2010年11月20日土曜日

「受容」と「自己決定」の困難

2010年11月20日(土)
<皮膚状態が、悪化しました>
あさ、ふっくんが「パジャマがくっついちゃって、ぬげないよ〜」と台所にやってきました。
手にかかえているアイスノンにまいたタオルは、ひさしぶりに血だらけ…。
「ちょっとそのパジャマ、上からぬらすから、そっとはがそう」
パジャマをぬぐと、左足のすねの皮膚は半径2センチぐらいの円状に5ミリくらいもりあがり、そのうえにコーンフレークのようなかさぶたがくっついています。
出血してくっついていたのは、その上にある、広範囲な湿疹でした。また、じくじくになってる…。
左足は、保湿剤をぬっている側です。保湿剤で、肘や腕、手の指はよくなったのに…。
肘の内側と足は、確実に悪化しています…。

椅子にたおれこみそうでした。
でも、ふっくんが私をみています。私はなんと言えばいいの?

やっと、「いろんなときがあるよ」と言いました。
ふっくんは、「そうだね」といきおいこんで、反対の足を私に見せます。
「こっちは、こんなにきれいになったもんね」

<「受容」という困難さ>
私は、むかしよんだ最首悟『星子がいるー言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』(世織書房、1998年)の一説を思い出しました。
重複障害の星子さんが、いよいよ失明することになったとき、夫婦の間でなかなかものが言えなかったときの心情を説明する部分です。
「星子が目がみえなくなったことについて、お互いに落ちこんでしまったら、悲しんでいたら、それは目が見えるほうがいいのだということを認めることになってしまい、そうすれば、耳が聞こえるほうがいい、口がきこえるほうがいい…(中略)と際限なく思ってしまうだろうという気がするのである。といって、目が見えなくなったことについて、平静にうけいれるとしたら、なんだかひっかかりがなくなって、脱人間になってしまいそうな気がする」(p.56)
そして、悲しければ悲しがったほうがいいが、その思いと、「星子に対する態度、接し方はおのずから異なる次元のことでなければならない」といいます。
重複障害とアトピーとでは、次元がちがうとおもわれるかもしれませんが、「アトピーをうけいれて、つきあおう」とふっくんに明言している私にとって、この最首さんの言葉は、そっくり私の気持ちでした。

「アトピーが悪化したことで私がおちこんでしまったら、それはやはりアトピーはよくなったほうがいい、ないほうがいい、健康なほうがいい、みためがきれいなほうがいいと際限なく思ってしまうのではないか」「でも、やはり悲しくて、私が悲しいと思えるのは「ふつう」だとおもう。だけれど、それをそのままふっくんに伝えるべきことでもない。ふっくんはふっくんで、アトピーが悪化しようとしまいと、同じふっくんなのだから」

最首さんは、べつのところで、「不治の病だと聞くと、私たちは生きる気力をなくしてしまう。またそういう人にどう付き合っていいかわからないのである。だからもっぱら隠して、そういう不安をもつ人にには、だいじょうぶ必ず治りますよと励まし続ける。ここが恐ろしい」(p.108)とかいています。つまり…自閉症やダウン症のような「治らない人」をわたしたちの仲間から排除することになるからです。
「治るほうがいい」「重度でないほうがいい」こうした気持ちは、誰しももってしまうとおもいます。しかし、これを「当然視」してしまうと、人に優劣をつけることになります(障害者間での差別は、これまでかなり激しいものがあり、とくに「就労可能か否か」で、就労可能な障害者は不可能な人を徹底的にばかにする傾向が報告されています)。

<「完治」を目標にすることで「排除」しているもの>
そういえば、ひっくんがアスペルガーだとわかった当初、自閉症・発達障害にかかわるおおくの講演をききにいきました。
そこで、医療者たちが「私たちの目標は、患者さんを納税者にすることです」と言うのを何度も耳にしました。
いや、私とて、ひっくんが納税者になってくれればほっとします。
でも、納税者でいるためにその自閉傾向をおしつぶし、薬づけになり、チックを多発しながらいくのだとしたら…、いやひっくんが「ぼくは、納税できるけど」と、重度の自閉症の子と差異化をはかったとしたら…。
それは、たえられないと思ってきいていたのを思い出します。
さらに、こうした目標を医療者がたてるということは、納税者に育てられなかった直接「療育」にかかわる保護者、納税者に育ち得なかった本人の自己責任にされかねません。いかにも「新自由主義的」社会観です。
この状況はきびしすぎます。

