2010年11月25日木曜日

なにが「科学」とされているのか-「社会問題」として提起するために(つづき)-

2010年11月25日(木)
<「社会問題」として提起するための「戦略」>
ちょっと気持ちが萎えていましたが、「社会問題」として提起するための「戦略」について…。
まず、先に私の結論をのべると、「真実は一つだ争いをしない」「標準治療を認めた上で、『正規分布のはしっこの人に注目しよう』キャンペーンをはる」「患者側からみた医師の治療方針への評価をつたえていく」ことだと思います。
「そんだけかよ~」でしょうか。ごめんなさい。でもなんだか、おおくのブログで、お医者さんたちのあげる声で、「そっちがおかしい!」というような「イデオロギー闘争」になっているような…。それはちょっと悲しい…それに、その態度は「非科学的」のような気も…。なので、具体的に藤垣先生にまなびませんか?(って、一面識もありませんが(笑))。

<「科学」と認知される要因はなにか>
 さて、私はときどき「医学」は「科学」とはいえない側面があると書いてきました。
では、「科学」とはなんでしょうか。
「え~っ。ノーベル賞(化学・物理・生理・医学など)をとったのは、まちがいなく「科学」だよね」という声があがるでしょうか。そう、おそらくそれらは「科学」と世界的に認められる発見・研究です。では…ノーベル賞の選考基準はなにか…これは「50年後に公表!」とされていますが、これまではだいたい「業績」がある人が選ばれています。つまり…「業績」があると「科学」とみとめられるということです。では、その「業績」は、どのように決まるのでしょう。
 藤垣裕子(『専門知と公共性-科学技術社会論の構築へ向けて』東京大学出版会、2003年)さんは、「ジャーナル共同体」という概念をつかって、これを説明しています。
①「科学者の業績は主に、専門誌に印刷され、公刊(publish)されることによって評価される」(p.16)
②「科学者によって生産された知識は、信頼ある専門誌に掲載承諾(accept)されることによって、その正しさが保障される(妥当性保証)」(p.17)
③「科学者の後継者の育成は、まずこの種の専門誌に掲載承諾される論文を作成する教育をすることからはじまる(後進育成・教育)」(p.17)
④「科学者の次の予算獲得と地位獲得(研究予算、研究人員、研究環境等社会的側面の獲得)は、主にこのジャーナル共同体に掲載承諾された論文の記された業績リストをもとに行われる(次の社会的研究環境の基礎)」(p.17)

つまり…簡略化すれば「科学」と認められるためには、「その道の専門家」が集まる専門誌、学会誌に論文を投稿し、その「正しさ」を保証してもらう必要があるということです。

<専門誌に認められる論文とはなにか>
 問題は、ここです。専門誌に投稿したことがある方には自明なことかもしれませんが…専門誌、学会誌には、藤垣さんが書かれているように、それぞれスタイルがあり、それを踏襲していないと掲載されません。藤垣さんも(p.24)、査読者のプライベートな領域に侵入すると、敵意あるコメントにさらされたり、同じ内容の論文でも著名な大学に所属するものだと採択され、そうでない場合は不採用になるなどのケースを、実際の実験結果をまじえて報告しています。
 なぜ、深谷先生の紹介するステロイド依存系の論文は、海外ものがめだつのか、なぜ玉置先生が脱ステロイドについて書いた論文は「あいまい」な書き方がなされているのか…その理由は、もしかしたら、日本の皮膚科やアレルギー科が「専門誌」と認定している学会誌の査読者たちが、ステロイド批判系の論文を査読の段階でおとしている可能性もあります(あくまで、私の推測です。すみません、実際に各学会誌にあたってカラーを検討する余裕がありません…でも、ちょっといまの仕事が一段落したらやってみようかしら…)。
 
<それでも、専門誌はただしい!?>
「いや、そんなことはない。専門誌は科学を追究しているはずだ。妥当性がみとめられれば、学会の意向と異なっても掲載するはずだ」と思われるでしょうか…。でも、まったく新しい発見であればともかく、これまでの知見に横やりをいれるような論文はスルーされやすい、もしくは酷評をうけると思います。

