2010年10月12日火曜日

哀れみは いらない

2010年10月12日(火)

<“かわいそう”といいたくなるとき>
さて、今晩のふっくんは、あれています。
「おやすみなさい」をしてから、もう3回も「うぎゃ〜」とおきました。ぼりぼり掻いていますが、かゆさのあまりというのでは、ちょっとないよう。
なんだか、怒っているみたいなのです。

たしかに、また今晩も、わたしは仕事があり…。はやめに保育園におむかえにいき、おばあちゃんの家におくって、わたしは再び仕事にでかけました。
そのこと、怒っているのかな〜。でも、「おばあちゃんは、好きなおかずつくってくれるし、テレビもすきなだけみれるし、パソコンもかってにさわってもおこられない」と、ひっくんとふたり、「ラッキーだね〜」といそいそでかけたのに…。
かえってきてからも「ふっくん、また、きれいになったね」っていったら、「おとーさんもみたいかな。おかーさんのブログよんでる人も、ふっくんがよくなってるのみたら、よろこんでくれるんだよね」と、みずから写真撮影希望。
「足マッサー」のときも、ひっくんとふたりで、ぎゃはぎゃは笑って、すごく調子よかったのに…。

ふと、かえりがけのおばあちゃんの言葉をおもいだしました。
「ふっくん、ひどいわね~。いいの?ほんとにこのままで。かわいそう。ひどいよね。どうして、ふっくんだけ、こんなことになっちゃったのか…」
このエンドレスにつづきそうな「ひどいね」「かわいそう」なだれをくいとめようと、わたしは「そんなことないよ。すごいきれいになったよね」とわってはいるものの、おばあちゃんの勢いはとまりません。「どうして、そんなふうにおもえるの。だって、ひどいじゃない。かわいそうに」。
もう、これ以上ききたくない。「そいうえば、おばあちゃんのともだち、その後元気?」と話題をかえつつ、「ありがと~」とかえってきてしまいました。

もしかしたら、あのとき、わたし以上にいやな思いをしていたのは、ふっくんではなかったでしょうか。

そう思いついて、3回目に泣いて、おきたとき「ふっくんは、よくやってるね。かゆくても、自分でかいたり、アイスノンで冷やしたり、えらいよね。ふっくんは、ぜんぜん、かわいそうな子なんかじゃないよ」と、背中をなぜてみました。
ふっくん、こっくりうなづくと、からだの力がすーっとぬけていきました。そのまま、すーすーと寝息をたてます。

やっぱり、原因は「かわいそう」…。

私たちが、一般に「かわいそう」というのは、どんなときでしょう。たとえば、今日、犬がいきうめにされたニュースがながれました。私も「かわいそう!」と義憤を感じました。そのとき、一緒におもったのは、「たすけてあげたい」です。

そう、私たちが「かわいそう」とかんじるとき、それはたいてい「だから、たすけてあげたい」という気持ちとセットではないでしょうか。
むろん、この気持ちは大切です。
が、それを本人に伝えるのは、どうでしょうか。「かわいそうなんかじゃない!」という反論の仕方はよくありますが、これを使いたいとき、私たちはたいてい、「自分でなんとかできる」「みくだされたくない」と思いはしないでしょうか…。

「かわいそう」という言葉は、いわれた側の人の有能感をうばい、「あなたは、人の手をかりなければ、だめな、『無力な』存在なのだ」と宣告するのに、等しい場合があります。
反対に、「かわいそう」という言葉は、言った側の人の有能感をたかめます。「わたしは、大丈夫。助けてあげるからね」と、優位にたって慈善感情をおひろめできます。

「かわいそう」っておもうのは、いい。でも、本人にむかって「かわいそうとか、ゆうなー!」と、私は声を大にしていいたいです。

そうそう、ぴったりな題の本があります。

じゅくじゅくがなくなってきた膝下
 ジョゼフ・P・シャピロ『哀れみはいらない-全米障害者運動の軌跡』現代書館、1999年
「障害者はかわいそう」という視線が、いかに障害者から力をうばっているのか。それをはねのけてようとする障害者がどんな戦略をとり、どう権利を獲得していくのか。そんなルポルタージュです。


ひどくなった膝うら…じゅくじゅく部分も…
 あっ、せっかくのふっくんの心意気。写真をアップしなければ。






<ぞくぞく反応>
さて、金曜日の「講演した医者のばか〜」事件の反響は、まだまだつづいています。
「これって、知的障害の人への労働搾取や性的虐待の問題と、根本的に同じですよね」という意見。
「障害をもつ子をうんだおかあさんに対する自己責任論(いまどき、出生前診断できるのに、あえてうんだ、あなたが悪い的な)と同じじゃないですか!」という憤り。
「医者とか教師の仕事って、本来的に、顔をつきあわせて相手をしり、おしえ・おしえられる関係にもっていくことじゃないでしょうか。ここを省いて、一方的な指示をする医者や教師がおおいように思います。効率主義的な社会のせいでしょうか」という疑問。
どの意見も、それぞれ、個別に論じるべき、重要な論点だとおもいます。
メールをくださって、ありがとう。

「アトピー患者」のおかれた問題を、「医学」的側面からだけでなく、「障害学」や「教育学」的な観点からも、かんがえてみる。
これって、これまでなされてこなかったように思います(勉強不足かしら!?)。
でも、重要な課題だとおもいます。
メールをくださったみなさん、ほんとうに、ありがとうございます。


<自分のえらんだケアが、いちばん!>
そうそう! 
「たいへんだ。ステロイド依存のこと、ぼくの知人、しらずにつかってるとおもうな。このブログ紹介しよう」とメールをくださった方、ありがとうございます。
でも、でも、ほんと、おとなの脱ステは、すごく大変らしいですし、私もふっくんをみていても、そうおもいます。
脱ステするかしないかより、「自分のやっているケアが、自分には一番あっている」と信じられることのほうが、ずっと大切だとおもいます。
ステロイド依存のことは、もっと多くの人に知ってほしいですが、だからといって、ステロイドを使っちゃだめだとおもっているわけではありません。ステロイドがありがたいときだっていっぱいあるはずです。
ご自愛ください。

0 件のコメント:

コメントを投稿