2010年11月15日月曜日

「クスリ信仰」と「清潔文化」

2010年11月15日(月)
<クスリ信仰>
さて、昨晩、ふっくんが夜中に「おが~!」と怒ってわたしのところにきました。なんだかねぼけていた私、「ここにはいりなよ」とふっくんかかえて、そのまま眠ってしまいました。
朝、「そういえば、ふっくん、きのう夜中、どうしておきちゃった?」ときいてみると…「みっくんに、けられた!」と。「よかった~。かゆかったんじゃないんだ」「ちがうよ。いたかったんだよ、みっくん。ひとのこと蹴っといて、自分ねてるし!」とプンスコ。「そりゃ、ねぼけてるほーは、蹴ったことなんて気づいてないよ」なんて笑っていると、ふっくんは自分の足をみています。
「おかーさん! あしがきれいになってる!」そういって、うでもめくります。「おかーさん、ひじのところも、きれい! やっぱり、くすりぬるのが、いいんじゃないの?」とうれしそう。
「ほんとだ。きれいになってる。でも…それ、くすりぬらなかったほうだよ」
「…うそだ!」
「いや、おかーさんがあってるよ。ふっくん、おふろあがりにおかーさんにどっちの足、だしてた?」
「…なんで、なんで、くすりぬってないほうが、きれいなの!?」
ふっくんのまなざしは、真剣です。よくきいてみたら、保湿剤をぬるとすねは、かなり痛かったのでことわったものの、じつはほかの部分も痛かったそうです。たしかに…わたしたちでも、がさがさになってしまったあとでは、ハンドクリームをぬってもぴりぴり・ちくちく痛いことがありますよね。
でも、ふっくんは「くすりをぬれば、なおる」とおもって、言わなかったのだそう。
6歳児にして、このクスリ信仰…。きのう読んだ本、そのままの現象が、うちでもおこっていました。
ひっくんが「だからやっぱり、ふっくんのからだがなおろうってしてる力のほうが、つよいってことだよ」と解説。(あっ! それ、私がいいたかったのに!(笑))。
みっくんも「クスリなくても、大丈夫だよね! おかーさん」と加わってきました。(こっちの人は、ただたんに会話にはいりたかっただけの気がしますが(笑))。
でも、これいい経験かも。
が…(いままでになくきれいになりすぎ。脱ステ2ヶ月の成果か…。あとはビタミン剤効果。か、マザータッチ風呂?)とはおもっていました。でも、ここでクスリ信仰をまた補強するのもな~と。それは、いわずに。
でも、そのあと「あっ、ビタミンのまなきゃ」と、自分からのんでいました。もっとも…ずっぱいもの好きのふっくんにとって、ビタミン剤は、「おかし」の範疇…同じくすっぱいもの好きのみっくんに「みっくんのはないから」とわざわざ言って泣かしてみたりしています(笑)。

<清潔信仰>
 そういえば…「清潔感」も、すでにたたきこまれています。ふっくん、はじめは保育園で「石けん」をいっさいつかわないことに、かなり抵抗があったよう。だから、つい「れもん石けんなら…」と譲歩してしまったのだとおもいます。私も、手洗いうがいは、かなり言ってきましたが、でも…石けんや歯磨き粉は、必要なときだけと考えているので(たとえば、石けんは油でべたべたになったときだけとか…歯磨き粉は歯の色がちょっと黄色くなってきたときだけとかです)、めったにつかいませんし、つかわせません。
でも、保育園では、ふつうの園児は、毎回、トイレ後と、ごはんとおやつ前の「キレイキレイ」の使用を奨励されています…。外遊びのあとなら、れもん石けん…。私的には「つかいすぎ」だとおもうのですが…。

<「きたない」と「差別」~あーちゃんとのチャットその2>
以前、あーちゃんとチャットをしていて、「『けがれ』とか『きたない』って、現代ではすごく嫌われてて…それが、「差別」とつながってること、たくさんあるよね」なんて話になりました。

そういえば、小野芳朗『「清潔」の近代ー「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」へ』(講談社、1997 年)って本がありました。さがしても、みつかりません…。でも確か、近代における「清潔志向」が、「非清潔なもの」=「不衛生なもの」を措定し、それを排除しようとさらに「清潔」を志向する。私たちがいま、問うべきは「排除しようとしたもの」がなにで、どんな意味をもっていたかではないのかというような話だったと思います。

