2010年10月31日日曜日

「かゆみ」を自分のものに

2010年10月31日(日)
<今週末は、ダンくん家>
やっと、かけます…。この週末は、ダンくんのところへ。
改札をでるとみっくんが!
「おかーく〜ん!」とみっくんが、だきついてくれます。
「はい、まずは、みっくんがチューしてあげるから。それから、ギューしようね」と、いったんはなれて、まずはほっぺにチューしてから、ふたたびだきついてくれます。
(きてくれるときは、「おか〜!」とかいばっているのに、いくとすごいうれしそう。みっくんは「きてもらう」ほうが、うれしいようです)
かわい〜〜〜。けなげ〜〜〜。もう、だいすき〜〜〜〜。いっしょにまいにち、いたいよ〜〜。
(とはいうものの、まいにちいっしょにいたら、この感動はないかも…)

じつは、ふっくんの産休育休期間は、ダンくんのところにいたため、ご近所づきあいは、いまより濃厚かも…(現在、在宅時間が極小なので、なかなかご近所の人と、はなしたくても話す機会がありません…)。
とくに、うちの息子たちと年がちかい子がいるお宅とは、いまもなかよし。というより、ひっくん・ふっくんが、再会をものすごくたのしみにしていて、行くとかれらとかたときもはなれたくないようなのです。こういうのっていいな〜。
でも、みっくんはまだ、ちいさくて、なかまにいれてもらえない…。というわけで、こちらは私にべったり。
パソコンのまえにすわるひまもありません…。

<ローラ針>
は、人気です!3人とも、いたるところをころころしてました。
いえいえ、ふっくんも、おおよろこびで、あーちゃんにスカイプとおして、公開実演などをしてみせ、大満足だったのではありますが、どうも、まにあわないようです。
手でかきはじめてから「あ!、あれつかわないと」。
だしたころには、かゆみがさっていたり…。
(でも、この程度のかゆみで、たすかってるってことですね)

わたしもやってみましたが、きもちいいかも。もともと、マッサージ機具だし、とうぜんか(笑)。

<「かゆみ」を自分のものに!?>
ふっくんは、ただいま手が、ちょっと…指があかぎれのようにきれはじめて、いたがゆそうです。顔やからだは、たしかに白いこふきいもですが、でも、赤くはなっていないし、かゆがってもいないから、ダンくんは「おー、めちゃくちゃ、よくなってきたな」と。
膝下は、いつもひどい右足は、すっかりうすかわがはって、ちょっと赤紫っぽいけど、かゆくはないよう。
そのかわり、反対側が悪化…また、けっこうおおきなかさぶたがはがれてしまったので、じゅくじゅくしてきました。
でも、ふっくんは「おかーさん、これ、こっちがまたじゅくじゅくしてきたけどさ、こうやってなおってくんだよね。また、あしたは、ガーゼして…あっ、こんどはじめて、あのちぢむやつ(チュビファーストのこと。サンプル、とどいていましたが、むさりそうで…つい2週間まえまで暑かったし、そのあと、包帯は不必要だったので、つかっていませんでした)、やっとつかえるね」となんだか、元気。
さいきんは、そう「かゆい!」とおこったりもしなくなりました。
なんだか、たんたんとうけとめ、かゆければ、ローラー針さがしたり、そのへんのローラー針的なものにこすりつけて、効果をためしたり…。
まえは、「かゆい~! おかあさん、なんかしてよ」「かゆい! くすりぬってよ」的で、かゆみは、おかあさん、あるいは薬がなんとかしてくれるものだとおもっていたよう。
そういえば、「かいちゃだめ!」も、本人から「できること」をうばっているような…。
なんか、ふっくん、いまのほうが、かっこいい。

彼のすがたをみていたら、昔よんだイヴァン・イリッチの『脱病院化社会』(晶文社、1998年)をおもいだしました。
たしか、「人は、昔から痛みを自分のものとしてつきあってきたが、医学が発展し、痛みは、医者のものとなった」的な言葉があったような…と、本をさがしましたが、みつかりません。でも、たとえばこんな一説がありました。
「医師がいかに痛みをコントロールするかという方法は要求されるが、痛みの中にある人が、その体験に責任をもつことの助けになるような研究はもとめられない。医学的な専門家は、どの痛みが本当のものか、どの痛みが身体的基礎をもち、その痛みが心理的な基礎をもつか、どの痛みは想像上のもので、どの痛みは偽りのものであるかを判断する。社会は、この専門的判断をみとめ、保証を与える。同情は旧式な道徳となる。痛みの中にある人は、しばしば自分を圧倒しようとするこの経験に意味を与えてくれる社会的文脈がますます希薄になった状態に放っておかれるのである」(p.106)