【統計結果は科学的か?】
そもそも、統計結果の読み方はかなり恣意的に操作できます。結果分析はSPSSなどで、だれでも簡単にできるようになりましたが、その結果を読み解くのは、研究者個人(もしくはチーム)です。その読み方の妥当性を判断するのは査読者たちです。たとえば、深谷先生がしめされた古江先生のつくった「標準治療成績一覧表」は、誰がつくってもほぼ同じものができます。
(むろん、なにを「非常に悪い」とし、「軽い」とするかの「線引き」が共有されていることが前提です。おそらく、この「線引き」も流動的である可能性は高いと思いますが、これに関してはおそらく皮膚科医であれば経験的にも共有可能な「線引き」を採用しているのでは…と思います)
問題は、「コントロール不良群」とする「線引き」の「妥当性」です。深谷先生が「なにをもって良好とするか」の条件を変更すると「線引き」の位置がどんどんずれていくことを示されているように、この「線引き」は「絶対唯一」のものでも「不変」なものでもありません。おそらく、ステロイドによる標準治療を推奨している日本皮膚科学会のジャーナルに投稿するならば、古江先生の「線引き」は問題なくうけいれられても、深谷先生の「線引き」は「妥当性なし」として却下されると思います。
つまり、「表」はただの表ですが、その読み取りには「人為」がはいりこみます。表はまず提供者の解釈を読む前に、自分で意味を考えるほうが安全です。また…余談ですが、一般的に社会調査については、質問文をつくる段階で回答を誘導することが可能です。「アンケート調査」等の結果をよむときは、質問紙を参照するとだまされにくくなります。(谷岡一郎『データはうそをつく-科学的な社会調査の方法』(筑摩書房、2007年)が、わかりやすいです。そのほか…調査データの読みまちがいによる「言説」のおかしさを指摘する本はたくさんありますが…鮎川潤『少年犯罪―ほんとうに多発化・凶悪化しているのか』(平凡社、2001年)や、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか-「教育する家族」のゆくえ』(講談社、1999年)など、おすすめです)

【変化する「妥当性」】
なお…すでにおわかりだと思いますが、この「妥当性」もまた流動的なものです。
藤垣さんは、精神診断基準に関する論文の分布図を作成することで、「『妥当性境界』は不変ではなく、毎号毎号の編集における査読者の判断の積み重ねを経て、時々刻々書き換えられていく」(p.60)ことを実証しています。
つまり…査読者が変化すれば、「妥当性境界」は変化します。が…医学の世界はかなり徒弟的・閉鎖的です。「アンチ主流」「アウトロー」な研究者が査読者に選ばれる可能性は、医学界においえては極端に低いのではないでしょうか…。

いやいや、それでも…
<「良心的な科学的医師」はいるはずだ>
私もそう思います。が…あらたに、おそらくこのステロイドによる標準治療を解明しようとする若手研究者がいたとして、それを解明するためには、時間がかかります。(おそらく、良心的であればあるほど、現在批判にさらされている脱ステ医の臨床知見をうたがってかかることからはじめるでしょうし…)。
「科学者の責任感の多くは、ジャーナル共同体における精確さを維持することに費やされているのである。そして、市民あるいは公共(public)にとって『不信』とみえたものが、実はジャーナル共同体に対する『忠誠』であることが少なからずある」(p.26)
と、藤垣さんは書きます。「ステロイド依存性皮膚症」というものの存在の有無を確認するには、おそらく百人単位のアトピー患者さんに接し、その追跡調査をする必要があります。まてません…。
藤垣さんは、こうも書きます。
「多様な利害関係者で構成される『公共空間』において、それらの共治(ガバナンス)によって問題を解決し、意志決定をすることが求められている」(p.79)にもかかわらず…「科学的知識、工学的知識はこれまで、社会的意思決定の正統性の提供者という役割も果たしてきた。しかし、現代では、科学者にも答えを出せない問題、技術者にも答えを出せない問題だが、意思決定を行わねばならないことが増えてきている」(p.80)そうだと思います。