そうそう、このアメリカ版ともいえるスーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』紀伊國屋書店(1999年)もあります。著者は「清潔好き」のインテリで、「清潔礼賛」していますが…。この膨大な資料に基づくアメリカの「清潔の発展史」は、「清潔指導対象」としてのアメリカ社会における移民・アフリカ系アメリカ人の存在がリアルにえがかれ、また「清潔維持者」としての女性の担った役割(最初はアメリカ人女性、その女性たちが社会進出をはじめると今度は「第三世界の女性」)が明確にうかびあがっています。著者の意図とはうらはらに、「汚い」とされて「排除」されてきた「移民」たち、「汚い」ことを落ち度としてせめられてきた「女性」たちの「差別史」として読むことも可能です。
 なお、ホイさんはこの本を「女性の社会進出」と「第三世界女性への賃金の向上」のために、「不潔」にもどりつつある家庭をなげきつつも、「シャワー設備がととのっている現代礼賛」でしめくくっています。「差別を指摘しよう」などという意図は、いっさいなかったはずです。


 が、小野さんの方は、「清潔」をこのむ人々の意識が「差別性」をおびていることに意識的です。「人はみずからと違うものを排除、忌避する生物である。そのことが環境問題を引きおこし、他の生物を死に追いやっているのだということに気づかないかぎり、人はひたすら「虫」を殺しつづけ、一方でみずからの身体をきたえ、その美しさに酔いつづける」(p.263)のか、と私たちに問いかけます。
 そういえば、私がこどもの頃は、冬は一日おきにしかおふろにはいりませんでした。髪も冬なら1週間に1回洗うだけ。こどもたちは、どこの子も2~3日同じ服をきていたような気がします。鼻水たらしていたし、鮫肌の子もいたし、あかぎれやしもやけなんてみんなできていました。でも…いまなら、おおあわてで鼻をかませ耳鼻科へ。手ががさがさすればクリームをぬり、湿疹ができれば皮膚科へいきます。アトピーもまた、現代がうんだ「清潔病」のひとつと言えるような気はします。

<戦前のゴキブリの地位は高かった!?>
余談ですが…虫といえば…瀬戸口明久『害虫の誕生-虫からみた日本史』(筑摩書房2009年)という本もあります。彼もまた害虫の変遷をおうことで、「なにかを『排除』することでうむ『均質な空間』(p.190)に安住する現在に違和をおぼえ、本来、「望ましい/望ましくない」ものは時代によってかわりうるし、さらに、この二分法にすら普遍性はないのではないかと問いはじめたひとりです。(p.196の要約)
 この本の導入は、ゴキブリです。ゴキブリは戦前までは「害虫」ではなかったそうです。ゴキブリは食べ物のある場所、冬でもあたたかい場所にしかでない…。それで戦前までは「裕福の象徴」。よってゴキブリを「こがねむし」とよび、「こがねむしは、かねもちだ~♪」の歌までできたそうです。子どもの頃「なんで、こがねむしが金持ちなのか…」とふしぎでしたが…ゴキブリの歌だったんですね。
(*ただし…前半部分は読書メモから書いたので、大丈夫ですが、ゴキブリの話は私の記憶からの引用…。いま、確認しようとおもったら…本がない…ダンくんがもってっちゃったかもしれません…。すみません、こう書いてあったと思います)

<きょうのふっくん>
おふろあがりに、「保湿剤、どうする?」ときくと、「う〜ん」と首をかしげて、「もうちょっと、はんぶんこ実験つづける!」といいます。
左半分、かさかさのところに、ぬっていくと「おかーさん、ここと、ここは、ぜったいやめて」。そこは、やはり足のすねと、あしの甲でした。
うすかわに亀裂がはいって、またおおきなかさぶたになりそうになっています。ここは、ちょっと手間どるかもしれません。
日中はともかく、夜寝る前は、やはりかゆくなるようで、今日もローラー針を布団にもちこみ、コロコロゴロゴロころがして、かいていました。
ビタミン剤はのんでいます。おふろは、あいかわらずマザータッチ。お洗濯は、クエン酸+ペットボトルです(笑)。
足マッサーは、あいかわらず、指とその周囲だけは強烈に痛がります。足つぼの解説によれば、指の先は「鼻」、指の付けねは、「リンパ腺」となっています…。
たしかに、鼻水すごいです。いつもなら耳鼻科につれていくところですが…。まずふっくんの気がむいたら、しーな先生の指示通り、小児科で血液検査をしてもらいたいので、いっていません。
そしてリンパ線…免疫の中枢!? やはり、関係あるのでしょうか…。

0 件のコメント:

コメントを投稿