまがなくなるかも(笑)←かかとねたしつこい(爆)なお、私の身体的コンプレックスは、べつにかかとだけというわけではありません…)。
「そこそこで」とおもうことができれば、ほかにやりたいこと、できることがたくさん見つかる気もします。ノブコフさんも以前のコメントで、おなじようなこと、書いてくださいました。
「あきらめる」って、その線引きがむずかしいけれど、でも、重要だとおもいます。


そうそう、余談ですが…
<「なまえ」へのこだわり>
先日、ひっくんが「おかーさん、アスペってほかによびかたないの?」ときいてきました。
「えっ?いとちゃんは、高機能自閉症でも好きなほうでいいっていってたよ」
「かっこわる~。ほかには」
「広汎性発達障害?」
「なに、それ。ほかは」
「それの頭文字版、PDD」
「ださ~」
「じゃー、自閉症スペクトラム」
「もういい! アスペルガーがまだ、ましだな。それにしよう!」
すると、ふっくんも「じゃー、アトピーは?」とききます。
「皮膚炎? 湿疹? う~ん、なにかな~」とうなっていたら
「もう、おかあさん、しらないのかよ~。ぼくも、アトピーでいいや。じゃー、みっくんはなにかな~、かたかなの「ア」ではじまる病気なんかないの?」
「え~、アルツハイマー? でも、それこどもはなんないんだよね~、おもいつかないよ!」
「つまんないよ~」
「じゃー、アーデーでどう?」
「なにそれ?」
「別名ADHDのドイツ語よみの短縮形~」
「あ~。ADHDね、うん、みっくんそれっぽいじゃん。それでいこう!」とひっくん。
「なにかしってんの?」
「うちにある本にかいてあったよ。じっとしてられないとか、とつぜんなにかしはじめたりするとか、気になると後先考えずにやっちゃう…とかでしょ」
「まー」
「じゃー、それでいいじゃん!みっくんにぴったり!」とふっくん。
「これで、きまりだ~。アスペ、アトピー、アーデーきょうだい!」すごい、のりのりでした…意味不明…(爆)。おもしろかったですが…。
でも、かんがえてみれば、こうしてあの人たちは、自分の属性のひとつとして、アスペルガーやアトピーをうけいれる作業をしているのかもしれません。私は「障害は個性だ」説は、うさんくさくてちょっといやなかんじがしています。
でも、属性のひとつとして受け入れることは、大切だとおもっています。

*なお、「障害は個性だ」と当事者の方が主張される場合には、それなりの理由があるとおももうのです。でも、研究者や医療関係者などの「第三者」がそう主張するのは、「障害」をもつ人が快適にくらせるような環境整備に力をそそがない/そそげない現実へのいいわけのような気がして、ちょっと…。

<きのうのふっくん>
あんまり、よくなってはないかも…。でも、じくじくはなしです。
おふろあがりは、「マキロンぬる~。あれがいちばん、いいかんじ」と強く主張。というわけで、左足のすねのみ、マキロン。ほかはなにもなしでねました。

今日のポーズ!おふろあがりです。

2 件のコメント:

  1. 努力すれば絶対に良くなるという言葉はほんまに残酷ですね。20年間医者の指示通り薬を使って、アトピービジネスに多額のお金をつぎ込んで、それでも治らないから脱ステしますという決断をしたとき、「ちゃんと標準治療してないからちゃうの?」と言われました。それで治ってりゃ苦労せんっちゅうねん…と怒りを覚えたものです。メディアは良いと思って書くことに諸刃の剣があることを知って欲しい…

    ぜんぜん関係ないですが我が家はワンちゃんもアトピーです(^o^;)何か家にアレルゲンがあるのか…でも僕とワンちゃん以外は異常なし(>_<) 「かゆいなぁ~」って話ながら散歩してます(^_^)

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  2. こんばんは。
    たしかに…「努力」が好きな人、いますよね。
    誰だったか、階層が高い人はいまの自分の地位を「努力のおかげ」とかんがえるが、ひくい人は「努力してもむだなことがある」とわかっていると書いていました。たしかに…医者になるような人は、周囲の環境がそれなりに整備されていて勉強にむかいやすい生活をしてきた人がおおいとおもいますが、そうした自己の背景は考慮せずに「努力したからだ」とかんがえる人、おおいでしょうね…。だから、「努力」を人にも強いるし、努力しようにもできない人や、努力の仕方がわからない人の存在が理解できない…。
    朝日新聞の記者さんなんかもエリートですから…。自分がなにかでつまづかないかぎり、わわからないのかもしれませんね。

    しかし、わんちゃんもですか…。そりゃ、犬もなりそうですよね…とおもって、検索してみたら、これまたたくさんサイトがありますね。
    でも、犬にたいしてのほうが、長期のステロイド使用を危ぶむ声が、飼い主にも獣医師にも多いような気がするのは、気のせいでしょうか…。
    犬もつらいとおもいますが、でも、ノブコフさんと「かゆいな〜」なんて、散歩できて幸せな犬だとも思います。
    そういえば…ぴーふけって、犬の名前なんですよ(関係ないか…(笑))。

    でも、犬がいるっていいですよね。私もちいさいときは、親にしかられたり、いやなことがあると、まっさきに犬にだきついていました。

    ノブコフさんも、わんちゃんも、「そこそこ」ラインがみつかりますよう!
    コメント、ありがとうございました!

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