アトピーで職を失う、または職につけないなどの状況を肯定しろといいたいわけでは、もちろんありません。
アトピーで長期療養休暇がみとめられる、アトピーで生活保障が受給できる、そんな制度づくりが、どうしたら可能か、ほかの障害や疾病をもつ人たちと、どうしたらともに「運動」できるのか、そんなことも考えられたらいいとおもっています。

<「持論」への拘泥>
さて、「よくおー先生のとこいったね」「つかちに先生のところにも、いつかいってね」と応援メールをくださった方たちがいます。うれしかったのですが、すこし「行ってどうなのか…」とも思いはじめています。
人は、自分でまちがいを発見したときは素直になれますが、人からまちがいをつきつけられた場合は認めないのが一般的です。まちがいをみとめるどころか、うらまれる可能性もあります(皮膚科学会の権威たちの態度をみても自明ではありますが…(笑))。
よく考えれば、私はこれまでも息子たちの受診に際して「いいもらしがないよう」とメモを持参することがかなりあります。が「もってかえってください」といわれたのは、おークリニックがはじめてでした。私の人選ミスだったかも…と、かなり確信的になっています。いや、そもそも、もっと若い柔軟さをのこした人を選ばなかった時点で失敗だったのかもしれません。
そういえば、あーちゃんは脱ステ病院退院後、地元の皮膚科にいってみるとかなり若い医師が担当にあたったそうです。まったく脱ステに関心がなかった人であったにもかかわらず、あーちゃんの話を熱心にきき、彼なりに文献その他で調べ、その後ステロイドはなるべく使わない方針に転換したとか…。まー職場でも、年配の人、人のはなしなんてきかないし…。
だいたい上野千鶴子なんて、講演ではしょっちゅう「わからんちんおやじたちとの議論は労力と時間の無駄。死ぬのをまちましょう」とギャグネタにしているくらい…。

もし、「脱ステ医をふやすんだ!」とめざめたら、まずは近所の「若者医師」リサーチからはじめたほうがいいかもしれません。
(しまった〜! そういう意味では「お大尽」耳鼻科の先生のほうが、よかったかも!!でも、若く見えるだけだったら…(爆))
そんなときは、深谷先生が作成されたインフォームドコンセントの資料を持参すると効き目があるかもしれません。
これ、見た目にわかりやすくて、これなら医師もなんらかのコメントをせざるをえないような気がします。
こんど、ふっくんの鼻づまりがひどくなったら、「お大尽」先生のところに、これをもって行ってみます(笑)。

そうそう、「いくら論理的な証拠をつきつけられても、人はなかなか持論をかえない」といったことを、さまざまな実験結果をもとに論じている本に、高野陽太郎『「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来』(新曜社、2008年)があります。


<「いつかやめたい薬」としてのステロイド>
さて、さきほどふっくんのアトピーが悪化した話をかきました。ふっくんにとっては、理由はどうあれ、状態の悪化ですが、私にとっては、これはやはりステロイドのせいであろうという気持ちはぬぐいされません。

どきどき、いろんな言葉で、アトピー関係のブログの検索をしてみます。
すると…標準治療をほめたたえ、ステロイド使用をすすめるブログでさえ、最終的には「いまは、くすりつかっていません!」「リバウンドのこないステロイドのやめかた」など紹介していたりします。
(そういえば、読売新聞も11月4日に「標準治療」の特集をくんでいたのですね。しらなかった!アレルギーにかんするブログで、絶賛していました…。これ、皮膚科学会のキャンペーンでしょうか…)
「でも、結局、みんなステロイドつかいたくないんだ…」としみじみおもいます(とはいうものの、むろんこの中には、「たんに薬をぬりつづける状態がいや、なのであって、ステロイドがとくにというわけではない」人もたくさんいるとおもいますが)。

さて…しつこいようですが、なぜ私は「いいのか?」とときどき思いながら、ステロイドをつかってきたのか、なぜみんな「こわい」とか「いつかやめたい」と思いつつ、ステロイドをつかってきたのでしょう…。