【水俣病認定がながびいた理由】
藤垣さんは、水俣病を例にあげています(以下、p.54要約)。水俣病は1956年に最初の患者が発見されますが、その後、数々の説が考えられ、有機水銀が原因物質と特定されてからもその生成メカニズムが明かにされるまでに45年が経過したそうです。これは、科学者としては妥当な立場であっても、公共性の観点からは非常にマイナスだったとおもいます。この45年のあいだに、水俣病患者は増え続けたからです。「あれは、原因物質の解明をまたずに、厚生省にはたらきかけて「食中毒だ」と先に定義してしまえばよかった。魚を食べて中毒が発生しているのはわかっていたからだ」と書かれた本がありました(出典が思い出せません。ごめんなさい!)。たしかに…最初の患者がでた時点で、魚をたべるのをストップしていたら(でも、漁師町ですから、その後の保証問題もありますが…)、工場の排水をやめていたら(でも、工場も経営難になるんですね…う~ん)、「公害」という規模にはならなかったのかもしれません。
 藤垣さんは、こうした現象があるからこそ、これまで「科学的合理性」にたよってきたが科学だけにたよらない「社会的合理性」が必要では…とのべます(これは、本書をつらぬくテーマであるのですが)。

<「科学」だけに頼るとこわい…>
の一つに藤垣さんは、こんなことを書いています。
政策立案者が科学知識に対して抱く過大な期待(p.67要約)
 ①確かさの幻想(判定されること以上に自信をもちやすいこと)
 ②疑似確信の幻想(ある側面における確かさを他のすべてに適用可能と過剰な自信をもつこと)
③「絶対的」真理への幻想(証拠の真実性に対して、過剰な確信に至らせること)
④応用可能性の幻想(一つの結論を一般化すること)

つまり…「科学的合理性」にたよってしまうことは、行政を誤らせることになると危惧しているのです。

【科学的真理とは、一つなのか】
先にのべたように、科学的とされるための「妥当性」に「絶対基準がない」からでもありますが…。もうひとつ重要なことは…。科学が「ジャーナル共同体」にささえられている以上、「ジャーナル共同体」ごとに「真理」とされているものがあるという現実です。この「ジャーナル共同体」は同じ領域内でも複数あるうえに、領域が重なる部分にものりいれています。ある「ジャーナル共同体」が「真理」としたことと、他の「ジャーナル共同体」が「真理」と定めたことは、かならずしも同じではありません。
(たとえば、ステロイド依存に関する論文を掲載するジャーナルと、それを拒否するジャーナルでは、「真理」がことなるようにです)。
藤垣さんは、ここを指摘したいがために「ジャーナル共同体」という概念を提示したそうです。「ジャーナル共同体」に基づけば、「科学の一枚岩観を批判することができる」(p.43)と。藤垣さんの言葉をかりれば、「『科学的』と呼ばれるものに実は多様性があ」り、「現象として分野ごとに妥当性の境界は異なっている」のです。
私たちは、「一方に理念系(科学は一つであり、科学的とそうでないものとを区別する境界は一つである)があり、もう一方に現実系(科学は分野の妥当性境界によって異なる)がある」(p.45 )社会にいきています。
そして、私たちは「このコンフリクトを解消するために、まず妥当性境界が分野によって異なる現象を憂い、『科学は一つ』という立場にたって、『科学的』概念の多様性をできるだけ排除し、一つに定まるようにしようとする立場」をとるか、「それに対し、『理念』のほうを現実(妥当性境界は分野によって異なる)にあわせて書き換えよう、とする立場」(p.45)に立つか、せまられます。
そして、藤垣さんは後者の立場をとります。私もまた、藤垣さんの判断はただしいと思います。

「だから、『ステロイドによる標準治療』の話はどうなるの?」と思われているでしょうか…。

<「順応管理」でどうでしょう>
藤垣さんは、こう結論づけます。「科学的知見は今まさに作られつつあり、書き換えられる知識である。したがって科学的合理性も社会的合理性も変化しうる。我々は、この変化しうる性質を組み込んだシステム作りを考える必要がある。ここで必要なのは、科学者集団の生産する知識だけで(つまり科学的合理性だけで)科学的判断(judge)ができる、という立場から離れ」、「『一度定めた基準』を科学的判断(judge)による確実で厳密な『硬い』基準とせずに、いつでも見直しができるようにして、利害関係の異なるひと(地域住民もふくむ)たちによる話し合いによる合意形成を続けていこう、という」(p.215)柔軟性が重要だと。
この結論の一つの具体例に「順応管理」をあげています。「現在科学者集団の保証できる知見には限界があることを認め、それでは決定できないことを『暫定的』に決めておいて、のちに微調整を繰り返す」(p.213)という方法で、江戸時代の河川管理の「見試し」という制度の応用だそうです。
う~ん、「皮膚科学会」がいまさら「アトピー性皮膚炎に対し、ステロイド治療で保証できる知見には限界がある」とは認めないでしょうというつっこみがはいるかもしれませんが…。でも、「いや、あなたたちはまちがっていませんよ。でも、ほら、この正規分布のはしっこにいる患者さんをみてください。この人たちには効かないという例外性に対して、もうすこし大きな声で語らせてください」という申し入れならば、ききいれてくれるかもしれません。