この「痛み」を「かゆみ」におきかえると、アトピーの人のおかれた状況とまったく同じだなとおもいます。

イリッチは、また別の箇所で、「痛み」を自分のものとしてとりもどすべきだ。この「痛み」という自らの内からおこるものに対する格闘を、他者にゆだねたとき、人は自律性を手放し、健康からとおざかることになるとも書いています(これは、p.220 の要約です)。

ふっくんの「かゆみ」は、ふっくんの「かゆみ」。それがいつ悪化するのかを把握し、どう対応するのか、それをきめるのは、ふっくんであるべきだと、おもいますし、ちかごろ、ちょっとずつ、その状態にちかづいているような…。
私や医者にできるのは、ふっくんが「かゆみとのつきあいかた」をみつけるまで、くじけたり、自暴自棄にならないおてつだいかもしれません。
ステロイドをことわったとき、おー先生がいった「ステロイドいらない、かゆみどめの内服薬もいらない。じゃー、わたしはなにすればいいの? することないじゃない」といった言葉が、わすれられません。
「いえ、みまもってくだされば、いいんです」そのこたえは、すぐにはかえってきませんでしたが、おそらく最後の長い台詞が、そのこたえ。
「それじゃー、治療点数にならないし、「治療者」としてのわたしの立場はどうなるのよ」って、ことだったとおもいます。

そういえば、このイリッチの本をやくした金子嗣郎という精神科医が、やはり医者だった自分の父親の思い出をあとがきにかいています。彼の父は「いまは、抗生物質を乱用しすぎる。人間には、自然治癒力がある」といい、患者への投与に慎重だったそうです。結果的に、薬剤でかせげないために低収入、しかも深夜の発熱にとりみだす患者家族からの依頼で往診がふえ、
肉体的には重労働だったそうですが、彼の父は、それこそが医者の仕事だとかんがえていたそうです。

こうしたお医者さんにこそ、私はであいたいです。が、それはむりかもしれません。なぜなら、私たちがこうした医者の存在を許さなくなっています。
わたしたちは、「効率よく」「手軽」に安心感をえたがっています。じっくりつきあうより「予防」的医療をしてくれる医者をもとめます。
発熱したら、解熱剤で熱をさげてくれる医者、湿疹ができたら、ステロイドですぐきれいにしてくれる医者、秋口からはやばやとインフルエンザの予防接種をしてくれる医者、それを「名医」とあがめてはいないでしょうか。
私たちにも、責任はあります。おー先生をせめられません。「医者として、すぐに改善してあげられない」ことは、現代にいきる医師として、アイデンティティをゆるがす大問題なのかもしれません。

<ふっくんの自立>
さて、そのせいかどうか…。ふっくんが、「小学校からは、おとうさんとくらしたい」といいはじめました。
ふっくんは、3人のなかでも、いちばんおかーさん子です。だから、これまでも、きにいらないと私へのおどしもんくのように「おとーさんのところにいく!」とたんかをきっては、夜中にとつぜんとびおきて「ほんとは、おかーさんと一緒にいたいよ〜」なんて、泣いたりしていました。
でも、なんだか今回は、ちがいます。
「みっくんも、かわいそうだし、ぼくがこんどはかわろうかな」
「ぼくさー、まえはおかーさんとずっと一緒にいたかったけど、おとうさんといるのもいいとおもうんだよね。おかあさんには、ちゃんと土曜日や日曜日に会えるんだから、大丈夫だよ」
なんだか、ちょっと「冒険心」がうまれたようです。
これには、「ふっくんと、いっしょにくらしてみっかな〜。たのしいだろうな〜」なんていっていたダンくんのほうが、ちょっとひきぎみ。
「アトピーひどなったら、動揺するわ〜」「ぴーふけは、とびひになったとか、すぐ気づくけど、そんな判断、しろうとには、できんよ〜」(あのー、わたしも「しろうと」なんですけど(笑))。
「スカイプでうつすか、画像おくってくれたら、判断するよ」(うわ〜〜、医者でも、そんな判断しないとおもうぞ(笑)。でも、ほかの子は無理ですが、ふっくんのお肌状況については、ここ6年、とびひも、毛のう炎も、ヘルペスも、その他もろもろみてきて、近頃では高率で判断があたるようにはなりました(笑)。

さてさて、ふっくん、もうすぐ就学前健康診断ですが…どこに入学することになるのか!?

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