2010年11月12日金曜日

「当事者性」をめぐる問題

2010年11月12日(金)
<わたしの混乱>
 luxelさんとのやりとりでアトピーがちょっとわかった気になり、脱ステ医にもはじめてあってほっとして…「いい気」になってきたところで、「がつ~ん」ときました…。
 帰宅して「わすれないように!」とブログを更新し、メールをみると「朝日新聞」の記事に関するメールがいくつか…。そのほかのメールもいくつか…。うかれていた自分がはずかしい…。血の気がひく思いでした…。とりあえず、自分の混乱をおさめるためにも、順をおって書いてみます。

<批判する「当事者」として>
今朝、職場についたら、「いいの? あの記事」と話しかけられました。「新聞みた? ふっくん、ほんとにステロイドやめて大丈夫?」と言ってくれた人もいます。いつのまにか「脱ステ医もとめて、欠勤」の話をしっている人がふえていました…。気にかけてくださって、ありがとう。
でも、おどろいたのは、これまでステロイド問題に関心がなかった人たちですら「あれ、私がよんでも結論は『正しくステロイドつかいましょう』だよね」とみこしていることでした。みんなでこのあと、今朝の記事をみて「やっぱり、こうきたんだ…」と。せっかく、関心をもってくれる人がふえても「現状とはちがうこと」(いや、正確には「ほんの一部のかたよった現状」ですよね)をつたえられても…。朝日新聞の記者さんには、ぜひ「科学的」な探求心をもって、「かたよりのない取材」をこころがけてほしいです。
それにしても、4回目の記事は、既視感が…。まさに深谷先生の予想どおりの展開でした。これ一つとっても、これまでの先生の立場の厳しさが、わかるような気がしました。

<「ねじれた」当事者性>
 さて、昨日はあまりにもしーな先生からの情報がおおくて、昔からメモをとるのが苦手(かなりLD傾向たかし)なわたしは「パソコンもってくればよかった~」とおもいつつ、先生の言葉を記憶するのに必死で、おおくのことをききもらしました。
そのうちの一つが、「すねとあしの甲、手の甲の貨幣状湿疹は、ほんとにステロイドのリバウンド(もしくは、依存症)ではないのですか?」ということです。この3つは、これまででもっとも、しつこく、ながく、ふっくんの肌の上にいすわっています。とくにすねは、本でみるような、あーちゃんがいうような、直径1センチ大のかさぶたが定期的にごそっとはがれおち、じゅくじゅくになり、うすかわがはり…をくりかえしています。
ほかは、わかります。肘の内側、膝の裏側のこまかい横にはしる線状のキズ、これは、ここ1ヶ月でできたものです。「極端な乾燥に起因しています」という説明は、明確でした。昨晩、ふっくんと相談したものの、この1センチ大のかさぶたに、保湿剤をぬるときは、そうとう覚悟がいりました。「また、かゆがったり、悪化したら、やめればいい」そう思ってぬりました。
 でも…でも…ふっくんには、その私のまよいが、つつぬけだったようです。けさ、「血液検査、いつ行こう」といったら、ふっくん、ぼそっと「いかない」と。ききかえしましたが、もう返事はしません。
 「アトピーの当事者」は、ふっくんです。でも、「脱ステロイドの当事者」は、わたし。わたしには、アトピーのつらさは、わかりません。でも、ふっくんにはステロイドや保湿剤の意味はわかりません(「わかりやすく・すべて説明する」をこころがけていますが…どこまでつうじているのか…ひっくんの方は理解したようで、ときどき補足説明してくれてます…)。この「ねじれた関係」…むずかしいです。ふっくんにとっては、ときどき医者に言って毎日薬をのんで、ぬってというルーティンが、ある日私によって、変化しはじめた。これまで彼にとって「ふつう」だった世界が、とつぜん「薬はどれにする」「たべものは…」と、話題にされ、ためされ、問いかけられ…。非日常にほうりこまれてしまいました。わたしが、ふりまわしていることに…なりますよね、やっぱり。