【正攻法でなくても…】
「社会的合意」を形成するために、「患者さん当事者の声」というのももっと大きく喧伝される必要があります。「脱ステした患者さんのライフヒストリー研究」なんか、いいかもしれません。アトピー患者であり、脱ステを選択した人であり…「複合差別」の当事者としても、豊かなライフヒストリーになることはまちがいないとおもいます。
ブログはたくさんあるし、協力してくれる方は、意外におおいのではないでしょうか…。
(*「複合差別」とは、上野千鶴子が、有吉佐和子の『複合汚染』をもじってつくった言葉。個人は一つの差別対象となるだけではありえない。複数の要素をもっているからだ。そして、個人はあるときは差別者であり、あるときは被差別者となるというようなことを書いています。この論文は2つの本に収録されています。井上俊ほか編『差別と共生の社会学』(岩波書店、1996年)と上野千鶴子『差異の政治学』(岩波書店、2002 年)です)

昨今医療業界でも「質的調査」ばやりです。「皮膚科学会」のジャーナルに掲載されなくても、「ライフヒストリー研究」をのせてくれる「医学系のジャーナル」は存在します。正攻法でたたかわなくても、堀を埋める戦い方は存在するとおもうのです。
きのうも、おークリニックには、むかしふっくんがそうであったような、かさかさで赤いほっぺの赤ちゃんがたくさんいました。診察室をでてくるときは、くすりでてかてか…。「はやいとこ炎症おさまるといいね」「ふっくんみたいに、5年間もくすりぬりつづけることがありませんように」とねがってしまいました。
お医者さんに「たいへんだったね」といわれて「わかってもらえた~」とうれしいこともありますが、ときには「こんなの大丈夫よ」と保証されるだけで、安心できることもあります。
深谷先生がかかれているような、そんなふうに気長につきあってくれるお医者さんがふえてくれることをねがいます。たしかに子どもがかゆがっていると、かわいそうかもしれないけれど、痛みやかゆみといった不愉快なことを全部こどもから遠ざけることは不可能ですし、またそれを親がするのは越権行為のような気もします…。ノブコフさんも書いていらっしゃったように「経験」とは、大切ですから。人の痛みをしることにもつながります。
私はひとづきあいが苦手なので、「運動」をたちあげるのはムリっぽいですが(笑)、私なりの「運動」の仕方、かんがえてみます。

<余談>
さて、しかし…いよいよ首がしまってきました。自分の仕事、ちゃんとします(泣)。これからは、ブログを書きかけた初期目的にもどり、ふっくんの体調変化の報告だけにとどめます(笑)。でも、これからもよろしくおねがいします!

2 件のコメント:

  1. ブログの記事を拝読してきて、ステロイド外用薬って向精神薬と似ているなあ、と改めて思いました。
    (僕の本来の専門は精神科です)
    向精神薬を使わない統合失調症の治療(Soteriaプロジェクト)についてのLoren Mosherの研究というのがあるんですが、それは精神医学の主流派からは無視され続けています。今、向精神薬を使わない治療についての論文を医学雑誌に投稿したらどうなるのか、とふと思います。
    このあたりのこと、もう少し考えてみたいと思います。

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  2. こんばんは。コメント、ありがとうございます。
    このソテリアプロジェクトって、「東京ソテリア」がモデルにした方法ですよね。「それって、大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(岩波書店、2009年)の最後のほうに、「べてるの家」とならんで紹介されていたの?」と、今、本をめくってみました(笑)。
    向精神薬…ときに助かりますが、薬漬けにはされたくない。そうした意味では、ステロイドと似ているかもしれません。ただ…向精神薬の場合は、家族や周囲の人がのませておとなしくさせておきたいといった思惑がはたらくかも…、いや、ステロイドもそうですね、本人が疑問におもっても、家族が「かゆがってるのをみるのがつらい」とか「ちょっとでもよくなってよ」とぬらせてるケースありますよね…。うーん。
    べてるの家も、人気ですが、精神医学での扱いって、やはりアウトロー…でしょうね…。また、いろいろおしえてください。

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