<ステロイド使用を決めたのは誰?>

岡部勉(『合理的とはどういうことかー愚かさと弱さの哲学』講談社、2007年)は、アリストテレスをつかって意志の弱さにもとづく行為(のんではいけないとおもいつつ、飲んでしまうとか、どなってはいけないと思いつつ、どなってしまうとか)について説明しています。
「①強制されたものではなく、自発的にしたものであって、しかも②行為者(行為する当人)は何をするのか知っていて、意図的にそうしようとしたものである、そして③他の誰でもなく自分自身による(自己決定した)ものではあるのだが、④選択された行為ではない」つまり、「①自己責任、②意図的、③自己決定、この3つが揃っていても、④選択された行為とはみなさない」(p.22)といいます。
「その理由は、選択された行為は他にあって、それは実は、選択されようとしたのだが、実際には選択されなかった、実際になされたのは別の行為、意志の弱さによる行為であったのだから」(p.61)だそうです。

具体的にアトピーにおきかえて、書いてみます。
ステロイドをやめたいとおもっているのに、ぬってしまうのは、それがたとえ「①自発的に自己責任で病院にいき、②アトピーをなおしてもらう意図をもち、③ステロイドをぬることを決定したとしても、④それは、あなたが選択した行為ではない」ということになります。
「薬物依存だから当然」というつっこみは、とりあえずおいておいて(笑)、岡部さんのあげる理由をかきます。
「①自分が選択しようとしているのとは別の何かをするようにし向けるものが現に目の前にある、②その別のことをしないよりは、することの方が、むしろ自然である、③その別のことをする習慣がその人にはある、④周囲の誰もがそうしている、⑤何らかの権威のある人(親とか医師)がそうするように勧める、というような場合には、ある意味ごく普通のことであるように思われます」としています。

この場合、「別の何か」「別のこと」がステロイドを使用することに該当します。おきかえてみると…
まさに、標準治療の世界です…。

なお、岡部さんは、では「意志の弱さに基づかない行為」つまり「意図的な行為」を選択できる能力とは、「長期間の訓練と学習を経て、かろうじて、備わる人には備わるというようなもの」(p.62)だといっています。つまり…「ふつう」はむり。

<あなたは、わるくない>
この論理は、裁判になったときなど、使えそうに思います。「自分で病院をえらんだ」「その治療方法に納得して、自分でぬっていたのだろう」などといわれたときに、「それは意志の弱さにもとづく行為でした」と理路整然と説明できます!(でも、アリストテレスでは、古すぎでしょうか(笑))。
もちろん、裁判しなくても、「なんで、ステロイドつかっちゃったんだろう!」って自分をせめている人がいたら、ぜひ「アリストテレスは、あなたのせいじゃないっていっているよ!」とはげましてください!!

ちなみに…岡部さんは、この定義のなかに「情報不足とか情報の欠落」(p.64)という要因がはいっていない理由も書いています。情報不足で行うということは、そもそも「自分が何をしているのか知らない」という状態にあるため、自分が決定した行為であるとは言えない、意志の弱さうんぬん以前の問題だとしています。
現在、アトピー治療現場における「ステロイド不使用治療法」など圧倒的に情報不足です。自分をせめる必要はありません!(って、自己弁護みたいになってしまいましたが…(笑))

<だったら、どうすれば?>
いいのでしょうか…。「わるくないのは、わかったけど、でも、どーするの?」ときかれそうです…。
時間かかるけど、アトピーはなくならなくてもよくはなるよと示していくこと(なんか星子さんの話と矛盾しそうですが)、ステロイドのせいで難治化した人がたくさんいるよとアピールすること、でしょうか…。
近所の医者も…正攻法だとむりだけど、なんか「伴走」してもらう方法はあるかもしれません。
また、ふっくんと相談して、ぼちぼち考えながら、行ってみます。

<きょうのふっくん>
今日も、ブレークしてました。「芳泉」の風呂…。
「写真とろ〜」っていったら、いろいろポーズを工夫。「いつも同じはつまらない!」そうです(笑)。でも、これは昨日のもの…。くんで上になっているほうの足を夜中にかきむしったのだとおもわれます…。
今日は、写真をとるともいわず、薬をぬるともいわず、さっさとパジャマをはいて、アイスノンの用意をしてひっくんと2階にいってしまいました…。
おふろあがりなので、ちょっときれい

4 件のコメント:

  1. こんばんは。先日投稿させて頂いた暢行です。Googleアカウントを登録し直したらニックネームの方に変わってしまったのでこれからはノブコフでお願いします(^_^)ふっくんが気に入ってくれたみたいなので顔文字多用させて頂きます(^_^;)