<「非当事者」「代弁者」という関係>
 さて、あーちゃんからもメールがとどいていました。
「『あーちゃん』をつかって主張したいことがあるならつかってかわまない。でも、あれは、私ではありません」と。
 内容をぜひ、紹介させてください。また、ここで私が「代弁」するのは、「ねじれた関係」になってしまいそうです。でも…、あーちゃんのことは、いつかあーちゃんに書いてほしい。ですから、また私の翻訳版「あーちゃん」としての登場です。
 あーちゃんは「波のことなんか知ってたよ。患者歴二十数年なんだから…」と。「ステロイドつかってたって、波はある。脱ステにあたっては、調べまくったからしっていた。わたしの問題はそんなことじゃなかった」と。あーちゃんのかんがえる「うつ」の原因は、やっと決断して言った脱ステ医でも、「適切なイニシアチブをとってもらえなかった」「自分のうったえをとりあってもらえなかった」ことにあるようです。
 たとえば、医師は皮膚状態にしか注目してくれない。脱ステにともなう発熱や欠尿、頻脈、疲労感、神経のたかぶり…などなど、なんの説明もされず、「そういうこともあるよ」と放置される。「自傷行為にはしり、精神科の受診を希望するも、自傷行為を注意されるだけ。「目がみえにくい」とうったえてもとりあってもらえない。結局、彼女は白内障の手術をうける。
 彼女の絶望は、脱ステ医すら「脱ステにともなう危険について熟知していない」ことにあり、それなのに、自分の訴えに真摯にむきあってもらえないむなしさがうつのひきがねとなったといいます。
 このメールは、ソフトな書き方だったけど、私への抗議文だったとおもいます。
 じつは、この脱ステ病院でのこれらのできごとをあーちゃんにきくのは、はじめてではありません。でも、ふっくんの「脱ステ」を応援するために語られた「物語」とは、こんどはちがいます。はっきり「ぴーふけ」となざされ、彼女のやりきれなさ~おそらく、自分を理解されていないという悲しみ、かんたんに自分をわかった気にならないでという怒りなのだとおもいますが~をぶつけられた。
 これまでの彼女と私は、ふっくんの「アトピー」にむけて、ならんで語ってきたのかもしれません。彼女が自分の体験を語っても、私の視線はふっくんの「アトピー」をみていた。それをあーちゃんに、指摘された。わたしには、わたしの固有の「アトピー」の物語があると。はじめて、私は彼女の「アトピー」にむきあった気がします。
 あーちゃん、ごめんね。メールをよんで、血の気がひきました。でも、メールをくれてうれしいです。
 さて、彼女は、のちに、深谷先生のあつめた論文のなかに、こうした症状について報告されているのを発見し「1991年にもう、わかっていたのか〜」と、愕然としたそうです。それなのに、今回の朝日の記事。彼女の落胆は、わたしのそれとは比較にならないとおもいます。まさに…前に紹介した市野川容孝さんが指摘するように「医者ー医者」関係、「医者ー社会」関係の問題がみおとされた結果の記事のようにおもいます。
 また…今回のあーちゃんのメールのおかげで、わたしはこうめさんの気持ちにもちょっとちかづけたようにおもいます。こうめさんは、深谷先生のことをたいそう心配していらっしゃいます。わたしが「深谷先生にみてもらいたいところですが…。しーな先生に会いに行ってみます」と書いただけで、深谷先生をそっとしてほしい、いまの生活をまもらせてあげたい等々を切々とうったえるお返事をくださいました。じつは、そのとき「大丈夫ですよ〜。わたしだって、うつで離職経験ありますから(笑)」ぐらいにおもっていました。でも、こうめさんにとっての深谷先生は、わたしが想像する以上にありがたく大切な存在なんだと、再認識しました。
 わたしたちは、ともすると同じアトピーということで、つながれる気がします。でも、それは全部ではありません。アトピーは、個々の人にとって固有の経験です。
 宮地尚子さんは、『環状島−トラウマの地政学』(みすず書房2007年)のなかで、「部分的同一化」にとどまることの重要性をといています。「全面的同一化」は安心感はもたらすかもしれないが、お互いの差異をつぶすこと、経験を「代表」してしまう点においてあまりにも危険だとしています(p.118)。宮地さんが主張するように、お互いの経験も、めざすところも、すこしずつずれがあることを意識しつつ、でも「この1点では、一緒にがんばれる」という共通点をみつけて、声をあげていけたらうれしいです。
 そうそう、luxelさんやけーさんからも「朝日新聞の抗議、わたしもいろいろかんがえます。がんばりましょう」とメールをもらいました。「なかまがいる!」とうれしかったです。
 みなさん、これからも、よろしくおねがいします。

<環状島とアトピー>
 きのう、脱ステ医遠征中、ふっくんの相手のあいまによんでいたのが、この宮地さんの本でした。トラウマをめぐる被害当事者、支援者、研究者、加害者の関係を「環状島」という、う〜ん、真ん中が空洞のエンゼルケーキ型をおもいうかべていただくといいでしょうか。
 彼女の説明を、ごく簡単にすれば、まんなかの空洞が「被害の声をあげられないほどダメージをうけた人」そこから徐々に声なき声をあげる人が山をのぼり、山の頂点に被害を訴える人たちがいる。その山の周囲には、無関心な人や傍観者がいるのですが、その中から支援しようとする人が山を外側からのぼる。山の頂点で支援者と被害者がともに声をあげる…そんなイメージだそうです。頂上にたどりつく人の数がふえるほど、社会にアピールする力がつよくなる。でもその頂上はたちさることもできる場であると…。
 そして、つねに「内輪もめ」はおこる。とくに「被害者」の怒りや、糾弾の矛先は、「支援者」や「同じ被害にあっているのに、考え方のちがう人にむけられやすい」。なぜなら、「外側」にいる人たちには、「怒り」すらとどかないから。でも、この「内輪もめ」は、傍観者、とくに加害者にとっては、ありがたくもおもしろい「見せ物」となる…といった説明です。
 彼女は、その「怒り」や「糾弾」を正面からうけてたたなくてもいいのではないかという。でも、その場はたちさらない。そのままとなりに立っていることが、支援でありうると。
 なんだか、わたしはここをよんで、「あとっぷ」のあり方をおもいおこしていました。脱ステ者も、ステ使用者も、重度アトピーも軽度のアトピーの人も、いっしょに集ってわらいとばそうという山下さんの願いは、この宮地さんの提案する「環状島てっぺん」での助け合い方、協同の仕方に非常ににかよっています。たぶん、山下さんの固有の「アトピー」経験も、「トラウマ」的なできごとだったのではないでしょうか。だからこそ、そんなあり方を理想とする会をたちあげようとした…。
 宮地さんは、ある日、トラウマをひきおこした問題の重要性が自分のなかで下がっていて、生活に影響をおよぼさなくなった人たちを例にあげ、それこそが「回復」のあり方ではないのかといいます。内側から頂点にのぼり、いつのまにか外側にすべりおりる。しかし、「支援する人」としておりきらずに外側の斜面にたちつづける人たちがいると。たぶん、山下さんも、こうめさんも、いま、ここに立っていらっしゃるのかもしれません。
 ふっくんにとって、いまのアトピーの経験は、どのようなものになるのでしょうか。からだアトピーがでていたとしても、生活の中においてはその重要性はひくい。そんな生活が、「アトピーとつきあう」理想のかたちかもしれません。ごめんね、もうすこし、おかあさんにつきあってください。
 「環状島」については、クリアな説明ができなくて、ごめんなさい。また、いずれ整理してかんがなおしてみます。
 おやすみなさい。

<きょうのふっくん>
 なお、きょうのふっくんは…また、ワセリンをぬった側のすねをもうれつに掻いていました…。でも、肘の内側は、はやくもきれいになってきました。膝下の保湿…またまた躊躇しています。あしたも、かゆがったら、すねは、やめます。

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