    アトピー患者がどこまで仕事できるかというのは非常に難しいもおんだいです。僕の例でいきますと、就職前はステロイドでコントロールできていて(と思っていたのほうが正しいかな…)、ステさえ使用したら痒みがある以外はほぼ普通の身体でした。そしてずっとその状態をキープできると思っていたからなにも考えず、24時間勤務の体力勝負の仕事……赤い車に乗る仕事をしていました。しかし環境の変化のせいか、不規則な生活のせいか、もしくは単にステに限界が来たのか原因は不明ですが勤務1年くらいで全身発疹、落屑とちょっと汗をかくだけで地獄のような身体になっていました。その後内服ステを始めて1次的に良くなりましたが結局効かなくなり、2年半で限界に達しました。

    アトピーは状態により出きることのラインが大きく異なります。状態がよければ何でもできるけど悪化すれば何もできなくなります。僕は仕事選びの基準が「何でもできるとき」やったから、悪化するにつれて何をするにも苦痛を感じるようになりました。悪化することがわかっていればそれなりの仕事に就いてたのでしょうが…

    僕は限界に達するちょっと前に佐藤先生の存在とその治療方法を知りました。上司に身体が限界であることと、脱ステロイドをすれば良くなる可能性があることを訴え休暇をもらおうとしましたが、「標準治療じゃない治療は認めない。悪くなるのはちゃんと治療してないからちゃうんか?」と言われました。医者に言われた通りにしても悪化しかしないことなど理解しようともしてくれません。何度か交渉しましたが、気力を失い辞表を提出しました。理解してもらえないことがこれほど辛かったことはありません。あの朝日新聞の記事などは、僕のような人間を増やすことになります…

    ただ、仮に休みを貰えて脱ステ治療に成功したからといってじゃあ職場復帰できていたのかとい考えたらそれも難しいところです。今現在かなり良くなったけどあの不規則な生活に戻ればまた悪化するんじゃないかと思うとどちらにしてもこの仕事は厳しいにのかなと…

    完治はしないかもしれないけどできるだけ良い状態で一生を過ごせるように仕事選びも大事かなと思っています。アトピーに関しては家族を除いて周りは何もしてくれません。国の補助もありません。治療方法も人生も自分で決断しないといけない。今回の入院でそう感じました。

    う~ん長々書いてるうちにどうも伝えたかったことと違ってきてるような気が………

    ちょっとマイナス思考な文章になってるかもしれませんが本人いたってプラス思考なんでどうぞ気にしないで下さい(^_^)それとなにもできないくらいの悪化はたぶん究極のステ依存状態です。普通のアトピーでそこまではいかないはずなのでご安心を(>_<)

    ふっくんは一進一退みたいですね!お子さんの場合はステさえ使わなければ成長と共に消えてなくなる可能性大ですから焦らず頑張っていきましょう(^_^)ふっくんファイト☆お兄さん(おじさんじゃなくていいんかな…)は明日退院ですよ☆

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  2. 遠い昔に習ったアリストテレスのアクラシア論がこんなところで使えるとは!
    もちろんアリストテレスは「古典」なので古いけれども常に新しいのです。

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  3. ノブコフさん、こんばんは。
    きのうコメントをよんで…なんてお返事していいかわかりませんでした。
    いえ、もちろんノブコフさんが「プラス思考ですから、だいじょうぶ!」という言葉は、ほんとうだと思っています。だから、心配していません(笑)。
    ただ…でも、ノブコフさんが、ふっくんが、ふえないようにしたい!とは、つよく思いました。
    今日のブログでは、その方法をかんがえてみました。

    いまさっき、ふっくんにノブコフさんのコメントをよみました。
    ずーっとだまっていました。
    「ノブコフさんにメッセージは?」ときくと、
    ちっちゃい声でとぎれとぎれに、
    「ありがとう。ぼくも、がんばる」と、いいました。
    なにか、思うところがあったようです。
    ありがとうございます!

    退院、おめでとうございます。
    きっと今頃、祝杯ですね。

    でも…しんどいのは、かえってこれからかもしれません。
    でも、ノブコフさんなら、だいじょうぶ。
    「無職で療養」生活を、ぜひ満喫してください。二度とないかも(^。^)

    すてきな夜を!

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  4. accelerationさん、こんばんは。
    コメント、ありがとうございます!
    アクラシア論…そうです(笑)。
    私は、この岡部さんの本ではじめてしりました。なんとなく…
    「アリストテレスまでひきあいにだす」というのがおもしろいかもと…。
    今後も「おいおい」的引用するかもしれませんが、ご笑覧ください(笑)。

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